小林秀雄「本居宣長」全景

池田 雅延

五 もののあはれと会う

本居宣長の墓を訪ね、遺言書を読み、契沖、藤樹、仁斎、徂徠ら先学の跡を辿った「本居宣長」は、第十二章に至っていよいよ宣長の学問そのものに分け入る。そしてただちに「もののあはれ」に言及する。宣長晩年の随筆「玉勝間」から引いて賀茂真淵との師弟関係にふれた後、「ここでは、先ず、宣長の学問の独特な性格の基本は、真淵に入門する以前に、既に出来上っていた事について書かなければならない。有名なこの人の『物のあはれ』論がそれである」と前置きして、京都遊学時代の歌論「あしわけ小舟」に「物のあはれ」論はもう顔を出している、「『歌ノ道ハ、善悪ノギロンヲステテ、モノノアハレト云事ヲシルベシ、源氏物語ノ一部ノ趣向、此所ヲ以テ貫得スベシ、外ニ子細ナシ』と断言されていて、もう後年の『紫文要領』にまっ直ぐに進めばよいという、はっきりした姿が見られるのである」と言っている。

だがここでは、その宣長の「もののあはれ」の説と向き合う前に、宣長以前の「もののあはれ」、すなわち、「もののあはれ」の発祥から宣長が「あしわけ小舟」で言及する直前までの「もののあはれ」を、「源氏物語事典」(東京堂出版)、「日本古典文学大辞典」(岩波書店)等に拠ってひととおり辿っておきたい。それというのも、―小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ……と大森駅で唐突に言った折口信夫のあの言葉を、あえて「本居宣長」の開巻劈頭においた小林氏の心の影が、「もののあはれ」の来た道に落ちている気がするからである。

 

「源氏物語事典」は、「総記 十八、もののあわれ」で、「源氏物語」の各面を統一し、全篇を貫通し、その基調をなす中心理念として「もののあはれ」が挙げられるとまず言い、「もののあはれ」は、本居宣長が「源氏物語」の味到と精密な文献学的教養、鋭い直観とを通して見出した精神であった、中世以降の仏教的、儒教的な功利的解釈に反発し、宗教道徳の外的規範を脱離し、文学それ自らに即した内在批評に立脚して、この物語が純粋な芸術的衝動の所産であることを説いた、と言っている。小林氏が引いた「あしわけ小舟」の「歌ノ道ハ、善悪ノギロンヲステテ、モノノアハレト云事ヲシルベシ、源氏物語ノ一部ノ趣向、此所ヲ以テ貫得スベシ……」の「善悪ノギロン」は、一言でいえば仏教的、儒教的な規範に基づく道徳的善悪の議論であった。

その「もののあはれ」は、「あはれ」に「もの・の」が加わって成った語である。「日本古典文学大辞典」によれば、「あはれ」は「古事記」「日本書紀」「萬葉集」に記された上代の歌謡にすでにいくつか見え、元は物事に対する賞讃・親愛・共感・哀傷などに発した詠嘆の声であった。これがやがて対象に向って動く感情や気分を表す語となり、平安時代には「あはれなり」「あはれと思ふ」「あはれと見る」などの言い方が現れて、しみじみとした同情・共感、あるいは優美・繊細・可憐といった情緒を表すものとなっていった。

その「あはれ」に「ものの」が加わってできた「もののあはれ」を、実際の用例に即して見てみると、自然や四季、あるいは詩歌・音楽・芸能等に触発される感情、気分の状態、さらには人生の哀別離苦などによって引き起される情愛、情味、それらが「もののあはれ」である。そしてそういう「もののあはれ」は、個々人の経験に留まっていた「あはれ」を超えて、一般化され普遍化された情緒、情趣の一様態となっていた。

この「もののあはれ」を、文字に記した最初として今日まで残っているのが紀貫之の「土佐日記」だ。小林氏も第十三章に引いている、というより、そこで強く浮かび上がらせている「楫取り、もののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば……」がそれである。この貫之の「もののあはれ」の用例は、「人々が別離を惜しんで歌を詠みかわす場に、その文雅の情趣を解せぬ船頭の言動を非難した文章のなかに見出される」と説明され、そこにさらに、「古今集」に続いた第二の勅撰集、「後撰集」に出ている貫之の歌の詞書に、ある女から「あやしく、もののあはれ知り顔なる翁かな」と言われて詠んだとある例を引いて、「これらによれば歌を詠むことがすなわち『もののあはれ』を知ることであり、逆にいえば『もののあはれ』を知る者なればこそ歌を詠まずにはいられないのである」と言われている。したがって、平安時代にあっての「もののあはれ」は、「貴族の日常生活のなかで要求された美的情操に関わる生活用語であった」と言え、それを「知る」ということは、「趣味を解し世間の情理をわきまえた節度のある知恵教養として重んじられた」のである。

時代が下り、鎌倉時代以後となると、「もののあはれ」は仏教の無常観とも結びついた知的な活動をも包含するようになった。江戸時代には浄瑠璃や小説類でも用いられ、そこでは日常生活で求められる他人への心づかいや同情心を意味することが多かった。

 

「もののあはれ」という言葉は、おおむねこういうふうに使われてきた。しかしどの時代にあっても上に見たような認識や、自覚を伴っていたわけではない。そこを史上、初めて確と自覚し認識しようとし、丹念に目を配ったのが本居宣長だったのである。「あしわけ小舟」で言った、「歌ノ道ハ、善悪ノギロンヲステテ、モノノアハレト云事ヲシルベシ……」は、京都遊学から松坂へ帰った宝暦七年(一七五七)十月以後、ほとんど間をおかずに「源氏物語」を論じる「紫文要領しぶんようりょう」、和歌を論じる「石上私淑言いそのかみのささめごと」に敷衍され、「紫文要領」は宝暦十三年六月に成り、「石上私淑言」も同年中に成ったと見られている。宣長三十四歳、真淵との対面が叶ったいわゆる「松坂の一夜」はその年の五月であった。

小林氏は、「本居宣長」第十三章で紀貫之が残した「もののあはれ」に踏み込み、その貫之が「土佐日記」とは別に書いた「古今集」の仮名序を宣長は自らの「もののあはれ」論の起点としたと言って、「石上私淑言」巻一から引いている。

―「古今序に、やまと歌は、ひとつ心を、たねとして、よろづのことのはとぞ、なれりける、とある。此こころといふがすなはち物のあはれをしる心也。次に、世中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふ事を、みる物きく物につけて、いひいだせる也、とある、此心に思ふ事といふも、又すなはち、物のあはれをしる心也。上の、ひとつ心をといへるは、大綱をいひ、ここは其いはれをのべたる也。同真名序に、思慮易遷、哀楽相変といへるも、又物のあはれをしる也」……

これに続けて、小林氏は言う。

―宣長が取りあげた「もののあはれ」という言葉は、貫之によって発言されて以来、歌文に親しむ人々によって、長い間使われて来て、当時ではもう誰も格別な注意も払わなくなった、極く普通な言葉だったのである。彼は、この平凡陳腐な歌語を取上げて吟味し、その含蓄する意味合の豊かさに驚いた。その記述が、彼の「もののあはれ」論なのであって、漠然たる言葉を、巧妙に定義して、事を済まそうとしたものではない。ひたすら自分の驚きを、何物かに向って開放しようと願ったとは言えても、これを、文学の本質論の型のうちに閉じ込めようとしたとは言い難い。……

そしてさらに、小林氏は言う。

―宣長は、「あはれ」とは何かと問い、その用例を吟味した末、再び同じ言葉に、否応なく連れ戻された。言わば、その内的経験の緊張度が、彼の「もののあはれ」論を貫くのである。この言葉の多義を追って行っても、様々な意味合をことごとく呑み込んで、この言葉は少しも動じない。その元の姿を崩さない。と言う事は、とどの詰り、この言葉は自分自身しか語ってはいない。彼は、この平凡な言葉の持つ表現性の絶対的な力を、はっきり知覚して驚くのである。……

ここから始めて、小林氏は、第十三章、第十四章と、宣長の「もののあはれ」論の含蓄を事細かに味わっていくのだが、ここではひとまず、宣長の言う「あはれ」と「もののあはれ」の中心部を書き抜いておこう。まずは「あはれ」について、「石上私淑言」巻一からである。

阿波礼アハレといふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれ共、其意は、みな同じ事にて、見る物、きく事、なすわざにふれて、ココロの深く感ずることをいふ也。俗には、ただ悲哀をのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず、すべてうれし共、おかし共、たのし共、かなしとも、こひし共、情に感ずる事は、みな阿波礼也。されば、おもしろき事、おかしき事などをも、あはれといへることおほし。……(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集149頁引用)

次いで「もののあはれ」について、「紫文要領」巻上からである。

―目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、これ事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしる也、其中にも、なほくはしくわけていはば、わきまへしる所は、物の心、事の心をしるといふもの也、わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也。……(同151頁引用)

 

さて、今回は、ここからである。小林氏は、第十四章で「もののあはれ」という言葉の意味合について、宣長の細かい分析を追い、第十五章に入って、こう言うのである。

―そういう次第で、宣長の論述を、その起伏に逆わず、その抑揚に即して辿って行けば、「物の哀をしる」という言葉の持つ、「道」と呼ぶべき性格が、はっきり浮び上って来る。そしてこれが、彼の「源氏」の深読みと不離の関係にある事を、読者は、ほぼ納得されたと思うが、もう一つ、「紫文要領」から例をあげて、説明を補足して置きたい。……

「『物の哀をしる』という言葉の持つ、『道』と呼ぶべき性格」については、第十四章で次のように言われていた。

―宣長は、「道」という言葉で、先験的な原理の如きものを、考えていたわけではなかったが、個々の心情の経験に脈絡をつけ、或る一定の意味に結び、意識された生き方の軌道に乗せる、基本的な、あるいは純粋な、と呼んでいい経験は、思い描かざるを得なかったのである。これは「道」を考える以上、当然、彼に要請されている事であった。……

この問題、すなわち「もののあはれを知る」ということ、そして「道」ということに関しては、次回、稿を改めて立ち戻る。ここではむしろ、そのための身ごしらえという意味からも、小林氏が「補足」と言っている「もののあはれを知る」ということの説明に目をこらしたい。ただし、氏は「補足」と言っているが文字どおりの「補足」ではない。宣長本人から後を託されたとさえ言えそうな口調で、小林氏の私見が示されるのである。

―「品定しなさだめ」の中の、左馬頭の言葉、「ことが中に、なのめなるまじき、人のうしろみのかたは、物の哀しりすぐし、はかなきつゐでのなさけあり、をかしきにすすめるかた、なくてもよかるべし、と見えたるに、―」。この文は、例えば、谷崎潤一郎氏の現代語訳によれば、「女の仕事の中で、何よりも大切な、夫の世話をするという方から見ると、もののあわれを知り過ぎていて、何かの折に歌などを詠む心得があり、風流の道に賢いというようなところは、なくてもよさそうに思えますけれども、―」となる。……

「品定」は「源氏物語」帚木の巻の「雨夜の品定め」である。光源氏の友人三人が、源氏の前で妻とするに好ましい女性について論じあう。「左馬頭」はその友人の一人であるが、「なのめなるまじき」の原義は、おろそかにはできない、「はかなきついで」の原義は、ちょっとしたことをする際、である。

―これは(池田注:谷崎の訳は)普通の解だが、宣長は、そうは読まなかった。彼は、文中の「物のあはれ」という言葉を、「うしろみの方の物のあはれ」と解した。「物の哀といふ事は、万事にわたりて、何事にも、其事其事につきて有物也。故に、うしろみのかたの物の哀といへり。是は、家内の世話をする事につきて、其方の万事の心ばへを、よく弁知したる也。世帯むきの事は、ずいぶん心あるといふ人也。世帯むきさへよくば、花紅葉の折節のなさけ、風流なるかたはなくても、事かくまじきやうなる物なれ共、―」、そう読んだ。恐らく、彼にしてみれば、無理は承知で、そう読みたかったから、そう読んだとも言える。「あはれ」という片言について、思い詰めていた彼の心ばえを思えば、これは当然の事であった。……

宣長の読みによれば、「源氏物語」の原文「なのめなるまじき、人のうしろみのかたは、物の哀しりすぐし」は、「なのめなるまじき、人のうしろみのかたは、うしろみのかたの物の哀しりすぐし」の意となる。すなわち、原文では単に「物の哀」と言われているだけだが、これは「うしろみのかたの物の哀」ということで、原文全体を谷崎訳のように現代語訳してみれば、「女の仕事の中で、何より大切な家事の面について言えば、家事万般にわたってもののあわれを知っていて、世帯むきのことを非常によく心得ている人、こういう人でさえあれば、花や紅葉の季節の感慨など、風流面の能力はなくても不足はなさそうですけれども……」となる。

―「あはれ」という言葉の本質的な意味合は何かという問いのうちに掴まれた直観を、彼は、既に書いたように、「よろづの事の心を、わが心にわきまへ知り、その品にしたがひて感ずる」事、という簡単な言葉で言い現したが、「あはれ」の概念の内包を、深くつき詰めようとすると、その外延がいえんが拡がって行くという事になったのである。……

宣長は、「萬葉集」以来の歌集を読み、また「源氏物語」をはじめとして古来の物語を読むたびごとに、そこに現れる「あはれ」という言葉の本質的な意味合は何かと問い、それは「よろづの事の心を、わが心にわきまへ知り、その品にしたがひて感ずる」事とひとまず言い表すまではできたが、その「あはれ」という言葉で捉えられている事象の内実、中身、それを深く細かくつきつめていってみると、その周辺に必ずしも「あはれ」という言葉で言われてはいないが、それに準じる、あるいはそれと同質と言っていい事象がいくつも見つかることになったと言うのである。それが高じて、ついには、

―「物の心を、わきまへしるが、すなはち物の哀をしる也。世俗にも、世間の事をよくしり、ことにあたりたる人は、心がねれてよきといふに同じ」とまで言う事になったのだから、「世帯をもちて、たとへば、無益のつゐへなる事などのあらんに、これはつゐへぞといふ事を、わきまへしるは、事の心をしる也。其つゐへなるといふ事を、わが心に、ああ是はつゐへなる事かなと感ずる」事は、勿論、「うしろみのかたの物の哀」と呼んでいいわけだ。……

「もののあはれ」を知っているとは、世間の事をよく知ったうえで物事にあたる人は心が練れていてよいと言われるのと同じだとなり、無駄な「つゐへ」、すなわち、無駄な出費を無駄と判断して無駄だったと感じることは、「うしろみのかたの物の哀」を知っているということなのだ、となった。

 

小林氏は、こうして、「もののあはれ」は宣長に至って、多種多様の意味内容を帯びることになったと言うのだが、ここまで言って、折口信夫の指摘を紹介する。

―折口信夫氏は、宣長の「物のあはれ」という言葉が、王朝の用語例を遥かに越え、宣長自身の考えを、はち切れる程押しこんだものである事に注意を促しているが(「日本文学の戸籍」)、世帯向きの心がまえまで押込められては、はち切れそうにもなる。宣長は、この事に気附いている。そして、はち切れさすまいと説明を試みるのだが、うまくいかない。うまくはいかないが、決してごまかしてはいないのである。……

ここに該当する折口の文章を、もう一度引いておこう。

―「もののあはれ」と言う語も、先生の使い方には多少延長が多くて、用語例を乗り超えすぎている。所謂「もののあはれ知りすぐして」など言う様な意味は、却って少いのではないかと思う。人情に対する理会、同情、調節が、成程「源氏」その他の物語には、好もしく出ていて、いかにも後期王朝時代の人の生活の豊かさを思わせる様に、説明せられているが、「もののあはれ」と言う語は、もっと範囲が狭いように思う。先生は結句、自分の考えを、「もののあはれ」と言う語にはち切れる程に押しこんで、示されたものだと思う。……

小林氏が、「本居宣長」の劈頭に折口との思い出を置いた理由は、この折口の指摘にあると思う。そして今回、私が「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ……と唐突に言った折口のあの言葉を、あえて『本居宣長』の開巻劈頭においた小林氏の心の影が、『もののあはれ』の来た道に落ちている気がする」と言ったのも、ここを見込んでのことである。

というのは、宣長の「もののあはれ」論が、「源氏物語」をはじめとする平安時代の物語の「もののあはれ」という言葉の用例を逸脱し、結局のところは宣長自身の考えをはち切れんばかり押しこんだものだという折口の指摘は、宣長の「もののあはれ」論に言及した過去の文献にはまったく見られないものだからである。小林氏は、第十二章で、宣長の「もののあはれ」論については先行研究書にできるかぎり目を通し、啓発されるところも少なくなかったと言っているが、それらの研究書のなかには、折口の言うような指摘はなかった。小林氏は、他ならぬ折口のこの指摘を得て、逆に宣長の「もののあはれ」論の魂とでもいうべきもの、ひいては宣長の学問の真髄というべきものに、初めてはっきり直面したと思われるのである。

―私が、彼の「源氏」論について書いた時に、私の興味は、次の点に集中していた。それは、宣長自身「源氏」を論じながら、扱う問題の拡りや深さを非常によく知っていた、扱い兼ねるほどよく知っていた、そういうところであった。私は、折口信夫氏の指摘を引用したが、折口氏によると、宣長の使った「もののあはれ」という言葉は、平安期の用語例を逸脱したもので、「もののあはれ」という語に、宣長は、自分の考えを、「はち切れるほどに押しこんで、示した」と言う。そして、確かに、これははち切れたのであった。……

「本居宣長」の大詰め、第四十六章で、小林氏は宣長の「もののあはれ」の論について、もう一度念を押すかのようにこう言った。これが第一章に折口の思い出を置いた最大の理由であり、そこには折口の示唆に対する謝意もこめられていたであろう。

第十五章で折口の指摘を紹介し、そこからただちに「世帯向きの心がまえまで押込められては、はち切れそうにもなる。宣長は、この事に気附いている。そして、はち切れさすまいと説明を試みるのだが、うまくいかない。うまくはいかないが、決してごまかしてはいないのである」と続けて、小林氏は、宣長の「もののあはれ」の論が、どれほど凄まじい精神のドラマであり、思想のドラマであったかを垣間見させ、それをひとまず結ぶにあたってこう言う。

―これは、「紫文要領」を殆どそのまま踏襲した「玉の小櫛おぐし」の総論では、読者の誤解を恐れてか、削除されているところだが、宣長が、「物の哀」を、単なる一種の情趣と受取る通念から逃れようとして、説明に窮する程、心を砕いていた事は知って置いた方がよいのである。日常生活の心理の動きが活写されたこの「物語」に、彼は、「あはれ」という歌語が、「あはれ」という日常語に向って開放される姿を見た。そして、その日常の用法の真ん中で、この言葉の発生にまで逆上りつつ、この言葉の意味を掴み直そうとした。この努力が、彼の「源氏」論に一貫しているのであって、これを見失えば、彼の論述は腑抜ふぬけになるのである。……

「玉の小櫛」は「源氏物語玉の小櫛」で、寛政八年(一七九六)、宣長六十七歳の年に成った「源氏物語」の注釈書である。全九巻。総論に見える「源氏物語」評論は最も重要とされているが、その内容は三十三年前に成った「紫文要領」とほぼ同じである。

 

小林さん、本居さんはね、やはり「源氏」ですよ……折口はそう言った。たしかに宣長は、まず「源氏」だった。小林氏には、折口が言いたかった意味とは別の意味で「源氏」だった。「日本文学の戸籍」によれば、折口が言いたかった意味での「源氏」は、「色好み」の極致としての「源氏」だった。ただし、今日言われる「好色」とは異なる、古代の貴族の生活倫理として肯われた「色好み」だった。折口は、その「色好み」の論を展開する前提として宣長の「もののあはれ」に言い及んだとも言えるのだが、小林氏は、その折口の寸言を目にするや、たちまち宣長の真意を読み取った。

小林氏には、こういうことが、つまり、誰かのふとした寸言あるいは片言に感応し、その寸言・片言から意想外の大事を引き寄せるということがよくあった。たとえば対談、座談の席で、同席者のある発言を耳にするやそれをさっと引き取り、君が言いたいことはこういうことではないかと相手の発言内容をその場で組み立て直し、最初の発言者よりもはるかに熱くその問題を論じるということがしばしばあった。

折口との場合も、これと同様であったと思われる。最初は大森駅の駅頭で、次いでは折口の文章中で、小林氏は折口の寸言に感応し、そこから一気に宣長の「源氏物語」論へ走り、「うしろみのかたのもののあはれ」まで馳せ参じた。そこにいた宣長は、小林氏の直観どおり、単なる古典の研究家ではなかった。人生とは何か、人生いかに生きるべきかをどこまでも考えぬこうとする思想家であった。その思想家は、「もののあはれ」という「平凡陳腐な歌語を取上げて吟味し、その含蓄する意味合の豊かさに驚」いていた。「もののあはれ」という言葉は、いつしか人生とは何か、人生いかに生きるべきかを、細大漏らさず映す鏡となっていたからだろう。だからこの思想家は、「もののあはれ」という言葉を「巧妙に定義して、事を済まそう」とはしていなかった、「ひたすら自分の驚きを、何物かに向って開放しよう」と願っていた。

小林氏は、折口の示唆を、そこまで増幅して宣長の「源氏物語」に向った。その読み筋は、そのまま「古事記」に通じていた。「本居宣長」の第一章で、小林氏は、折口の思い出を語りながら、宣長の「もののあはれ」が世帯向きのことまで取り込んで「はちきれて」いたればこそ、後に一〇〇〇年以上もにわたって誰にも読めなかった「古事記」が宣長には読めたのだ、暗にそう言っていたのである。

(第五回 了)