墓と遺言書について思うこと

鈴木 美紀

小林秀雄の旧宅、山の上の家で行われている「小林秀雄に学ぶ塾」に参加するようになって、はや丸4年がすぎた。池田雅延塾頭の導きのもと、小林秀雄晩年の大作「本居宣長」を12年かけて皆で繰り返し読破するという壮大な計画も、気づけば三分の一が終わってしまった。この間、「言葉」「歴史」「道」というテーマを塾頭から与えられつつ、己が問いを発する訓練をそれぞれに行っているのであるが、私はなぜかこれまで、導入部の総論の文章に囚われてしまい、飽きもせずこの部分を眺めつづけている。そして、「宣長の墓と遺言書について、宣長らしさについて」を、己が問いとして抱きつづけている。

問い:宣長の遺言書について、小林先生は「宣長らしい」という。墓については「簡明、清潔で、美しい」という。逆に、それ以外のことはほとんど何も言及していない。宣長の遺言書とそれに基づいて作られた墓は、宣長という謎めいた人物の謎の一つである。そしてこの謎が、一つの起動力となり、最終的に小林先生の宣長について書きたいという内的衝動が実際に動きだしたのかもしれないなぁと思う。「最後から逆に宣長の人生をたどろうとしている訳ではない」と言ってはいるが、やはり本の最初に遺言書が出てくる意義は深いのではないかと考えている。小林先生のいう宣長らしいとはどういうことだろうか。

以下、自分なりの遺言書に関して思うことを書く。

小林は、宣長の遺言書をまるで随筆と感じ、宣長の人柄をまことによく現し、思想の結実、独白、最後の述作と言いたいという。宣長があと数年長生きすれば、この遺言書が台本となって、宣長とその周囲の人々による、もう一つの思想劇(対話劇ともいえるか)が繰り広げられ、現存する以上に、宣長にまつわる記録が残った可能性もあった。でも実際には、遺言書に関しては弟子たちとの本格的な対峙がないままに終わってしまった。

宣長は何故このような遺言書を書いたのか、小林はなぜこの本の冒頭で遺言書を取り上げたのかは、私には、にわかには解き明かせない大きな謎である。どうしていつまでも「謎」なのか。宣長についての残された資料や史跡というのは、たとえばまるで私たちにとっては、一つの光源が一瞬の宣長の影を見せ、その残像を見たと思ったら、また別の光源が別の影を見せているかのようだ。追いかけているのはいつも本物の影ではなく、あたかも幻影を見ているかのように思えてくる。間に介在するものが増えれば、宣長の姿は幻影のそのまた幻影の幻影ぐらいに、ものすごく遠くてはかない。思うに、この影を追って行けばいいと確信できた人にだけ、影はその人にとって本物の影である。小林にとっては、遺言書とその墓が、宣長本体に繋がっている確かな影の一つだったのだと思う。「古事記伝」よりも、「紫文要領」よりも濃い影に見えた瞬間があったのかもしれない。影を追ってたどった足跡が一つの道となり、その先に真に見たいもの、心から欲したものがある、はずである。どこまで行けるかはその人次第。それはひとつの信仰ともいえるようなものに近いのではないか、とも考えている。

小林も若い頃から、「古事記伝」や「紫文要領」をはじめ、様々な宣長の著作や宣長伝などを通じて、宣長の影を色々と幾つも見ては消え見ては消えを繰り返したのではないか(小林は頭がいいから消えないでいたかもしれないが)。そしてとうとうこれぞという消えない影の尻尾をつかみ取り、逃さずに自分が光源となって、らせん階段を登るかのように影の本体を立体照射していった結果、得られた一つの宣長の姿というのが、この「本居宣長」という本になっているのだと思えてきた。自分は宣長の影をつかんでいるし見ていると確信して、言葉というのみで宣長の彫像を彫る。それはたとえば、天からの蜘蛛の糸のように信じてたぐっていくものである。一人で登っていようが、後ろに群衆がいようが関係ないのである。迷ったら消える。そういう影である。影ではなく別の言い方をすれば、小林にとって宣長の遺言書と墓は、宣長を覗くための遠めがねとも言えるし、宣長への冒険の入り口だったともいえるだろう。信じて使っている小林にとっては最高の遠めがねでも、信じていないし興味もない人にとっては見えないめがねであろう。小林にとっては入り口にみえても、信じていない人にはただの紙と石だろう。そういうもののたとえとしては、ハリー・ポッターの9と3/4番線ホームにも似ていると思った。

小林は若い頃から、宣長の世界へ壁抜けする意志はずっと持っていたと思う。そしていちばん間口が大きそうな「古事記伝」から入ろうとしたけれどしっくりせず、「源氏」も試したけれど今一つで、付かず離れず遠巻きに眺めながら入り口を捜し続けていたところ、あるとき遺言書と墓が、小林専用の宣長界への入り口に見え、まさにその時その扉が開いたのだと思う。そしてどこに通ずるかもわからない、戻ってこられるかどうかもわからないその入り口を信じて入った。だからこその小林のセリフが、「私が、ここで試みるのは、相も変わらず、やってみなくては成功するかしないか見当のつき兼ねる企て」(第1章)なのであり、宣長界を潜り抜けて出てきた最後のセリフが、「又、其処へ戻る他ない」、「その用意はした」(第50章)なのであると思う。自分一人で真っ暗な宣長という地下帝国を探検し、後続の人の為に小林風の地図を作ってくれたといえるかもしれない。小林は自分が見たと信じた影をたよりにひとつの宣長像という彫像を彫りぬいた。12年もかけてひとつの作品として仕上げた。入り口から入って、遭難せず、怪我もせず、無事に抜けて出てきたところが、かつての入り口と一致したのだと思う。相手は宣長である。真っ暗なブラックホールに飛び込むようなものである。

小林は還暦を過ぎてから宣長の執筆を開始した。満を持して、いよいよ始めるに当たって、もしかしたら意外と軽い気持ちで思い立った宣長の墓参りは、思いのほか宣長という人物に、一層の興味をかきたてるものがあったのだと思う。ある程度、年を取らなければ、あるいは末期がん等で自分の死を意識している人でもなければ、遺言書や墓になんて絶対本気で興味を示さない、と私は思う。誰しも、飛鳥の石舞台とか、エジプトのピラミッドを見れば、墓へというよりは古代への情緒をかきたてられるかもしれないが、普通は12年も考え続けられる思索の起動力にはならないのではないか。(中にはそういうことをきっかけにして、たとえば考古学者になる子供もいるかもしれないが少数派だろう。)遺言書に織り込まれた宣長の思想は、小林にとっては12年も考え続けられるほどに切実ななにかがあった。だから図として本にも取り入れた。なぜだか、それほどに、小林にとっては遺言書がなんとも面白く、魅力的なものにみえたようである。小林にしても墓に戻るつもりで書いていたわけではなかったと思うが、期せずしてというか、必然的にというか、戻ってきてしまったように見えなくもない。切実ななにかとして、「宣長らしい」というのは、ひとつのキーワードである気もする。

一つの理由として、今自分が考えていることとしては、遺言書は宣長だけで吟味されたものであり、弟子や門下の者たちとの論議が加わっておらず、おそらくはその後の書き直しや付けたしなどの推敲の跡もなく、純粋に宣長の肉声だけがそのまま保存されていることが大きいと思う。まさに独白が保持されているのである。小林の眼はいつも、何をしたか以上に、どうやって成し遂げたかを見たがる。完成品の舞台裏を見たがる。きれいに整った完成品には無いものを、生き生きとした気取りのない荒削りの宣長の肉声を、小林は遺言書から聞いたのではないだろうか。

先に述べた、資料や史跡が幻影ならば、自分が光源とはどういうことかといえば、自分が今この場に生きているということだと思う。本でも人でも絵画でも、何かと対峙して、自分が感じたこと考えたことというのが光であり、薄かれ濃かれ何かしらの影=記憶は生まれる。火傷するほどの影であることもあるだろう。逆にどんなに薄い影でも頭の片隅には記憶として蓄積され、次に同じことや似たことがあればよみがえり、徐々に濃くなり、再生可能な記憶になっていくのだと思う。

影をより鮮明に再生しやすいようにするにはどうすればいいか。人に語ればそれは整理され、書けば一つの姿となる。だから宣長は書いた。何でも描いた。宣長は書かなくても頭がいいからずっと覚えていたとは思うが、より精しく記憶するために、的確に無駄なく頭から出し入れするために、書くことを常としていたとは思う。そして書いて整えた最終稿を、基本的には著作として残していった。小林も、宣長の世界に入り込んで旅する間、一生懸命に想い考えて宣長の影が消えてしまわないように追い求めて書いた。時の流れの中で、光源の強弱はあったとしても、やむことなく宣長の全作品を投影しつくし、「古事記伝」という一番遠いところから出るのではなく、自分にとって一番近い遺言書からまた出てきたのだと思う。

宣長の遺言書も墓も、ものすごく個人的な物である。あるとき宣長は葬式について考えた。町でたまたま葬式に出くわしたのかもしれない。身近な人でないと具体的に想像しにくいが、空想にしても弟子や息子が死んだことを想像するのは忍びないから、自分の葬式と仮定してみた。役者、衣装も全部自分で考えてみた。そしたらますます楽しくなって式次執り行いのすべてを演出してみたくなったのだろう。そして彼の性分として、まずは第一次資料として書いておいた。まだまだ熟考して楽しむつもりだったのかもしれない。それはたまたま、後の世から見れば彼の死の前年だった。現存する遺言書はそういうものなのではないか、とまずは考えてみた。まだまだ時間があれば、より精巧になったか、はたまた違う考えが浮かび別のものをつくったか。でもしかし、相手は宣長である。一つの文体は一つの作品である。その時にしかできないものである。だから、宣長レベルの人では、第一次資料ではなく、すでにそれなりに出来上がった作品と言えてしまうのかもしれない。まだ荒削りではあったかもしれない。ただの台本で、舞台稽古も始まっていないような段階で、宣長は死んでしまった。終演を迎え緞帳が降りたとみなすべき舞台作品とはいえない類の姿で、肝心の宣長はこと切れてしまった。でも、別の見方をすれば、門下と議論を重ねた後の全くない、純粋に宣長の肉声だけで構成された希少品であるのではないかとも思う。

宣長という人は、伊勢の国松坂の一介の町医者である。都の暮らしも知ってはいるけれど、たとえば今のように新幹線に乗って、日帰りで年末に京都の南座をちょいと見に行くなんてできない時代。ならばお楽しみで、せめて自分の頭の中では最高の舞台を作ってみましょうという、なんとも子供らしい発想で、いつもいつも頭の中は一杯一杯の大忙しだったのだと思う。留学した京から帰ってきて以来、宣長は何十年も松坂でそのように暮らしてきた。そういう意味で、宣長は文筆、絵、演出、編集等々の何でもかんでもを、一人でこなしてしまう多様な作家であったといえるのではないか。なんとも稀有な人物である。制約の中でめいっぱい遊びきる「好、信、楽」の人であった。遺言書もそのような遊びの一端であり、でも本気であり、そしてたまたま時間的にも宣長の人生の終端に位置してしまったのである。小林は、期せずして最後の作品となってしまった遺言書や「枕の山」の桜の歌を、小作品だけれど宣長らしさが出ているとみなしているのではないかと思う。自分のことばかりを書いた遺言書をみて、小林は健全な思想家の姿が、其処に在るという。つまり、遺言書の体裁をとった独白であり、信念の披瀝だというのである。そこには生き生きとした当時のその時のなまの宣長の考え、肉声が、まるで瞬間冷凍されたかのように新鮮なまま残されていた、と小林には思えたのではないかと思う。だから遺言書や墓は小林と宣長を直接に繋いだのだと思う。

思うに、宣長は今を精いっぱい生きる人であった。自分の気持ちに正直な人であった。思ったことをすぐに実行して、先送りしない人であった。宣長は台本(遺言書)ができたら、上演してみたくなった。だから墓の候補地を見に行った。当時は、田舎の町民が旅の途中でもないのに、里から離れた山中を一人でフラフラしていたら、その家族は世間から白い目でみられてしまうことだろう。だから、宣長は墓の土地を見に行くのをあきらめるか、伴を連れて行くしかないのである。健全な常識的な松坂の一生活者として、71歳にして一人で墓候補地に行くという選択肢は存在しなかった。一方で、宣長の性格からして、見に行かないという選択肢もなかったであろう。家族に迷惑をかけない範囲で(それでも多々迷惑ではあったと思うが)、自分のやりたいことを存分にする人であり、今やりたいことを今やる人であった。小林はそういう宣長を、生きた個性とか独自な生まれつきという表現で表しているのだと思う。小林曰く、宣長は常に、身の丈にあっていることを、生活感情に染められた文体で表現した。もし宣長がもう少し長生きしたら、この遺言を廻って、弟子たちとの議論やすり合わせがあり、もしも対話による熟成があったら、宣長の墓は松坂では大流行のご当地様式にまで発展したかもしれないし、しなかったかもしれない。そういう思想劇を私たちは見損ねてしまったわけである。

山の上の家の塾に入ったことにより、このように「本居宣長」を読みながら、つらつらととめどなく思いを巡らすことができるようになってきた。入塾初年度に、この本を初めてまずは自分で通読した際、母国語である日本語の本とわかっていても、わからないまま、響かないまま最後まで行ってしまった体験が、今はただ懐かしい。第5章の終わりの「契沖は、既に傍に立っていた」というト書きと、第50章の「もう、終わりにしたい」というセリフだけが残った読書体験であった。それがいまではこの本に慣れたことにより、小林秀雄の声が少しずつ聞こえるようになってきた。塾で連れ立って松阪を訪れたこともあり、その際、本居宣長記念館の吉田悦之館長から、数々の資料を見ながら様々な宣長のエピソードを伺った。その経験からも、何となく、宣長の文章やエピソードは、いつでもどこでも、宣長らしいなぁと思わせるものが、確かにあるような気がする。でも、どこがどう宣長らしいのか、具体的には、なかなか上手く言葉にできない。第4章で宣長の「玉かつま」を引用した後に、小林は「……もし、ここで、宣長自身によって指示されているのは、彼の思想の源泉とも呼ぶべきものではないだろうか、そういう風に読んでみるなら、彼の思想の自発性というものについての、一種の感触が得られるだろう。だがこれには、はっきりした言葉が欠けているという、ただそれだけの理由から、この経験を、記憶のうちに保持して置くのが、大変にむつかしいのだ」と言っている。似た感覚ではなかろうかと思う。

こういう感覚を自分の中でより確かにしていくために、もっと上手に伝わるように言語化するために、この「本居宣長」という本を繰り返し読むことは、すごく楽しい。「思う」とか「気がする」とかひと言でいっても、理解度や把握度、直観度には雲泥の差はあるけれど、宣長を読んでいた小林にも、先に書いてあるようにこういう感覚はあったと思うし、この山の上の塾に参加しつづけている皆に共通する感覚だと思う。皆が個々に小林の声を聞いて、自分の中で鳴らして、自分の声にして、そして互いに共鳴することができたら、すごくいい音楽になるのだろうなぁと思う。

 (了)