八雲の道を訪ねて
―「山の上の家歌会」参加記

小島 奈菜子

2013年から4年にわたり、池田塾の分科会である歌会に参加してきた。会の目的や意図は、本誌第2号に藤村薫さんが「山の上の家歌会の誕生」と題して詳しく書かれているが、簡単に言えば、古語を使うことで、言葉に込められた古人達の心持ちを、身をもって知ることを目指している。今回、これまでの参加作品をふりかえる機会を頂いた。古いものは特に拙劣で恥かしいが、その都度最大の努力の結果ではあるので、この機に反省しようと思う。作歌は決して敷居の高いものではなく、気軽に誰でも楽しめるものであることが伝われば幸いである。

 

山の上の家歌会は、ほとんどの場合、本歌取りか題詠である。私は断然本歌取りの方が楽しい。本歌の向こうに歌人の姿があるからだ。それに比べて題詠の場合は、漢字一字が提示されるだけでとっかかりが少なく、働かせる連想の量が多い。2013年に行われた初めての歌会は題詠で、初心者の苦しみが歌になった。

 

◆2013年8月 題詠「静」
 しずまれというてもきかず山嵐 いろづくことのは我をせかしむ

 

心中の言葉たちはすでに感情に染まりひしめき合っていて、早く歌にして外に出したいのだが、一向に整えることができない。初めての歌会がとても楽しみなのに、作品ができなくては参加もかなわない。焦るうちに締切が近づき、こんな歌になってしまった。「静」という題を考えるには、心が騒ぎすぎていて歌にならない。そのこと自体を歌にするほかなかった。古語の文法では「いうて」は「いひて」であるし、必要以上にひらがなが多くいかにも拙い。

 

◆2013年10月 題詠「動」
 夜長しそらは白めど山のかげ あさ日隠して峰は動かず

 

続く第2回は「静」に対して「動」。普通に訓読みすれば「うごく」である。小林秀雄『本居宣長』第37章の冒頭に、「事しあれば うれしかなしと 時々に うごくこころぞ 人のまごころ」(玉鉾百首)という印象深い歌があり、塾生でこの歌を知らない人はない。似たような歌ではつまらないから、まずここから離れんとして「動かず」という言葉を据えた。動かないものといえばまず山である。富士に近い故郷が思い出された。山に囲まれた家の日照時間は短い。秋の夜が本当に長いのだ。空が白んでからも、しばらく朝日の姿は見えない。私はなぜそう焦るのだろう。待つことしかできないのに。待っていれば必ず夜は明けるのに。自然な連想から成った歌に、これほど心が映るものかと驚いた。

 

◆2014年2月 本歌取り
 山越えに根雪踏み分け行く人の こゝろをとめて早咲きの花
  〔本歌〕清見がた関こえ過る旅人の こゝろをとめてみほの松ばら

 (草庵集 巻第十 羇旅歌)

 

初の本歌取りの歌会。下の句が目に留まり、先を急ぐ旅人の足を止めた景色に思いを馳せた。ある日、根雪の残る急な坂道を、足元ばかり見ながら登っていた帰り道、ゆるやかにカーブしている数メートルだけ雪が溶けていた。その道はずっと桜並木だから、冬は葉が落ちて明るい。山に入って数十分、初めて空を見上げた。はやくも花が咲いている。よほど日当りが良いのだろう。気を抜いたらすべって転びそうな上り坂の雪道、合間のこの一角でひと息ついたのは私一人ではないはずだ。本歌の作者である頓阿とんあもまた、同じ道を行く他の旅人のことも思っただろう。「私にもこんなことがありました」と返歌のつもりで詠んだ。こんな小さな思い出は、歌にしなければとうに忘れていただろう。

 

◆2014年6月 本歌取り
 定まらぬ雲のすがたぞ山に映ゆ 影の流るる富士の高嶺
  〔本歌〕   詞書:たちばな
   あしひきの山たち離れゆく雲の やどり定めぬ世にこそ有りけれ

(古今集430 巻第十 物名 をののしげかけ)

 

「古今集」を読むうちに自分の好みがわかってきた。巻第十の「物名」は、題に出た物の名前を、いかに上手く歌中に織り込むかを競う言葉遊びの巻である。中世の歌人達がどれほど真剣に歌詠を楽しみ、遊んでいたかが伺える。そういう主旨とはいえ、歌の出来が悪ければ、物の名をうまく隠すことはできないから、ここに採られたのは名人ばかりだろう。

雲が主役の本歌に対して、眼下をさまよう雲たちを眺めて泰然としている、厳かな富士の姿を詠んだつもりであった。しかし歌会当日、「山」「富士」「高嶺」と意味が重なりすぎているという意見を貰い、また「高嶺」を「たかみね」と読もうとしたが無理で、「たかね」と読むのが通常である。どうも巧くないので歌会の後、次の形に修整した。

 

定まらぬ雲のすがたぞ峰に映ゆ 影の流るる富士の裾長

 

◆2014年11月 題詠「本」
 ふることによすが求むる言の葉の 姿の残るふみや貴し

 

題詠の場合、宮中歌会始と同じ題が設定されることが多い。この「本」という題もそうで、どのように歌に組み入れるかは各自に委ねられていた。音読みの「ほん」は和歌に合わず、「もと」という訓読みからは連想が広がらなかったので、書物を意味する「ふみ」から考えた。独自の文字を発明するより先に漢字に出会い、文字に頼る習慣とともに口承の物語が失われゆくなかで、かろうじて残ったのが「古事記」であると『本居宣長』から教わった。いまも「古事記」を読むことができる有り難さを、この時歌にしたかった。

 

◆2015年1月 本歌取り
 降る雪も根さへ枯れにし野にあらば まだしき花の散るかとぞ見る
  〔本歌〕   詞書:人の前栽に菊にむすびつけてうゑける
  うゑしうゑば秋なき時やさかざらん 花こそちらめねさへかれめや

(古今集268 巻第五 秋歌下 在原なりひらの朝臣)

 

和歌の貴公子、在原業平。六歌仙の歌に出会うと「古今集」仮名序の貫之の評が思い出される。あやかりたいと思って本歌取りをしてみたら、ありきたりな風景になってしまった。我ながら何とも情に乏しく、業平にはほど遠い。

 

◆2015年4月
 忘れじの人のかたみの花衣 色だに褪せよ風に散らなば

 

このときは本歌取りではなかったが、本歌取りとして詠んだ。本歌は「みな人は花の衣になりぬなり こけのたもとよかわきだにせよ」(古今集847 僧正遍昭)である。祖父が先年の秋に亡くなったので、哀傷歌ばかりを読んでいた。歌会当日、形見が色褪せて欲しいなどと普通は思わない、不自然だ、と意見を貰い、もっともだと思った。元々二つ案を作っており、もうひとつは次のように、形見が変わらないことを詠んでいた。

 

忘れじの人のかたみの花衣 うつろふ四時にかはらざりけり

 

だが一方、形見が早く風化して欲しい、というのも本心であった。葬式のさなか、己の利益ばかりを語る親族の存在に驚いた。往年の憎しみがその由来らしい。記憶が鮮やかなままでは彼も辛いだろう。形見とともに、恨みもまた生き続ける。私は、祖父の思い出に染み込んだ彼の色を洗濯したかった。そこまでの意味を込めるには、本歌のように詞書が必要であるが、この時そこまで思い至らなかった。本歌の詞書は長いので、註釈とともに「古今集」で読んで頂きたい。

 

◆2015年7月 本歌取り
 かはらざる言の葉繁きつまごひの ふみにこころの秋ぞおぼゆる
  〔本歌〕   詞書:寛平の御時きさいの宮の歌合のうた
   思ふてふ言の葉のみや秋をへて 色もかはらぬ物にはあるらん

(古今集688 巻第十四 恋歌四 よみひとしらず)

 

どう作ったのかまったく思い出せない。歌から推すに、恋の歌を読みながら、共感できずにいる己を残念に思っていたようである。

 

◆2015年11月 題詠「心」
 花紅葉過ぎし枯れ野にありてこそ 月に傾く心知るらめ

 

藤原定家に憧れるが、その境地はあまりに遠い。心が伴わないのに背伸びをしてもしかたがないので、若輩は若輩らしく、「三夕の歌」のような景色をポジティブに詠んでみようと思った。なにもない季節でも、月があれば充分じゃないか、あれがない、これがないと言わなくてもいいじゃないか、というひねた気持ちがあらわれている。

 

◆2016年1月 本歌取り
 水下にときを告ぐなり花筏はないかだ いづれ瀬にたつ泡となれども
  〔本歌〕   詞書:東宮の雅院にて桜の花のみかは水にちりて
        ながれけるを見てよめる

  枝よりもあだにちりにし花なれば おちても水の泡とこそなれ

(古今集81 巻第二 春歌下 すがのの高代)

 

本歌について調べるうちに、川に散った花びらが集い流れる様子を「花筏」と呼ぶと知った。都会の、季節感に乏しい下流の街に住んでいた頃、花筏を見て「そろそろ花見だな」と思うのが常だった。どれだけの堰を越えて流れてくるのか。いつまで浮かんでいられるものなのか。散ってもなお色を失わず、咲いている姿を思わせてくれる花たちを労りたいと思った。歌会の際、二句目が説明的であると意見を頂き、歌会後次のように変更した。

 

水下に春を渡せり花筏 いづれ瀬に立つ泡となれども

 

◆2016年5月
 しるべなき鄙野ひなのの道を訪ふ人を 待つや散らざる山桜花

 

題詠でも本歌取りでもない歌会なので、見た景色を詠んだ。通る人のない山中に咲く山桜の古木。私が来るのを待っていたかのように、目の前で惜しげも無く散ってゆく。ここは一体、夢かあの世かという見事さであった。
歌会の席で、「宣長さんのよう」だと塾頭が評してくれたそのときから、宣長が『古事記伝』を書くまで誰にも読み方がわからなかった「古事記」が、見る人の無い辺鄙な地に咲く花のように思われた。桜を愛する宣長と、「古事記」を愛読する宣長が重なって見える。もはや自分の歌ではないような感じがする。

 

◆2016年8月 本歌取り
 雲のみを引く三日月に夜を待てば 高瀬をはやみ影は去にけり
  〔本歌〕天のかは雲のみをにてはやければ 光とゞめず月ぞながるゝ

(古今集882 巻第十七 雑歌上 よみひとしらず)

 

本歌が気に入り、同じ景色を詠んだ。澪は「水脈」とも書き、舟の跡が水面に残るさまを言う。天の川を渡る月の舟と言うからには、満月のことではないだろう。舟は真上から見たら笹の葉のような形だから、月齢十日とか二十日前後の月かもしれないが、岸から見る形を思うと、雲の澪は三日月に引いて欲しい。強い風に棚引く雲に遮られて、ちらり見えては隠れてしまう細い月。ちょうどそんな季節だった。

 

◆2017年1月 題詠「語」

詞書:時を問はず、月は昼にも出でたるものなれど、日影は夜にはあらぬものにて、夜長き冬のつひなる時を待ちたるものとぞ思はるに

月読は夜に語らふ友なくに 春の訪なひ恋ひしかるらむ

 

このときの歌会に並んだ歌は、月を詠んだものが多かった。「花鳥風月」は定番だが、おそらくそれだけではない。忙しい日々の中で歌を作らんとすれば皆、仕事や学業を終えて寝るまでの合間、ひとり言葉と向き合うことになる。「語」る相手は月ばかりなり。では月は誰と語らうか。同じ夜空にあっても、星の声は小さくて、会話にならないだろう。太陽以上の友はあるまい。

この歌ははじめ詞書なしで投稿したが、あまりに言葉足らずだったので歌会後に追加した。昼の長い季節が恋しいのは、月も人も同じではないだろうか。

 

◆2017年5月 本歌取り
 花房を朽木にかざす藤が香に 心は今ぞ春となりなん
  〔本歌〕   詞書:女どもの見てわらひければよめる
    かたちこそみ山がくれの朽木なれ 心は花になさばなりなん

(古今集875 巻第十七 雑歌上 けむげいほうし)

 

本歌の作者は老僧である。外見を笑う女達に対し、この人は感情を表にはしなかっただろう。黙して歌の姿を整え、動揺した心を立て直した。彼を笑ったのは若い女達だろう。彼女らの心は、彼のように「花になさばな」ることはあるだろうか。彼が自らの姿を重ねた「み山がくれの朽木」に、花を手向ける思いで詠んだ。

五月の初め、鎌倉の北のほうで、老木に巻きつき、長く豊かな花房から濃密な香りを放つ藤を見た。支えるほうは大変な苦労だろうと同情したが、これだけ見事な花にあやかれるなら苦労のし甲斐もあるだろう。そんな立派な藤だった。日頃重い蔓を背負いつつ晩春を迎え、もう花の咲かぬ身に藤が匂う、今この時こそ我が春と、己を讃えて欲しいと願う歌となった。

 

以上、和歌を始めて数年の初学者の作歌がどのようなものであるか、一例として参考にして頂ければ幸いである。古歌の豊かな世界は誰にでも開かれている。食事をともにするように、身近に和歌を味わい、その魅力を共有する場が、一層広がることを願っている。

(了)