ネヴァ河の流れ
―「大エルミタージュ美術館展」を観て

坂口 慶樹

1936年(昭和11年)の後半、正宗白鳥氏(当時57歳)は、ソビエト連邦(現ロシア)のレニングラード(現サンクトペテルブルグ)を旅していた。この街について正宗氏は、素っ気なく、相手を少し突き放したかのような、氏らしい文体で、こう綴っている。

「レニングラードは、西欧諸国の首都に比して、雄大であり古雅である。モスコーほど現代化されていないで何となく陰気らしいうちにも、前代帝王の貴族的意図が追想され、それを嘲笑し得るほどのプロレタリア文化が、さんぜんたる光を放つのは、遠い将来のように思われる」(「隣邦ロシア」、講談社文芸文庫『世界漫遊随筆抄』)

 

それから約30年、1963年(昭和38年)6月、小林秀雄先生(当時61歳)は、ソ連作家同盟の招きにより、安岡章太郎氏、佐々木基一氏とともに、ソビエト旅行に出発した。汽船、鉄道と乗り継ぎを重ね、極東のナホトカを経てハバロフスクへ。そこからさらに、疲労困憊の状態でモスクワへ向かう機中、先生は、前年に亡くなった正宗氏が、その数か月前に独語するように漏らした「ネヴァ河はいいな、ネヴァ河はいいな」という言葉を思い出していた(「ネヴァ河」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集所収)。

その後、一行は、レニングラードに到着、「ホテル・ヨーロッパ」に宿泊した。そのときの様子を、安岡氏はこう記している。

「エルミタージュ美術館に出掛ける前夜、通訳のリヴォーヴァさんが、『いよいよエルミタージュですよ、ようく休んで疲れを取って置いてね』という。『わかりました』と佐々木さんが謹厳にこたえる。そんなヤリトリを奥の部屋で聞いていた小林さんは、『なに、エルミタージュ? どうせペテルブルグあたりに来ているのは、大したものじゃなかろうよ』と、甚だ素気ない様子であった」(「悠然として渾然たるネヴァ河」、第5次『小林秀雄全集』内容見本)

しかしその翌朝。安岡氏と佐々木氏の顔は、一気に青ざめることになる。

小林先生が起きて来ないのだ。部屋に様子を見にいくと、そこはモヌケの殻。便所や風呂場にも影は一切ない。宿の鍵小母さんに聞いてみると、「今朝早い時刻に一人で出て行った」という。国家が招いた「招待客」(デリガーツィア)と称される特権的な旅行者であったにも拘わらず、それまでにも予約されていたホテルが勝手にキャンセルされていたり、突然部屋が変更になったりしていたことから、二人は最悪の事態すら想像せざるをえなかった。一体、小林先生に何が起きたのか……。

 

さらにそれから50年、2017年6月の金曜夜、私は、東京の六本木ヒルズにいた。目当ての「大エルミタージュ美術館展 オールドマスター 西洋絵画の巨匠たち」を観る前の心持ちは、前述の小林先生のそれと少し似ていたように思う。

「ロシアの画家による作品は全くなく、女帝エカテリーナ二世が、財力にものを言わせて欧州から買い集めた絵画ばかりでは……」

会場である52階の森アーツギャラリーに入ると、すぐに、派手ではないが優美な衣装を身に纏う、上品で少し誇らしげなエカテリーナ二世が、私を見下ろすように迎えてくれた(ウィギリウス・エクリセン「戴冠式のローブを着たエカテリーナ二世の肖像」)。「やはり……」

しかし、その後に観た多くの作品群を総括するには、この一言で十分であった、「駄作はなかった」。特に古い時代の作品が多い中、良好な保存状態にあることが印象的だった。

 

結果的に、作者の出身国別に分けられた展示室で、最も長居することになったのは、スペインの部屋である。中でも私は、フランシスコ・デ・スルバランの「聖母マリアの少女時代」(1660年頃)の前から離れることができなかった。

ほの暗い中、赤い服を着た少女が、針仕事の手を休めると、天を見つめながら、一心に祈り始めた瞬間。胸の下で丁寧に合された左右の手は、その思いの深さを感じさせる。私はそこに、画家の、その少女に対する汲み尽くし難い深い愛情を感じた。スペイン人のようにも見えるマリアのモデルは、画家の愛娘であったのだろうか。

気づけば、20時の閉館時間が迫っていた。残念ながら、階下へ降りざるを得なかった。私は、正直、もの足りなさを覚えた。もっとエルミタージュを体感したい。駅に向かう道すがら、ドキュメンタリー映画「エルミタージュ美術館 美を守る美術館」(マージー・キンモンス監督、2014年)が上映中であることを思い出した。上映開始は21時。ちょうどいい。そのまま有楽町へ向かうことにした。

 

私は、地下鉄に揺られながら、数年前、ボリショイ劇場芸術総監督を務めたアレクサンドル・ラザレフ指揮、日本フィルハーモニー交響楽団による、ショスタコーヴィチの交響曲第七番「レニングラード」の演奏を聴いて、その生々しく不気味な迫力に、終演後しばらく立ち上がれなかったことを思い出していた。この曲は、作曲家自身が、1941年のナチス・ドイツによる突如の侵攻で始まった「九百日封鎖」に直面し、「ファシズムに対する我々の闘争と、来るべき勝利と、そして私の故郷レニングラードに捧げます」という強い思いを込めて書いたものである。加えて、現地初演が、雨あられの砲撃、餓死、凍死、という極限状況の中、文字通り満身創痍の状態にある当地ラジオ・シンフォニーの演奏家らによって行われていたことも、当時の凄惨な映像や写真とともに、詳しく触れる機会があり、大きく心を動かされたことがあった。

 

映画館に到着し、本編の上映が始まった。私は、先ほど観てきたばかりの作品の多くが、そのように壮絶な戦火を避けるべく、学芸員の手により丁寧に木箱に梱包された上で、ウラル山脈へと送られていたことを、ここで初めて知った。さらには、第一次世界大戦時(1917年)にも、同様にモスクワへの疎開措置が取られており、その直後に、レーニンを指導者とするボルシェビキが、現在は同館の本館となっている「冬宮」を急襲し、あの革命が成し遂げられていたのであった。

この映画は、現館長であるミハイル・ピオトロスキー氏を追うドキュメンタリーでもある。氏は310万点にも及ぶ収蔵品の修復はもちろん、現代美術の展示や共存にも精力的である。私が最も驚いたのは、超現代的なビルにある最新の保管庫で、中央の通路を歩くと、透明の全面ガラスを通じて保管の状況がはっきりと見えるようになっている。館長も、学芸員も声高に語っていたのは、「美術品は、秘蔵するものではなく、公開し続けていかなければならない」ということであった。そこに、政府の管理下で公開が厳しく制限されてきた同館ならではの、強い意思を感じた。「私の使命は、エルミタージュ美術館を世界に開くことです」、そう語る館長によれば、今回の日本巡回展もその流れの一つだという。

私は、同館で大切に取り扱われてきた作品群を直に観て、また、そういう実践を、世代を超えて継続して来たロシアの人達の言葉を聴いて、戦争や革命、そしてイデオロギーというような、表を騒がせてきた事象からはなかなか見えてこない、長い時間をかけて黙々と築き上げられてきた、伝統や歴史に対する敬意や信愛の情のようなもの、そういう精神が、力強く底流してきている様を、強く感じた。

 

再び1963年のレニングラードの朝に戻ろう。ホテルで行方知れずとなった小林先生は、一体どこに行ってしまったのだろうか。

安岡氏によれば、「われわれが狼狽気味に部屋を探していると、『やあ失敬』と先生があらわれた。『朝起きぬけに一人でネヴァ河を見てきた』とおっしゃる。『ネヴァ河ですか』私たちは唖然とした。小林先生の地理勘は甚だ弱くて簡単な道にも直ぐ迷われるからだ」。

そういう安岡氏らの心配をよそに、小林先生はこう言ったという。

「しかしネヴァは、じつに好い河だ、悠然としていて、あれこそロシアそのものだ」

それから一行は、予定通り美術館へ出発した。前夜「大したものじゃなかろうよ」と言っていた小林先生は、実際に館内でどう過ごしたのか。

もう一度安岡氏の筆を借りると、先生は、館内「あちこちの膨大な絵画・彫刻のコレクションの山を駆け回って観た後など、芯から疲れきって、顔色がカチカチの鰹節のように、そそけだって見えたりもしていた」(「危うい記憶」、講談社刊『カーライルの家』)という。

 

それにしても、旅行中、朝は大抵一番遅くまで寝ていたという小林先生であったのに、あの日は敢えて早起きをし、「空は青く晴れ、おおきな濁流であった」ネヴァ河を独り眺めながら、いったい何を思っておられたのだろうか。

その水面に浮かんできたのは、先生が文学者となるにあたって、十九世紀のロシア文学に「大変世話になった」という意味での「ロシヤという恩人の顔」だったのだろうか。なかでも、その作品を読んで「文学に関して、開眼した」という、ドストエフスキーのことだろうか。

それとも、「永い間批評の仕事をして来た者として、本質的な意味合で教えを得た」(「正宗白鳥の作について」、『小林秀雄全作品』別巻2所収)という、敬愛してやまない大先輩、正宗白鳥氏のことだろうか。ちなみに、正宗氏がソビエト連邦を訪れてレニングラードの地に立ったのは1936年の後半であったが、小林先生と正宗氏は、その年の前半、1月から、トルストイの家出問題に端を発したいわゆる「思想と実生活論争」を戦わせていた。

 

いずれにしても、小林先生は、ただ感傷に浸っておられたのではないと思う。そこで、先生の心眼が捉えていたものは、十九世紀のロシアの大文学者達が、ロシアという独特な社会に生まれ落ち、人生如何に生くべきか、という中心動機を背負って黙々と歩いている姿だったのではあるまいか。さらに、その歩みに続くのは、正宗白鳥氏であり、また自分自身でもあると、そう直覚されていたのかもしれない。

 

 *参考文献
  小林秀雄「ソヴェトの旅」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第25集所収)
  「戦火のシンフォニー」(ひのまどか著、新潮社刊、2014)
  安岡章太郎「邂逅」(『新潮』小林秀雄追悼号、新潮社、1983)
 *参考情報
  大エルミタージュ美術館展 今後の巡回展
   名古屋展:2017年7月1日(土)~9月18日(月・祝)、愛知県美術館
   神戸展:2017年10月3日(火)~2018年1月14日(日)、兵庫県立美術館

(了)