「分るとは苦労すること」について

大島 一彦

大分以前の話だが、或る新聞の文化欄が小林秀雄の生誕百年を記念して特輯記事を組んだことがあつた。その記事のことを今でも忘れずにゐるのは、その中に小林が生前語つてゐたことに触れた箇所があつて、そのことについて暫し考へ込んだことをよく憶えてゐるからである。

確か見出しだか惹句だかに「分るとは苦労すること」とあつて、小林が生前よく口にしてゐたといふのは次のやうなことであつた―何でも苦労せずに手つ取り早く分りたいといふのは現代の病気で、分るといふことは苦労するといふことと同じなのだ。

このやうな言葉に接すると、大抵の人はこんな風に受止めるのではなからうか―大事な問題はさう簡単に分るものではない、苦労しなければ分らない、その代り然るべき苦労をすれば何れ分るやうになる、と。勿論、私も最初のうちはさう考へたが、もし考へがそこで止つてゐたら、やがてこのことは頭から消えて、この記事のことも忘れてしまつたであらう。

そのうちに、この考へ方はあまりにも常識的に過ぎるのではなからうか、小林秀雄がそんな凡庸なことを云ふだらうか、といふ思ひに捉へられた。すると、こんな思ひが脳裡をよぎつた―小林は、分りたかつたら苦労せよとか、苦労すればきつと分るとか、そんな次元のことが云ひたかつたのではなかつたのではないか、文字どほり、分るといふことは分らうと思つて苦労することと同義だと云つてゐるのではないか、敢へて云へば、苦労した結果分つても分らなくてもいいので、苦労するといふ体験そのものが大事なのだ、その体験が自覚されれば、それが分るといふことなのだ。

これは大袈裟に云へば私にとつて一つの啓示であつた。

或るとき小林の次のやうな言葉が眼に止つた

「凡そものが解るといふ程不思議な事実はない。解るといふ事には無数の階段があるのである。人生が退屈だとはボードレールもいふし、会社員も言ふのである。」(「測鉛Ⅱ」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第集所収』)

小林秀雄の全集はひととほり読んでをり、作品によつては繰返し読んでゐるから、この言葉にも出会つてゐた筈だが、読み流してゐたらしい。これが眼に止つたのは、右の「啓示」を得たあとだつたからである。今にして次の引用文の意味がよく分るのも同じ理由からである。

「骨折り損のくたぶれ儲けといふ事がある。これは骨さへ折れば、悪くしたつてくたぶれ位は儲かるといふ意味である。現実的な骨折りをすれば、くたぶれだつて現実的な内容をもつてゐる。その内容はいつも教訓に溢れてゐる。」(「批評に就いて」、同第3集所収)

小林秀雄の文章が難解だとはよく云はれることで、私も決して易しいと思つたことはないが、最近はさほど難解だとは思はなくなつた。と云ふよりも、これは分らないなと思つても、分らないことが分つたと思ふやうになつたのである。つまり、苦労して得たのは「くたぶれ」だけだつたとしても、それを「骨折り損」とは思はなくなつたと云ふことである。勿論、小林の文章を読むからには、小林の分つたところまで分りたいとは思ふが、分るといふことの「無数の階段」のどの辺に自分がゐるか、問題は常にそこにある。

分ることに無数の階段があるなら、分らないことが分ることにも無数の階段がある。例へば、小林の「モオツァルト」は難しくてよく分らないとは、西洋古典音楽に関する知識が皆無に近い読者甲も、一応の知識があつて主要な作曲家それぞれの曲のイメージが想ひ浮べられる読者乙も云ふであらうが、甲と乙では難しさや分らなさの度合と質がまつたく異る筈である。しかし甲にしても乙にしても、諦めずに苦労して、なぜ自分には分らないのか、その依つて来る原因が摑めたなら、それだけでも相当なことが分つたことになるだらう。少くとも一種の自己認識を得たことにはなるだらう。それなら確かに「教訓に溢れ」た「くたぶれ」を「儲け」たのである。

小林秀雄の文章が一般に難しいと思はれてゐるおそらく一番の理由は、批評文であるのに物事を理路整然と説明してくれる文章ではないところにあると云つてよいであらう。小林の文章は自身の経験を読者と分たうとする、つまり読者の経験と想像力に訴へて直接悟らせようとする。批評的散文で書かれてはゐるが、発想は詩人の発想なのである。従つて小林の文章が分るか分らないかは、読者の方に自らの経験に照して思ひ当る節があるかないか、或は読者の想像力が刺戟されて小林の体験的知覚にまで迫れるか否かに依る。

最近、小林と三島由紀夫の対談「美のかたち」を読返す機会があつたが、これも以前は読み流してゐた次の一節が新たに印象に残つた

「……ドストエフスキイの小説を愛して、何度も読んでるとね、ドストエフスキイの魂のフォームつていふものが判るでせう、ああ、これだ、といふ。それには言葉はないですよ。それを言葉にしようと思ふと、一つの別のフォームの発明を要する……。人に説明するつていふことは、これはフォームを発明する事ではない。人の判断に訴へることなんだから。説明ではダメなものがあるでせう。やつぱりドストエフスキイの精神のフォームを画家みたいに描いて、一目で見えるやうにする工夫が要るわけだな。」

小林は少し前の所でかうも云つてゐる

「フォームはフォーマリズムには関係がないのです。フォームの形式といふ訳はいけないですね。姿と訳した方がまだいい。言葉は詩となる時だけフォームを持ちます。」

のちに小林は「本居宣長」の第三十二章で、荻生徂徠の「凡ソ言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス」に触れて、「人の心中に、形象を喚起する言語の根源的な機能」が詩であり、「言語は物の意味を伝へる単なる道具ではない。新しい意味を生み出して行く働きである。物の名も、物に附した単なる記号ではない、物の姿を、心に映し出す力である」と云つてゐる。

以上の引用文から分ることは、小林自身、散文を書いてゐても、文章表現に働く詩の機能を常に自覚してゐたといふことである。

ところで、これは余談だが、このやうな小林秀雄の文章に、丸谷才一がときどき苦情を云つてゐたのを憶えてゐる。小林の文章は気合で云ひ切つてしまふことの多い文章で、それは散文本来のあるべき姿ではない、かういふ文章を教科書に採用したり、試験問題に使用するのは考へものだと云ふのである。このことについて、長年小林の著作の編輯に携はつて来た新潮社の池田雅延氏から面白い話を伺つたことがある。或るとき何人かの編輯者が小林秀雄を囲んで懇談してゐたが、談たまたま丸谷の発言に及び、皆がまつたくもつて怪しからんと憤りの口吻を漏らすと、当の小林が、いや、丸谷の云つてることは正しい、と云つたので、皆は呆気に取られたと云ふのである。そのとき小林は、まあ、丸谷には俺の文章は分らんだらう、とも云つたさうである。

小林は既に「国語といふ大河」(同第21集所収)といふエッセイで、自分の文章が試験問題や国語教科書に向かないのは「当人が一番よく知つてゐる」と書いてゐたから、編輯者を前にして奇を衒つてみせた訳ではないだらう。それでも往年小林の文章は多くの教科書や試験問題に採用された。その辺の経緯については正直に書いてゐる

「……国定教科書によつてたゝき込まれた教科書神聖の実感は、今もなほ、私の心に厳存してゐるらしく、自分の文章が国語のお手本になるのは名誉なことだと思ふのである。さて、諾否を求められた、こま切れにされた自分の文例がいつも気に食はない。私だつて、もう少しましな文章は、他に書いてゐる、と考へてみるが、こちらからそんなことを進言する筋もない。さりとて、はつきり拒絶する理由もない。とくに、教科書にのるのらぬは、本の売行きにも大いに関係があることを考慮に入れゝば、なほさらのことである。気が進まぬまゝに、放つておくと催促がくる。……えゝいめんだうだ、みんな諾にしておけ、で出してしまふ……。」

余談はさておき、「分るとは苦労すること」といふ言葉に触発されて、以上私なりに苦労してみたが、最後に、特に苦労した訳ではないが何年も掛つて「分るといふことの無数の階段」をほんの少しだけ昇つた話を書いて終りにする。

それは小林が「高野山にて」と「偶像崇拝」(ともに同第18集所収)の冒頭で触れてゐる高野山明王院の「赤不動」に関するもので、小林はこれを「つまらぬ絵」だとはつきり云ひ切つてゐる。園城寺の「黄不動」にも劣るし、青蓮院の「青不動」とは比べものにもならないと云ふ。三十年以上も昔これを初めて読んだとき、私はそれらの絵の存在すら知らなかつたから、ふうん、と思つただけで、そのままになつてゐた。二、三年前、家内が京都に行く用があり、青蓮院にも行くと云ふので、ふと思ひ出し、もし見られたら「青不動」をよく視て、写真を売つてゐたら買つて来るやう頼んだ。家内は、護摩の煙に遮られてよく見えなかつたと云ふ。私は写真を見ただけだが、一応のイメージは得た。つい最近、テレヴィジョンの或る番組を見てゐたら、高野山の「赤不動」が映つた。たまたま録画してゐたので、小林の言葉を思ひ出しながら繰返し視てみたが、何だか顔が漫画のやうであまり怖くない。どちらも本物を見た訳ではないから、小林の言葉が分つたとは云へない。「黄不動」は写真すらまだ見てゐない。今のところこれだけの体験である。存在すら知らなかつた頃に比べれば、三十年以上掛つてほんの少しだけ階段を昇つた訳だが、小林秀雄の言葉の力がこちらの関心を途切れさせなかつたのだと思つてゐる。

(了)