ブラームスの勇気

杉本 圭司

「私は、こんなに長くなる積りで書き出したわけではなかった」と、彼は足掛け五年にわたった「ゴッホの手紙」の最終章最終節に書いているが、この作品の構想と執筆には、いくつかの紆余曲折がある。

小林秀雄が「烏のいる麦畑」の複製画を観た「泰西名画展覧会」は、読売新聞社の主催、文部省の後援で、昭和二十二年三月十日から二十五日までと、翌昭和二十三年二月二十五日から三月十五日までの二回にわたって東京上野の都美術館で開催されている(二回目は三月十七日から二十六日まで国立博物館表慶館で延長された)。「ゴッホの手紙」の第一回が発表されたのは、二度目の展覧会が終った九ヶ月後であるが(『文体』第三号、昭和二十三年十二月発行)、前年十二月に発行された同誌復刊第一号の編集後記には、次号、小林秀雄の「ゴッホ」が掲載されることがすでに予告されているから、彼が上野に足を運んだのは第一回展覧会の二週間の間であり、その年のうちにゴッホ論の執筆を構想していたことがわかる。

「烏のいる麦畑」に感動した小林秀雄は、どうかしてこの複製画を手に入れたいと思い、知人の画商達に会う毎にそのことを話したと自身書いているが、友人の青山二郎には、「誰か、アレを貰って来て呉れたら、ゴッホを僕は書くんだがなア」と言っていたという(青山二郎「小林のスタイル」)。あるいはそれは、第一回展覧会の半年後、『文學界』昭和二十二年九月号に掲載された辰野隆、青山二郎との鼎談の席でのことだったかもしれない。この鼎談で、辰野隆が青山二郎に「画家からテクニックを抜いたら何が出来るだろう」と問うたのに対し、青山が、「その点、ゴッホはどうかな」と切り返すと、小林秀雄が「そりゃ大変なテクニシャンさ」と応じ、辰野隆の言葉を引き取った上で次のように発言している。

 

辰野 ゴッホは全世界を改め得るほどの健康なものを持ってたね。
小林 持ってた。病的なものじゃない。色はいかにも錯乱してるけど、感じは静かなんですよ。健康なんだ。まわりが病人どもに満ちていたから、ひどいところに追いつめられたんだ。

 

これが、小林秀雄がゴッホについて語った最初であった。「色はいかにも錯乱してるけど、感じは静かなんです」と言った時、彼の眼前に、「全管弦楽が鳴るかと思えば、突然、休止符が来て、烏の群れが音もなく舞って」いるあの「一種異様な画面」が浮かんでいたことは間違いないだろう。その小林秀雄の「誰か、アレを貰って来て呉れたら……」という呟きを、青山二郎は宇野千代に伝えたのだという。すると彼女は田舎まで跳んで行って、その複製画を持ち主から貰って来た。『文体』は、もともと宇野千代が弟正雄と創刊した文芸誌である。彼女は小林秀雄にゴッホ論を書かせる目的でその絵を手に入れたのだった。都美術館の広間で観たままの絵が、薦包で小林秀雄のもとに届けられたことは、「ゴッホの手紙」の中にも書かれている。

『文体』復刊第一号の編集後記で予告された「次号」(第二号、昭和二十三年五月発行)にはしかし、「ゴッホの手紙」は掲載されず、その直前に『時事新報』に発表されたばかりの「鉄斎」(「鉄斎 Ⅰ」)が再掲された。小林秀雄自身、「丁度、長い仕事に手を付け出していた折から、違った主題に心を奪われるのは、まことに具合の悪い事であった」と書いている通り、この頃、二度目の「罪と罰」論の執筆に集中していたということもあっただろう。しかし「それは気の持ち様でどうにでもなる」とも言っているように、二つの作品は並行して執筆された様である。「『罪と罰』について」(「『罪と罰』について Ⅱ」)が『創元』第二輯に発表されたのはその年の十一月であるが、「ゴッホの手紙」の第一回が『文体』第三号に掲載されたのはその翌月であった。

「ゴッホの手紙」の「第一回」と書いたが、この作品はもともと長期連載を前提として始まったものではない。『文体』第三号には四百字詰め原稿用紙五十三枚分が掲載され、文末に「未完」と記されているが、編集後記には、「この論述は更に次号に頂く続稿を俟って完結される筈」と書かれている。書き始めた当初、おそらく彼は百枚程度の、丁度「モオツァルト」と同じくらいの長さの作品を構想していたものと思われる。

ところが次の『文体』第四号(昭和二十四年七月発行)では、原稿用紙三十五枚ほどが掲載され、またしても文末に「未完」と記された。そしてこの後、『文体』が休刊となったことで、「ゴッホの手紙」は二回分掲載されただけで打ち切りとなってしまう。その後、一年半の空白期間を置いて、『芸術新潮』昭和二十六年一月号にあらためて冒頭から掲載され、以後は、昭和二十七年二月号までの十四ヶ月間、毎月休みなく連載されて、同年六月に新潮社より上梓された。単行本一冊分となる連載としては、戦前の『ドストエフスキイの生活』以来、二作目となった。

以上が、「ゴッホの手紙」の構想と執筆のおよその経緯だが、この作品にはもう一つの忘れてはならない重要な動機が存在する。ゴッホが残した厖大な書簡の読書体験である。「烏のいる麦畑」の複製画が宇野千代から届けられた後のことであったようだが、小林秀雄は式場隆三郎からその書簡全集を借用し、殆ど三週間、外に出る気にもなれず、食欲がなくなるほど心を奪われたのである。

 

書簡の印象はと言えば、麦畑の絵に現れたあの巨きな眼が、ここにも亦現れて来て、どうにもならぬ。ボンゲル夫人は、序文の冒頭に、ゴッホの弟の母親宛の手紙の一節を引いている。「彼(ヴィンセント)は、何んと沢山な事を思索して来たろう、而も何んといつも彼自身であったであろう、それが人に解ってさえくれれば、これは本当に非凡な著書となるだろう」、いかにもその通りである。僕は解った。だから「彼自身」の周りをぐるぐる廻る。「彼自身」が、サイプレスの周りを廻った様に。

 

ゴッホを巡る小林秀雄の「螺階的な上昇」がここに始まる。書簡全集が存在しなくても、彼はゴッホについての批評作品を書き残したかもしれないが、書簡がなければ、その内容はまったく異なったものになったであろう。そしてこの「The Letters of Vincent van Gogh to his brother」という「非凡な著書」との出会いにこそ、小林秀雄の批評文学を「ゴッホの手紙」の前と後とに分つ決定的な一線があったのであり、この度の「螺階的な上昇」には、「モオツァルト」や「『罪と罰』について Ⅱ」を書き終えた小林秀雄の予期し得ないものがあった。

モーツァルトにも厖大な書簡全集が存在する。小林秀雄は「モオツァルト」の中でその何通かを取り上げ、中でも一七七七年七月二日にパリで母親を失ったモーツァルトが父親に宛てた二通の手紙を、この音楽家の魂が紙背から現れて来るものとして紹介した。しかしその手紙はまた、「凡庸で退屈な長文」でもあり、「この大芸術家には凡そ似合わしからぬ得体の知れぬ一人物の手になる乱雑幼稚な表現」で書かれていた。モーツァルトにおいては、「手紙から音楽に行き着く道はない」。だから小林秀雄は、「音楽の方から手紙に降りて来る小径」を見付ける他なかった。そして確かに、彼は、その「小径」の先に「モオツァルト」を聴き分けたのだった。

ドストエフスキーについても、その私生活の記録においてはほとんど同じことが言えるだろう。実に三十年以上もの歳月をかけた彼のドストエフスキー探求の最初の動機もやはり、この作家の「思想と実生活」の間に潜む、ある断絶の超克の問題にあった。彼のドストエフスキーを巡る遍歴は昭和八年、三十一歳の年から始まったが、その翌年一月に発表された「文学界の混乱」の最後で、この年立て続けに発表することになる最初の「罪と罰」論および「白痴」論を予告するかのように、次のように書いている。

 

僕は今ドストエフスキイの全作を読みかえそうと思っている。広大な深刻な実生活を生き、実生活に就いて、一言も語らなかった作家、実生活の豊富が終った処から文学の豊富が生れた作家、而も実生活の秘密が全作にみなぎっている作家、而も又娘の手になった、妻の手になった、彼の実生活の記録さえ、嘘だ、嘘だと思わなければ読めぬ様な作家、こういう作家にこそ私小説問題の一番豊富な場所があると僕は思っている。出来る事ならその秘密にぶつかりたいと思っている。

 

ところがゴッホの手紙は、少なくとも小林秀雄にとっては、モーツァルトやドストエフスキーに見られたような(というより、あらゆる芸術家や作家に多かれ少なかれ見られるような)「思想と実生活」の断層を認めることが不可能な、完全に連続したものとして現れた。ゴッホの「思想と実生活」は、彼に言わせれば、「手紙の終るところから、絵が始まり、絵の終るところから手紙が始まる」というより他ないものであり(「ゴッホ書簡全集」)、「絵にあらわれた同じ天才の刻印が、手紙にも明らかに現れている」(「近代絵画」)という驚くべき様相を呈していた。ゴッホに「実生活の秘密」はない。すべては白日の下に晒され、作品の血となって流れ込み、キャンバスの深い傷口から流血する。そしてこの事実は、小林秀雄に対して、「ゴッホ」という考えを断固として拒絶したはずである。このような芸術家を描くのに、「述べて作らず」以外のどのような方法があり得ただろう。彼にとって本当に「意外」だったのは、連載が予期せず長くなったという一事ではなかった。

 

私は、こんなに長くなる積りで書き出したわけではなかった。それよりも意外だったのは書き進んでいくにつれ、論評を加えようが為に予め思いめぐらしていた諸観念が、次第に崩れて行くのを覚えた事である。手紙の苦しい気分は、私の心を領し、批評的言辞は私を去ったのである。手紙の主の死期が近付くにつれ、私はもう所謂「述べて作らず」の方法より他にない事を悟った。

 

この評伝を読んでいくと、一八八八年十月、ゴーギャンがアルルに到着する頃から、すなわちゴッホの最初の発狂場面を描写するあたりから、見る見る著者の「諸観念」が消え失せ、「批評的言辞」が去って行くのがわかる。小林秀雄は、ゴッホという「彼自身」の周りをぐるぐる廻り続ける。やがて彼自身、本居宣長というサイプレスの周りを廻ることになる様に。ブラームスのれる変奏曲が、その彼の螺旋運動の彼方で鳴り出そうとしていた。

(つづく)