小林秀雄との出会い

松本 潔

私が小林秀雄作品に初めて触れたのは大学1年生18歳の時ですから、もう50年以上も前のことです。今、18歳の大学生に50年という時間の長さをどう感じるかを尋ねたら、何と答えるでしょうか。「50年前」といえば、歴史を遡ったような印象で「はるか昔」と云うでしょうし、「50年後」は自分の人生にとっては想像もつかない未来に感ずるでしょう。祖父母から昔話を聞いて過去を想い、鉄腕アトムを通じて未来図を想像した、当時の私がそうでした。しかし、私には、小林秀雄作品に接した50年前の記憶はあまりにヴィヴィッドで、つい数年前のような気がします。時の流れの不思議でしょう。ただ、その後の時間が記憶に残っていない部分も多いことから考えると、時間の不思議のみに留まらず、その言葉や思想が強く深く私の体の中にまで刺さりこんだからであろうという点で、小林秀雄体験の不思議でもあると思います。

 

四浪して静岡から入学してきた大人びた同級生が、ある日、熱に浮かされたような口調で「Xへの手紙」を勧めてきました。著者は小林秀雄。すぐ文庫本を購入して数ページ目を通したけれど、愕然とするほど難解で全く判らない。

「この世の真実を陥穽を構えて捕えようとする習慣が身についてこの方、この世はいずれしみったれた歌しか歌わなかった筈だったが、その歌はいつも俺には見知らぬ甘い欲情を持ったものの様に聞こえた」(「Xへの手紙」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第4集61頁1行目)

さらにまた、

「俺は元来哀愁というものを好かない性質だ、或は君も知っている通り、好かない事を一種の掟と感じて来た男だ。それがどうしようもない哀愁に襲われているとしてみ給え。事情はかなり複雑なのだ。止むを得ず無意味な溜息なぞついている。人は俺の表情をみて、神経衰弱だろうと言う(この質問は一般に容易である)、うん、きっとそうに違いあるまい(この答弁は一般に正当である)と答えて後で舌をだす」(同62頁15行目)

こんな単語や表現、見たことも聞いたこともない。こんな論理の展開、言い回しに触れるのも初めてでした。書いてあることがほとんど100%に近く分らないと言っても過言ではない。にもかかわらず、一度ページを閉じてもまた開いてしまう。あの時に、それほど私を惹きつけて離さなかったのは何だったのだろうか。

小林秀雄の文章には、自製の高性能ドリルで、自分の肉体の深部をどこまでも抉って行くような、一種の凄惨な印象を受ける部分がありました。「ただ明瞭なのは自分の苦痛だけだ。この俺よりも長生きしたげな苦痛によって痺れる精神だけだ。俺は茫然として眼の前を様々な形が通り過ぎるのを眺める。何故彼らは一種の秩序を守って通行するのか、何故樹木は樹木に見え、犬は犬にしか見えないのか、俺は奇妙な不安を感じてくる。(中略)君にこの困憊が分かって貰えるだろうか。俺はこの時、生きようと思う心のうちに、何か物理的な誤差の様なものを感じるのである」(同67頁13行目)、「言うまでもなく俺は自殺のまわりをうろついていた。このような世紀に生れ、夢見る事の速かな若年期に一っぺんも自殺をはかった事のない様な人は、余程幸福な月日の下に生れた人じゃないかと俺は思う」(同68頁6行目)とあるように。

20代の小林秀雄は、小林自身が書いているように「もう充分に自分は壊れて了っている」(同64頁7行目)人でしたが、その壊し方=一般の通念を懐疑して論理を進めていく自己解析は徹底したものでした。小林のその長い煩悶の闇を通り抜けた後の行く手には、しかし、うっすらとした青空を予感させるものがありました。また、小林の文章の背後にはいつも男性的と言ってもよい、倫理の軸がありました。それらが私を虜にさせたのではないかと、今では思うのです。

 

しかし、そもそも言っていることに疑問・反発を感じる処もない訳ではなかったのです。

例えばこんなくだりです。

「何故約束を守らない、何故出鱈目をいう、俺は他人から詰られるごとに、一体この俺を何処まで追い込んだら止めて呉れるのだろうと訝った。俺としては、自分の言語上の、行為上の単なる或る種の正確の欠如を、不誠実という言葉で呼ばれるのが心外だった。だがこの心持ちを誰に語ろう。たった一人でいる時に、この何故という言葉の物陰で、どれほど骨身を削る想いをして来た事か。(中略)誤解にしろ正解にしろ同じように俺を苛立てる。同じように無意味だからだ。例えば俺の母親の理解に一と足だって近よる事は出来ない、母親は俺の言動の全くの不可解にもかかわらず、俺という男はああいう奴だという眼を一瞬も失った事はない」(同66頁7行目~67頁6行目)

しかし小林秀雄よ、それはオカシイだろう! 約束を守らない、出鱈目をいうのは、何と言ってもお前が悪いだろう。それは開き直りというものではないか!

息子の言動が不可解であるにもかかわらず、母が息子を理解しているというのか。そんなことがあり得るはずがない。それもまたオカシイではないか、などと。

後に、私は32歳の時、母を亡くしました。それから7~8年も経った頃に、遅まきながら、思い出の中の母親の眼差しが、小林の言う事に合致してきました。そのことを今も良く覚えております。小林秀雄の才能と努力と誠実がまっしぐらに20代と格闘して遺した「Xへの手紙」を、いわば人生の入り口にいた18歳の私は本当に分かっていなかったのです。

多くのフレーズに一々こういう反応を示しながら、読書体験の浅い者にとってはかなりの分量の作品を、結局は毎回最後まで読んでしまう。そして読了した途端にまた何かが気になって、或いは何かに魅了されて、再度ページを開く。結局、当初の7~8ヶ月で50回ほども読了したでしょうか。自分の部屋で何回となく音読し、終わると今度は黙読をする。大学へ行って芝生の上に寝っ転がってまた読む。そうして繰り返すうちに、意味を知ってか知らないでか「Xへの手紙」は私の体の中に、しっかりと居座って行きました。

その頃、文芸雑誌には「八幡宮境内、神奈川県立美術館の付近で」という説明文とともに、小林さんとお嬢様の明子さんが散歩する過去の写真が載ったり、明子さんに男の子が生まれて、その男の子、孫の信哉さんが小林さんに手を引かれてお庭をヨチヨチ歩きしている写真が掲載されたりしていました。しかし当時の私にとっては、全ては雑誌のページの向う側だけに存在し、想像上の映像が焦点を結ばない風景でありました。

 

それから3年が経ちました。20歳で初めて出来た恋人は、一回り年上の美しい裕福な女性でしたが、彼女が複雑な事情を抱えていた事が却って私たちの恋の結晶作用を促進したのでした。将に「女は俺の成熟する場所だった」のです。「世間との交通を遮断したこの極めて複雑な国で、俺たちは寧ろ覚め切っている。(中略)この時くらい人は他人を間近で仔細に眺める時はない。あらゆる秩序は消える。従って無用な思案は消える。現実的な歓びや苦痛や退屈がこれに取って代わる」(同71頁16行目~72頁27行目)。それにしても小林秀雄は、何故男と女の間にかかった「橋」(同74頁16行目)をここまで分かるのだろうか。「女はごく僅少な材料から確定した人間学を作り上げる。これを普通女の無知と呼んでいるが、無知と呼ぶのは男に限るという事をすべての男が忘れている。俺の考えによれば一般に女が自分を女だと思っている程、男は自分を男だと思っていない。(中略)惚れるというのは言わばこの世に人間の代わりに男と女がいるという事を了解する事だ。女は俺にただ男でいろと要求する、俺はこの要求にどきんとする」(同73頁2行目~7行目)

小林秀雄の書くことは、ここでも私のバイブルになっていました。

 

そうしているうちに、「全集を読め」と小林秀雄が言う通りに、私は、どうしても小林秀雄全集が欲しくなりました。でも貧乏学生にそんな金は無い。そうしたら、恋人が「私がプレゼントしてあげる」と言って、札幌市内の書店をくまなく探してくれたが、どこにも在庫が無い。次に彼女は、何処で住所を探り当てたのか、小林秀雄の自宅に「そちら様に1セットがお有りでしたら、私の恋人の為にお譲り頂けませんか」と手紙を出したというのです。出版社も取次店も著者をもごちゃ混ぜにした、世間知らずのメチャなカップルではありました。しかしながら結果は、今思っても驚天動地、小林秀雄の奥様からハガキで返信があったのです。「私の家にもございませんので、次の全集が出るまでお待ちください」と丁寧に記されていて感激いたしました。

ハガキ表の左下に書かれた「雪の下」という住所に目が留まり、一瞬、積雪が多い北海道や東北ならいざ知らず、鎌倉にあっても雪が降るのかなあと考えたものでした。全ては強烈な青春時代の思い出です。

 

2015年4月から丸2年間と1ヶ月、池田塾頭のご指導の下で「古事記」素読会に参加しました。塾頭が訓み下し文を区切って朗読して下さる。それに続いて、その音声を頼りにパズルを解くように我々が白文を読み上げる。息が切れそうです。少しずつリズムが生まれ、全天濃霧の風景の一角が晴れて、古代の神々の営みの景色が、一瞬だけ、生々しく見えることがあります。月に1回の素読を続けているうちに、ふと50年前の「Xへの手紙」体験が思い出されました。ああ、あれが素読だったのか。ジャンルも文章の形式も違ったけれど、あれこそが素読だったのだなあ、と。

 

現在の私はと言えば、月に1回、先ほど書いた小林秀雄と明子さんの散歩コースであった、県立美術館の脇を通って「雪の下」の山の上の家に通い、奥様がハガキをお書きになったかもしれない部屋で当時まだ出版されていなかった「本居宣長」を学び、信哉さんがヨチヨチ歩きしていた庭で塾生仲間と談笑している。不思議なめぐり合わせとしか言いようがありません。

(了)