小林秀雄「本居宣長」全景

池田 雅延

四 折口信夫の示唆

「本居宣長」は、次のように始まっている。

―本居宣長について、書いてみたいという考えは、久しい以前から抱いていた。戦争中の事だが、「古事記」をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の「古事記伝」でと思い、読んだ事がある。……

そして、言う。

―それから間もなく、折口信夫氏の大森のお宅を、初めてお訪ねする機会があった。話が、「古事記伝」に触れると、折口氏は、橘守部の「古事記伝」の評について、いろいろ話された。浅学な私には、のみこめぬ処もあったが、それより、私は、話を聞き乍ら、一向に言葉に成ってくれぬ、自分の「古事記伝」の読後感を、もどかしく思った。そして、それが、殆ど無定形な動揺する感情である事に、はっきり気附いたのである。「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」という言葉が、ふと口に出てしまった。折口氏は、黙って答えられなかった。私は恥かしかった。……

「古事記伝」の読後感は、小林氏が永年、「古事記伝」を読んで以来持ち続けてきていたには違いなかったが、言葉にはなっていなかった。折口信夫の話を聞くうち気づいた、自分がこれまで読後感と思ってきたものは、感とか感想とかと言えるものではない、ほとんど形をなさずに動揺し続けている「感情」であった、それほどまでに「古事記伝」の感動は途方もないものであった。

―帰途、氏は駅まで私を送って来られた。道々、取止めもない雑談を交して来たのだが、お別れしようとした時、不意に、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言われた。……

この「本居宣長」の書出しは、ここで初めて行を改め、「今、こうして、おのずから浮び上がる思い出を書いているのだが……」と続く。しかし、ここに記された「思い出」は、けっして「自ら」浮んだものではないだろう、小林氏が、はっきり意識して浮かび上がらせた「思い出」だったはずである。

語り口は穏やかだ。だが語り口にほだされて、「思い出」という言葉を軽く聞いてはなるまい。この穏やかな語り口は、小林氏が「本居宣長」という一大シンフォニーのために設定した文体の調性にっているまでで、語られている「思い出」自体は早くも風雲急を告げている。小林氏は、久しい以前から抱いてきた宿願に、いまこそ手を着けようとしているのである。その第一手を徒疎あだおろそかに打ち下ろすわけがない。名うての文章家は最初の一行に苦心するとはよく言われるが、小林氏は、最初の一段落に常に苦心を払ってきた。

昭和四年(一九二九)、二十七歳、文壇に打って出た「様々なる意匠」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第1集所収)はこうである。

―吾々にとって幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しそうしない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。しかも、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。……

昭和十七年、四十歳で書いた「無常という事」(同第14集所収)は、冒頭に「一言芳談抄」の一節を示して、

―これは、「一言芳談抄」のなかにある文で、読んだ時、いい文章だと心に残ったのであるが、先日、比叡山に行き、山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮び、文の節々が、まるで古びた絵の細勁な描線を辿る様に心に滲みわたった。そんな経験は、はじめてなので、ひどく心が動き、坂本で蕎麦を喰っている間も、あやしい思いがしつづけた。……

さらに昭和二十七年、五十歳で出した「ゴッホの手紙」(同第20集所収)は、

―先年、上野で読売新聞社主催の泰西名画展覧会が開かれ、それを見に行った時の事であった。折からの遠足日和で、どの部屋も生徒さん達が充満していて、喧噪と埃とで、とても見る事が適わぬ。仕方なく、原色版の複製画を陳列した閑散な広間をぶらついていたところ、ゴッホの画の前に来て、愕然としたのである。それは、麦畑から沢山の烏が飛び立っている画で、彼が自殺する直前に描いた有名な画の見事な複製であった。尤もそんな事は、後で調べた知識であって、その時は、ただ一種異様な画面が突如として現れ、僕は、とうとうその前にしゃがみ込んで了った。……

見てのとおり、いずれも波乱と緊張に満ちて劇的であり、一篇の動因を一息で言い切っている。「様々なる意匠」のときは、一見、一文の動因を言ってはいないようだが、爾後小林氏が展開した仕事はすべて、「本居宣長」に至るまで言葉の魔術との死闘であった。

「本居宣長」の書出しも、これらと同様、波乱に満ちて劇的なのである。宣長の「古事記伝」を読んでしばらくして、小林氏は折口信夫氏を訪ねた。話が「古事記伝」になったが折口氏の対応は予期に反した。やがて折口家を辞する時がきて、大森駅まで送ってきた折口氏は、突然「小林さん、宣長さんは源氏ですよ」とだけ、浴びせるように言って帰っていった……。

小林氏は、そこまで語って「思い出」を打ち切る。問題は、なぜあえて「本居宣長」を、小林氏はこの「思い出」から書起したのかである。

 

折口信夫は、国文学者、民俗学者であり、歌人である。明治二十年(一八八七)の生れで小林氏より十五歳年長、民俗学者としては柳田國男の門下として知られ、歌人としては釈迢空の名で知られるが、国文学者としては大正五年(一九一六)から六年にかけての『口訳萬葉集』がまずあり、昭和四年からは全三巻の『古代研究』を刊行、民俗学を踏まえた古代文学の発生研究や古代の信仰研究等を世に問うた。

この折口信夫に、小林氏は早くから敬意を抱いていた。折口の代表的な著作に「死者の書」がある。これは、奈良・当麻寺の中将姫伝説に材を取り、古代人の生活と心を再現してみせた詩的表現の小説であるが、この「死者の書」が『日本評論』に連載された昭和十四年当時、創元社の編集顧問ともなっていた小林氏は「創元選書」に力を入れ、まだ一般にはなじみの薄かった柳田國男の「昔話と文学」「木綿以前の事」をはじめ、今日では名著と位置づけられている本を次々刊行していた。その「創元選書」に、「死者の書」を収録したいという願いをもって、小林氏は折口を訪ねた。だがこのときは、「死者の書」はまだ続編を書きたいからとの理由で断られた。それから十年、昭和二十五年の秋、小林氏は『新潮』に「偶像崇拝」を書いて、「死者の書」に光っている折口の審美的経験による直覚と、そこに満ちている詩人の表現とを精しく称えた。またこの年は、「古典をめぐりて」(同第17集所収)など折口と二度にわたって対談もした。

その折口を、小林氏は再び訪ねたのである。それは、昭和二十六年あたりだったように思うと岡野弘彦氏は言われている(座談会「小林秀雄の思想と生活」、『国学院雑誌』第一一一巻第一号所載)。岡野氏は、折口の門下である。現代を代表する歌人として夙に著名であり、永年、國學院大學の教壇にも立たれたが、若き日は折口の家に書生として住み込んでいた。そこへ小林氏が訪ねてきた。小林氏と折口は、約二時間、話し込んだ。話題はほとんど本居宣長の学問であったという。岡野氏は、ずっとその場にいて二人の話を聞いていたわけではないが、後になって思い返せば、小林氏は本居宣長のことを書きたいという意思をはっきり持って訪ねてきたようだったという。

しかし、小林氏の期待は、少なからず裏切られた。―話が、「古事記伝」に触れると、折口氏は、橘守部の「古事記伝」の評について、いろいろ話された……と小林氏が言っている橘守部は、宣長からは五十年ほど後の学者であるが、折口が語った守部の評とは主に『難古事記伝』であっただろう。「難」は「非難」の「難」である。ここから推せば、折口も、「古事記伝」はさほどには評価していないと受取れる話の内容だったのだろう。

これを聞いた小林氏は、―浅学な私には、のみこめぬ処もあったが、それより、私は、話を聞き乍ら、一向に言葉に成ってくれぬ、自分の「古事記伝」の読後感を、もどかしく思った、そして、それが、殆ど無定形な動揺する感情である事に、はっきり気附いた……と書く。このときまで、小林氏にとって本居宣長は、「『古事記伝』の本居宣長」であった。その宣長の「古事記伝」の読後感を、『古代研究』があり「死者の書」がある折口に質していささかなりとも固めたいと希っての訪問であった。ところが折口は、終始前向きには応じなかった。小林氏はますます自分の読後感を持て扱った。

このときの氏の心中は、折口家訪問とほぼ同じ時期に雑誌連載していた「ゴッホの手紙」を書き始めるまでのあの焦燥と同じだったと想像してみてもよいだろう。

―感動は心に止まって消えようとせず、而もその実在を信ずる為には、書くという一種の労働がどうしても必要の様に思われてならない。書けない感動などというものは、皆嘘である。ただ逆上したに過ぎない、そんな風に思い込んで了って、どうにもならない。……

そういう困惑のなかで口に出た、「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」であった。この言葉は、折口に向けていた問いの辛くもの自答であったが、折口の「古事記伝」観に対する違和感の表明でもあった。橘守部らを引いて語る折口の「古事記伝」観がおいそれとは呑み込めない、だからといってそれに抗い得るだけの「古事記伝」観が自分にあるわけではない、「古事記伝」観どころか読後感としてすら「一向に言葉に成ってくれぬ、殆ど無定形な動揺する感情」しかない、しかし、それでもなおその小林氏の「感情」は、折口の「古事記伝」観を受容れない、それがなぜかは小林氏自身にもわからない、そういう混迷のなかで出た「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上の……」なのである。これに対して折口は、黙って何も答えなかったという。これは、折口が不快を覚えてとった態度ではないだろう、折口は折口で、小林氏の心意を測りかねたのであろう。

だがこの時、この言葉は、図らずも宣長に対する新しい認識を小林氏の脳裏に呼び出したと思われる。折口を介して橘守部の言い分を聞くうち、これは守部に限ったことではない、誰もが誰も、宣長の仕事は理解できていなかったのではないか、この、宣長と周囲が相討つ思想の火花にこそ宣長の真がある、小林氏はそう思ったにちがいない。「思想のドラマ」の幕が上がったである。

そして折口は、大森駅での別れ際、唐突に言った、―小林さん、宣長さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら……。

小林氏は、意表をつかれる思いがしただろう。それまで、氏の頭には、「『古事記伝』の宣長」しかなかった。「『源氏物語』の宣長」はなかった。そこへいきなり「源氏」である。岡野氏は、折口宅での対話には「源氏物語」はほとんど出ていなかったと言っている。

 

小林氏は、途方に暮れる思いで帰路を辿っただろう。そして時をおかず、折口の「源氏物語」論を繙いただろう。「本居宣長」は、第十三章から「もののあはれ」の論に入るが、第十四章、第十五章と、「もののあはれ」という言葉の来歴から意味合の本質へと考察を進めていき、第十五章で言う。

―折口信夫氏は、宣長の「物のあはれ」という言葉が、王朝の用語例を遥かに越え、宣長自身の考えを、はち切れる程押しこんだものである事に注意を促しているが(「日本文学の戸籍」)、世帯向きの心がまえまで押込められては、はち切れそうにもなる。……

折口は、昭和三年四月から慶應義塾大学の教壇に立ち、昭和二十二年からは通信教育部の教材として『国文学』を著し、それを順次、公開していた。「日本文学の戸籍」はその『国文学』の第二部であり、「源氏物語」は第三章で講じられていて、小林氏が「本居宣長」第十五章に引いた所説の前には、こういう言葉が見えている。

―本居宣長先生は、「古事記」の為に、一生の中の、最も油ののった時代を過された。だが、どうも私共の見た所では、宣長先生の理会は、平安朝のものに対しての方が、ずっと深かった様に思われる。あれだけ「古事記」が譯っていながら、「源氏物語」の理会の方が、もっと深かった気がする。先生の知識も、語感も、組織も、皆「源氏」的であると言いたい位だ。その「古事記」に対する理会の深さも、「源氏」の理会から来ているものが多いのではないかと言う気がする位だ。これほどの「源氏」の理解者は、今後もそれ程は出ないと思う。……

おそらくこれが、「小林さん、宣長さんはね、やはり源氏ですよ」の子細である。そして、続けてこう言っている。

―「もののあはれ」の論なども、先生が「源氏」を通してみた論で、それがもっと、先生の一生をかけた「古事記」の時代に影響して行ってもいいと思う。……

小林氏は、ここであの折口の、大森駅での言葉の真意を直感したと思われる。折口が、「古事記伝」の評価にさほど熱心でなかった理由も合点したと思われる。このとき、小林氏における「『古事記伝』の本居宣長」は、「『源氏物語』から『古事記』への本居宣長」に変貌したのである。「源氏物語」から「古事記」への宣長とは、「歌の事」から「道の事」への宣長であった。これについては後述する。

あの日、岡野氏は、折口に言われて折口と一緒に小林氏を大森駅まで送った。岡野氏の記憶によれば、大森駅での二人の間は、小林氏が書いているよりもはるかに緊迫したものであったらしい。駅に着いて、小林氏は切符を買って改札口を通った。折口も自宅へ戻りかけた。ところが、折口は、くりっと身体の向きを変え、大声で小林氏に呼びかけた、「小林さん、宣長さんはなんといっても源氏ですよ、はい、さよなら」。あのときの気迫、切迫した気分は格別だったと岡野氏は言っている。

 

その、折口を大森に訪ねた可能性の高い昭和二十六年の前年、すなわち二十五年の七月、小林氏は『新潮』に「好色文学」を書いている。

―宣長は、「源氏物語」の根本の観念は、「物のあはれ」であると苦もなく断じた。今日の学者には、これについて綿密な議論もあるであろうが、私はよく知らない。ただ私は、宣長の自然な素直な論が好きなのである。人間に一番興味ある「物」は、人間であろうし、一番激しい興味は、恋愛の情にあるだろう。恋歌は詩の基だ。「あはれ」は殆どすべての種類の感情感動を指す語だが、悲哀傷心は、人の最も深い感情であろう。悲しみは、行為となって拡散せず、内に向って己れを噛むからである。……

この前後を読んでいくと、小林氏はもう宣長も「源氏物語」も「もののあはれ」も、後年の「本居宣長」の深みで読んでいるとさえ思わされるのだが、氏の「源氏物語」に対する覚醒が、折口に示唆されてのことであったとすれば、小林氏の折口訪問は、岡野氏の記憶とは別に昭和二十五年の前半であったとも考えられるだろうか。それとも、宣長の「源氏物語」や「もののあはれ」については、その年の初めか前年の暮れ、折口と対談した日にある程度のことは聞かされていたのだろうか。折口と小林氏の対談「古典をめぐりて」(前掲)は、二十五年二月に発行された雑誌『本流』に掲載されている。そこでは「源氏物語」も本居宣長も正面からは語りあわれていないが、雑誌に掲載されなかったところで折口が、「源氏物語」のことをいくらか語って聞かせたということはあったかも知れない。折口の「宣長さんはね、やはり源氏ですよ」は、それを承けてのことだったかも知れない。

が、いずれにしても、折口のあの一言は、小林氏の宣長理解に道をつけた。昭和三十五年七月、氏は新潮社の『日本文化研究』シリーズに、最初の本居宣長論として「本居宣長―物のあはれの説について」を書いたが、まず冒頭に、宣長晩年の随筆「玉勝間」から引いた。

―おのれは、道の事も歌の事も、あがたゐのうしの教のおもむきによりて、たゞいにしへふみ共をかむがへさとれるのみこそあれ……

「あがたゐのうし」は「県居の大人」、宣長の師、賀茂真淵のことであるが、この宣長の回想を承けて、小林氏はこう書いた。

―宣長は、七十歳の頃、自分の仕事を、回顧して、右の様に考えた。(中略)宣長の仕事は、「歌の事」から「道の事」に発展したのであるが、これは、彼の実際の仕事ぶりの上でのおのずからな円熟であって、歌のさと道の正しさとの間に、彼にとっては、何等なんら本質的な区別はなかった。だからこそ、彼は、自分のして来た学問について、「道の事も歌の事も」と、さりげなく言い得たのである。……

「歌の事」とは「源氏物語」のこと、「道の事」とは「古事記」のことと、ひとまずはそう解しておいてよい。折口が、「日本文学の戸籍」で、「『もののあはれ』の論なども、先生が『源氏』を通してみた論で、それがもっと、先生の一生をかけた『古事記』の時代に影響して行ってもいいと思う」と言ったのはここである。ただし折口は、直感に留まっていた。小林氏が見通しきったほどには、宣長における「歌の事」から「道の事」へを見通してはいなかった。この見通しは、小林氏の独創であった。

―彼の考えでは、学問とは、そういうものである。私を去って、在るがままの真実を、明らかにする仕事であるから、得られた真理は、万人の眼に明らかなものである筈だ。又この万人にとっての真理が、人の生きる道について教えない筈はない。もし「歌の事」の研究が「道の事」の研究に通じないならば、それは、学問の道に何か誤りがあるからだ。こういう宣長の学問に関する根本の考えを、しっかり掴んでいなければ、宣長の思想に近附く事は出来ない。……

「本居宣長」は、この「本居宣長―物のあはれの説について」の五年後に始められた。宣長の「歌の事」から「道の事」への追究を、十二年余をかけて徹底させた仕事であった。

 

―私が、彼の「源氏」論について書いた時に、私の興味は、次の点に集中していた。それは、宣長自身「源氏」を論じながら、扱う問題の拡りや深さを非常によく知っていた、扱い兼ねるほどよく知っていた、そういうところであった。私は、折口信夫氏の指摘を引用したが、折口氏によると、宣長の使った「ものゝあはれ」という言葉は、平安期の用語例を逸脱したもので、「ものゝあはれ」という語に、宣長は、自分の考えを、「はち切れるほどに押しこんで、示した」と言う。そして、確かに、これははち切れたのであった。……

これは「本居宣長」の大詰め、第四十六章からである。

折口は、「本居宣長」の大きな機縁として思い出されていた。小林さん、宣長さんはね、やはり源氏ですよ……。人口に膾炙した小林氏の用語をここでも借りるなら、折口信夫のあの一言は、「本居宣長」全五十章の主調低音だったと言ってよいのである。その主調低音が、思想劇「本居宣長」の幕開き早々に鳴ったのである。

(第四回 了)