歌を詠み、いにしえにつながる

越尾 淳

新年間もない2017年1月8日。冷たい雨の中、私は東京・天王洲アイルにいた。1年前に亡くなった英国のロックスター、デビッド・ボウイの世界巡回中の大回顧展が日本での初日を迎えたのだ。歌舞伎や京都を愛し、山本寛斎や大島渚との交流など日本とゆかりの深い彼の展覧会とあって、幅広い世代の熱心なファンが詰めかけ、大変な熱気であった。

私がいわゆる“洋楽”に関心を持ち、10歳で初めて買った洋楽のシングルレコードがボウイの「ブルージーン」という曲で、シンセサイザーやホーンの目立つ華やかな曲調に大人の音楽を感じたものだ。

回顧展にはボウイがライブで着用した衣装、写真、スケッチなど様々な物や映像などが展示されていたが、一際目をひいたのが彼直筆の歌詞や譜面だ。ボウイ自身の手から数々の名曲が綴られた場面が目に浮かぶようで、一体彼はその時何を考え、どんな気持ちで歌詞や音符を書きつけたのだろうと思った。

そこで頭に浮かんだのが、和歌のことだ。音楽好きではあるが、残念ながら音楽の素養が皆無の私には作詞、作曲といったことは到底できない。しかし、自らの気持ちを文章ではなく、何かもっと象徴的なものにまとめてみたいという欲求を漠然と抱いていた。

そんな折、近代日本を代表する批評家、小林秀雄を学ぶ場との出会いがあった。代表作の一つである「本居宣長」を十二年かけて読もうという大変な取組をしているのだが、その学びの中で歌会が行われていると知り、「これだ!」と思ったのだ。

聞けば4年前、「本居宣長」の熟読が始まったばかりの頃、講義の後でひとりの塾生が池田塾頭に尋ねた、もののあわれを知るには、どうすればいいのですか、と。塾頭は、その問いに、和歌を詠むことです、と答えた。このやりとりを傍で聞いたもうひとりの塾生がその日のうちにメールで呼びかけ、あっという間に歌会が発足した。以来、3カ月に一度のペースで会がもたれている、というのである。

記憶をたどれば、中学生か高校生の頃、国語の授業で和歌を詠んだ気がするが、今や何を詠んだのかも全く覚えていない。言うなれば、詠歌の真似事だったように思う。そんな私が改めて詠歌に取り組んでみようと思い、手を挙げて参加したのだが、これが苦しい。「三十一字に収めないといけない」という形式に縛られ、歌会は毎回苦労の連続で正直疲れてしまい、「詠歌ってそもそも一体何なんだ?」と参加を少々後悔するようにまでなってしまった。

そんな折、「本居宣長」を読んでいると、宣長は、人が持って生まれたままの「まごころ」は、事によりうれしかなしと動く、これに対して私たちは、受身で、無力で、私たちを超えた力の言うがままになるしかない、その心の動きを言葉でとらえようとすることで心がしずまっていって歌となり、感情が具体化、客観化され、人生にとっての意味が認識されるのだと言う(第三十七章)。

また、美しい景色を見たり、人との別れがあったり、何らかのきっかけで心が動く。この力は圧倒的で、人はそのなすがままにされているしかないが、何もしなければ単なる心の動揺であり、これを言葉で捉えようとすることで歌となり、その動揺がしずまると言う。自分の拙い詠歌の経験からも「そうそう!」と思わず膝を打った。

さらに、ハッとさせられたのが、この詠歌という行為は、神代の人々が神に出会った直接的な喜怒哀楽の感情を、神の命名ということで表現した行為と同じものだという小林秀雄の言葉だ。小林はこう言っている、神に名前をつけるという行為は、「『事しあれば うれしかなしと 時々に』動いて止まぬ、弱々しい、不安定な、人のまごころという、彼の『まごころ』観の、当然の帰結だったからである」(第三十九章)。

これを読んで気づいた。なぜ詠歌という行為が今日まで絶えることなく続いてきたのか? それは日本人なら朝は「おはよう」と挨拶し、夜は「こんばんは」と挨拶するのと同じように、歌を詠むということは、日本人の歴史の中で当たり前に行われてきた、理屈を超えたことであって、一見神代の時代とは無縁と思える21世紀の私にも自分事として追体験が可能な、まさに日本人の歴史を現代に生きる己れの中に思い起こすことができる行為なのではないだろうか?

この私の気づきを、塾頭に尋ねたところ、大筋ではそのとおりとされた上で、二つ指摘された。

まずは「まごころ」のことで、「まごころ」と一口に言っても、誠心誠意、思いやり、欲望などと、人と時代によりその意味するところは様々だが、ここで宣長が言う「まごころ」とは、人間誰もが生まれながらに有するあるがままの心の意である。この意味での「まごころ」は、時代が移り、人が変っても変ることがない……。

二つめは、神代の神の命名と詠歌は、根源は同じだが何から何まで同じというわけではない。神代の神の命名は、「可畏かしこきもの」(事物、現象、事件)に向かい、畏、恐惶、恐懼などの感情、あるいは認識を言葉にしたものである。歌を詠む気持ち、心持ちがこれと同じならば、今日の詠歌であっても神の命名と同じと言える……。

であれば、詠歌が「もののあはれ」を知る近道とするなら、「もののあはれ」の核心は「可畏きもの」であると理解してよいかと重ねて尋ねたところ、塾頭からは「そのとおりだよ」とうなずきながら返事があった。

私の理解も加えるならば、神の命名というしるしは、より大きな心の動きとしての「もののあはれ」をとらえる歌へと発展した。さらに、歌はより多くの情報伝達が可能な文章となり、それらの集合体としての物語へと発展した。そして、「源氏物語」という日本文学史上の一大傑作を生んだ。

日本人がたゆまず続けてきた、心の動きを残そうという様々な行為の遺産の上に私たちの現在がある。この脈々と続いた大河の源泉には神の命名があり、歌を詠むことを通じて日本人の文化の原点に立ち戻ることができるのではないか? そう思うと、詠歌の意義ということに自分なりの理解と納得が得られ、「よし、改めて取り組んでみようか」と元気が出る気がしたのだ。

外国人の、しかもロックスターであるデビッド・ボウイの展覧会に来て、小林秀雄が論じた詠歌のことを考えるというのも不思議なものだ。しかし、案外両者は似た者同士なのかもしれない、と私は思った。

デビッド・ボウイは、「ジギー・スターダスト」の煌びやかなグラムロック、「ステイション・トゥ・ステイション」のソウルミュージック、麻薬中毒からの復活に苦闘したベルリン3部作(「ロウ」、「ヒーローズ」、「ロジャー」)、そして大ヒット「レッツ・ダンス」に始まる1980年代を代表するポップスター……と、彼のイメージは時代とともに目まぐるしく変化した。

小林秀雄も、ランボオ、ドストエフスキイ、モオツァルト、ゴッホ、本居宣長と論じ、詩人、小説家、音楽家、画家、学者と様々、大批評家が変幻自在に論じ尽くしたようにも見える。でも、ちょっと待てよ。

小林秀雄は己れの人生と真剣に向き合い、まさに一生懸命に生きた人たちを論じ続け、「じゃあ、君たちはどう生きるんだい?」と問いかけ、そういう彼の問いかけが多くの人々をとらえて離さない。デビッド・ボウイも自分がやりたいと思う音楽と真剣に向き合い、作品を作り続けたからこそ、今も世界中でファンを増やし続けている。

二人とも、自分自身にいろいろなものをぶつけてみて考えた人たちで、そこから反射して見えた光は様々だったし、作品に現れた表面だけを見ていると一見バラバラに見えるかもしれないが、その核にある自分というものは終生不変だった。不断に変り続ける、しかし変らない―そうした強さを持った二人だったのではないだろうか。

  Ch-ch-ch-ch-changes      変わるんだ
  Turn and face the strange 振り返って個性に向き合え

Changes/デビッド・ボウイ

(了)