ブラームスの勇気

杉本 圭司

小林秀雄が文化勲章を受賞したのは昭和四十二年十一月、「本居宣長」の連載が開始されて二年半が経過しようとしていた頃であった。彼の周りには、連日、報道関係の人間や来訪者たちが押し寄せ、しばらくは仕事が出来なくなった。原稿に向かおうとしても、祝い客や電話で気持ちが切断される、それが一番困ったと、彼は妹に語ったそうである(高見澤潤子『兄 小林秀雄との対話』)。

仕事に精神を集中してじっと考えていると、彼の頭には、いつも音楽が聞こえて来たという。その音楽をまたじっと聴いているうちに、書こうとする言葉なり、表現なり、構想なりが出てくる。ところがそういう時に、電話だとか訪問客だとか、外部から雑音が入ると、その音楽はぷつりと切れて消えてしまう。後でまた取り掛かろうとしても、もう一度最初からやり直さなければならなくなる、というのである。

この時、小林秀雄の中で鳴っていた音楽とは、誰の何という曲ではなかったことは勿論だが、彼が自ら想い描いた、ある具体的な旋律や和声でもなかっただろう。娘の白洲明子氏によれば、小林秀雄が原稿に向かっている時、音楽がかかっていたことはなかったという(「父 小林秀雄」)。原理的に、それは不可能であったはずだ。

彼の中に生じていたのは、おそらく、音楽が旋律や和声といった肉体を持つ以前の、あるいはその肉体の彼岸にあるところの、持続し、展開していく音楽の流れそのもの、音楽的に移ろう時間のあやそのものであったと思われる。彼もまた、「何よりもまず音楽を」(ヴェルレーヌ「詩法」)と希った叙情詩人の血を引く文学者の一人であった。彼の批評は、音楽の精神から誕生する。その文章は、音楽の如く歌い、思考し、感じようとするのである。

「音楽の精神からの」誕生とは、ニーチェがその処女作『悲劇の誕生』の初版のタイトルに冠した言葉である。ニーチェもまた、九歳の時に作曲を始めたというほど大変音楽を愛した人で、ワーグナーとの運命的な出会いと離反を経て作曲の道から遠ざかった後年になっても、「私は本質的に音楽家である」と断言して憚らなかった哲学者であった。小林秀雄は若い頃からニーチェを愛読し、最晩年になっても敬愛の情を失わなかったが、そのニーチェについて、次のように書いたことがあった。

 

彼の様な、抒情が理論を追い、分析が情熱を追う、高速度な意識には、音楽の速度しか合うものがない。(「ニイチェ雑感」)

 

「音楽家ニイチェ」を評したこの一文は、そのまま、小林秀雄自身の「高速度な意識」を象った言葉でもある。「音楽の速度」で考え、「音楽の速度」で文章を紡ぎ出すという点で、小林秀雄の文章にもっとも近いのは、あるいはニーチェの文章であったかもしれない。そして六十六歳を迎えようとしていた小林秀雄が語った、「『本居宣長』はブラームスで書いている」とは、自らの意識と文章を駆るその彼の「音楽の速度」が、ベートーヴェンのそれから、ブラームスのそれへと、言わばギア・シフトした、ということでもあった。

 

前回引用した坂本忠雄氏の一文には、「本居宣長」の連載中、小林秀雄が、「年を取ってくると、手に唾をつけないと縦糸と横糸がしっかりと織れない。それを読者に覚られてはならないよ」と述懐したことが書かれていたが、「音楽談義」の中でも、彼はそのことについて次のように語っている。

―もう六十になると、若い頃みたいな、元気のいい、リズミカルなインスピレーションというものは起こらないし、もっと細かく起こるし、長続きしない。これを続けなければならないとなると、ブラームスみたいな、ブラームスでやらないといけないということがわかるのです、だからブラームスをよく聴きます。ベートーヴェンなんかではとてもやれるものではない。……

そしてブラームスを、「本質的に老年作家だ」と断じている。

この「老年作家ブラームス」の話題に続けて、彼は、「モオツァルト」に書いた四十年前の「病的な感覚」について語り始める。二十六歳のある冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時に、突然、頭の中で、モーツァルトのト短調シンフォニーの主題が鳴った。その九小節のアレグロ主題は、彼が自ら思い浮かべたものではなく、はっきり聞こえてきたという。

一方、彼は、ああいう経験は若い頃にしかできないものだとも付言する。それは、あのような「インスピレーション」は、もはや今の自分には起こらないという意味であると同時に、それを、嘗ての「モオツァルト」のような文章ではとても書けるものではない、ということでもあっただろう。

「『本居宣長』はブラームスで書いている」、「ブラームスのように肌目が細かく、っている」とは、今はそういう文章を好むようになったという、単に審美上の問題として言われた発言ではなかった。老境に入った小林秀雄にとって、ブラームスの音楽は、自らのインスピレーションと文章を持続させるためにぜひとも倣わなければならないものとして聴かれていたのである。

 

「本居宣長」におけるその彼の文体の変化について、白洲正子が、小林秀雄と交わした次のような会話を伝えている。

ある時、彼女は小林秀雄に向かって、「今度の宣長は今までの作品とは違って、きらきらしたものが一つもない、だから本を伏せてしまうと、何が書いてあったか忘れてしまう、何故でしょうか」と尋ねたことがあった。すると小林秀雄は、「そういう風に読んでくれればいいのだ。それが芸というものだ」と答えたという。

またある時、嘗ての「無常という事」のような、ああいうものが自分はもっと読みたい、書いて下さいと言うと、彼は首を振り、あれは僕にはもうやさしい、いつでも書ける、だから書かないのだ、と言ったそうである(「小林秀雄の眼」)。

白洲正子の言う「きらきらしたもの」こそ、小林秀雄が言った、「若い頃みたいな、元気のいい、リズミカルなインスピレーション」であり、それはまたベートーヴェンの音楽の、とりわけ壮年期のシンフォニーやソナタ群にもっとも特徴的に表れているものでもある。太平洋戦争が始まった翌年以降立て続けに執筆された「無常という事」「西行」「実朝」などの諸篇から、終戦の翌年発表された「モオツァルト」を経て、「ランボオ Ⅲ」「『罪と罰』について Ⅱ」「中原中也の思い出」あたりまでの、四十歳代の小林秀雄が書いた文章は、生き馬の目を抜く鮮やかなレトリックと直観とが随所に迸っており、まさに「きらきらした」という形容が相応しい。たとえば、「『罪と罰』について Ⅱ」の終結部コーダは次のような文章で綴られていた。

 

ラスコオリニコフは、監獄に入れられたから孤独でもなく、人を殺したから不安なのでもない。この影は、一切の人間的なものの孤立と不安を語る異様な(これこそ真に異様である)背光を背負っている。見える人には見えるであろう。そして、これを見て了った人は、もはや「罪と罰」という表題から逃れる事は出来ないであろう。作者は、この表題については、一と言も語りはしなかった。併し、聞えるものには聞えるであろう、「すべて信仰によらぬことは罪なり」(「ロマ書」)と。

 

一方、その三十年後に書かれた「本居宣長」の結語も、同じく読者への呼びかけで終わる。

 

もう、終りにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頻りだからだ。ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば、全文が)、読んで欲しい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる。

 

ここだけ読み比べてみても、両者の文体に如何に大きな隔たりがあるかが感得できるだろう。しかも、連載終了後に書き下ろされた「本居宣長」最終章のこの結語は、この作品の中でも、小林秀雄が最後の最後に一つ見得を切ってみせたというような、ベルクソンの最後の著作『道徳と宗教の二源泉』の結語について彼自身が言った言葉を借りれば、「一種予言者めいた、一種身振のある様な物の言い方」(「感想」)をした数少ない箇所の一つなのである。「本居宣長」では、こういう物の言い方は努めて抑制されている。

それ故にまた、この作品には白洲正子が言ったような、「本を伏せてしまうと何が書いてあったか忘れてしまう」性質があることも事実であろう。小林秀雄自身、「本居宣長」を刊行した後の講演で、そのことを次のように、半ば冗談めかして語ったことがあった。

 

私の文章は、ちょっと見ると、何か面白い事が書いてあるように見えるが、一度読んでもなかなか解らない。読者は、立止ったり、後を振り返ったりしなければならない。自然とそうなるように、私が工夫を凝らしているからです。これは、永年文章を書いていれば、自ずと出来る工夫に過ぎないのだが、読者は、うっかり、二度三度と読んで了う。簡単明瞭に読書時間から割り出すと、この本は、定価一万二、三千円どころの値打ちはある。それが四千円で買える、書肆しょしとしても大変な割引です、嘘だと思うなら、買って御覧なさい、……(「本の広告」)

 

彼が凝らしたこの文章の「工夫」はしかし、「本居宣長」の連載開始とともにいきなり始まったわけではなかったはずだ。その直前には、六年間に及ぶベルクソン論の連載と中絶という大いなる紆余曲折があったし、事実、その第五回で、彼は、「私の文章は、音楽で言えば、どうもフーガの様な形で進むより他ない」とも書いている。フーガもまた、一つの主題が複数の声部に織り込まれながら、何度も循環するように進展するという点で、彼が坂本忠雄氏に語った、「音が繰返しながら少しずつ進んでいくように書いている」という言葉に通じる楽曲形式である。しかもその「フーガの様な形」をした文章について、彼は、戦後間もなく行われた「コメディ・リテレール」座談会で、すでに次のように発言しているのである。

 

例えば、バッハがポンと一つ音を打つでしょう。その音の共鳴性を辿って、そこにフーガという形が出来上がる。あんな風な批評文も書けないものかねえ。即興というものは一番やさしいが、又一番難しい。文章が死んでいるのは既に解っていることを紙に写すからだ。解らないことが紙の上で解って来るような文章が書ければ、文章は生きて来るんじゃないだろうか。

 

ここで言われているのは、主題の「繰返し」ということよりも、ある単一の主題から様々な経過句パッセージや他の声部が派生していく、その「音の共鳴性」や「即興」性についてであるが、小林秀雄の批評精神が常に描こうとする一種の変奏形式あるいは循環形式は、おそらく、彼の生得のものであり、ひいては彼の生き方そのものでもあった。

次に引用するのは、「様々なる意匠」で文壇デビューする二年前、二十五歳の時に発表され、後に自ら「僕の最初の評論」と呼んだ文章にある一節である。ここで言われた「螺階的な上昇」こそ、その後展開されることになる彼の批評文学の、一貫して変わらぬ方法論であり、彼の全生涯を図らずも予言した言葉であった。

 

人間は同じ円周をどの位廻らねばならないか! こうして人間はささやかな円周の食い違いを発見して行くのだが、この発見は常に最も非生産的な、或は愚劣以外の何物とも見えない忍耐を必要とするのである、沈黙を必要とするのである。(「芥川龍之介の美神と宿命」)

 

「『本居宣長』はブラームスで書いている」と言った時、小林秀雄は、自分にとって何か全く新たな、未知のものに着手したわけではなかった。むしろ、ここにきて、彼の生得、彼の天賦を、自覚的に、意識的に、延長しようとした、またその必要と要求を強く感じるようになった、ということだったに違いない。そしてこの彼の自覚の発端となったのは、「本居宣長」の連載開始ではおそらくなかった。その最初の啓示は、先に引用した「『罪と罰』について Ⅱ」が発表された翌月開始された、「ゴッホの手紙」の連載中に訪れたものと思われる。

(つづく)