ブラームスの勇気

杉本 圭司

終戦翌年の暮れに「モオツァルト」を世に問い、翌年三月には三度目となるランボー論(「ランボオ Ⅲ」)を発表した半年後、小林秀雄は『夕刊新大阪』に「文芸時評について」という一文を寄せ、その最後に次のように書いた。

 

僕が文芸時評を中止しているのは、批評の形式による文学作品の確立という考えに、この数年来取りつかれているが為である。出来るか出来ないかやるところまでやってみねばならぬ。二兎は追えぬ。サント・ブウヴの大才を以ってしても「ポオル・ロワイヤル」を書く為には「ランディ」を止めねばならなかった。

 

「ポール・ロワイヤル」は、この修道院を中心とする十七世紀のジャンセニストの歴史を描いたサント・ブーヴ畢生の大著である。一方「ランディ(月曜)」とは、「月曜閑談」と題して毎週月曜日の新聞紙上に二十年近く発表された、この批評家のいわゆる「精神の博物誌」としての文芸評論を指す。戦前長らく続けられた小林秀雄の「ランディ」としての文芸時評は、昭和十六年八月の『朝日新聞』に発表された<長編小説評>(現行題「文芸月評 XXI―林房雄の『西郷隆盛』」)を最後に「中止」された。そして二ヶ月後、彼の「ポール・ロワイヤル」たるドストエフスキー論が、「カラマアゾフの兄弟」の連載として新たに開始されている。

ただし右の一文で言われた「批評の形式による文学作品の確立」という彼の考えには、ドストエフスキー論を最初に企図した頃の、批評的創作として作家の像を手ずから創り上げるという野心に加えて、もう一つの新たな創作要求が加わっていた。それは、「批評文も亦一つのたしかな美の形式として現れるようにならねばならぬ」という要求であった。これは、「モオツァルト」発表の十ヶ月前、文字通りの戦後第一声となった「コメディ・リテレール」座談会で言われた言葉である。小林秀雄は、「文学は又形である、美術でもある」とも言い、自分がこのように考えるようになったのは、造形美術に非常に熱中したからでもあると語った。

小林秀雄がいつその「造形美術」つまり骨董の世界に足を踏み入れ、親しむようになったのかは、単なる年譜的事実として一口に語れる問題ではないが、彼自身は、後に「骨董」と題するエッセイで、「狐がついた」時のことを次のように回想している。ある日、青山二郎に連れられて行った日本橋の古美術店「壺中居」で、鉄砂で葱坊主を描いた李朝の壺がふと眼に入った。するとそれが烈しく彼の所有欲をそそり、我ながらおかしい程逆上して、数日前に買ったばかりのロンジンの時計と交換して持ち還った、というのである。それは昭和十三年の秋頃、ないしはその年の十月から十二月にかけて満州、朝鮮、中国に渡った帰国後間もない頃の出来事であった。

前回触れたように、「ドストエフスキイの生活」の序文の前半二章(昭和十三年十月)と、後半三章を含めた全文(昭和十四年五月)が、その二ヶ月間にわたる大陸渡航にまたがるようにして発表されている。つまり骨董の「狐」たるこの「葱坊主」は、小林秀雄が、当時の彼にとっての「殆ど唯一の思想の淵源」(「『ドストエフスキイの生活』のこと」)を掘り進め、「歴史とは何か」の問いに突き当たった時に、「美とは何か」というもう一つの大きな問いとして突如彼の前に現れ、謎をかけ、取り憑いたということになる。「ドストエフスキイの生活」が刊行された翌月、小林秀雄は「慶州」という紀行文を発表し、朝鮮旅行中に訪れた仏国寺石窟庵の圧倒的な美しさの印象について語ったが、これもまた同じ時機に彼を見舞った「美とは何か」の謎かけであったと言えるだろう。「天井を穹窿状に畳んだ円形の後室」に鎮座する白い花崗岩の釈迦像と、同じく白色のドーム壁面に彫り込まれた菩薩の美しさに打たれる小林秀雄は、あたかも「葱坊主」の壺中に佇みながらその白磁の内壁を見上げているかのようである。

その小林秀雄が、骨董への傾倒についてはじめて語ったのは、それから三年余り経った昭和十七年五月、「『ガリア戦記』」というエッセイにおいてであった。

 

ここ一年ほどの間、ふとした事がきっかけで、造形美術に、われ乍ら呆れるほど異常な執心を持って暮らした。色と形との世界で、言葉が禁止された視覚と触覚とだけに精神を集中して暮らすのが、容易ならぬ事だとはじめてわかった。今までいろいろ見て来た筈なのだが、何が見えていたわけでもなかったのである。文学という言葉の世界から、美術というもう一つの言葉の世界に時々出向いたというに過ぎなかった。そしていつも先方から態よく断られていたのだが、無論、そんな事はわからなかった、御世辞を真に受けていたから。と、そんな風にでも言うより他はない様な或る変化が徐々に自分に起った様に思われる。美の観念を云々する美学の空しさに就いては既に充分承知していたが、美と言うものが、これほど強く明確な而も言語道断な或る形であることは、一つの壺が、文字通り僕を憔悴させ、その代償にはじめて明かしてくれた事柄である。

 

この一節では、「ここ一年ほどの間、ふとした事がきっかけで」とあり、また「が、文字通り僕を憔悴させ」とも書かれていることから、あたかも「壺中居」での「葱坊主」との邂逅はこの一年前の出来事であり、そこから一気に彼の眼が開かれ、骨董熱が昂じたように見える。しかし実際には、昭和十三年の秋から暮れ頃までの間に「葱坊主」を衝動的に買った後(正確に言えば「時計と交換した」後)、青山二郎を指南役とした一、二年の「苦行時代」(青山二郎「小林秀雄と三十年」)があったのであり、「ガリア戦記」が書かれる一年前の昭和十六年頃になって、ようやく、「『眼が見える』と言う所まで来」た(同)ということだったらしい。彼自身書いている通り、その変化は「徐々に」起こったのである。それがまた、右の一節で、「今までいろいろ見て来た筈なのだが、何が見えていたわけでもなかった」、「既に充分承知していたが……はじめて明かしてくれた」という言い方が執拗に繰り返された所以でもあった。文はさらに次のように続いている。

 

美が、僕の感じる快感という様なものとは別のものだとは知っていたが、こんなにこちらの心の動きを黙殺して、自ら足りているものとは知らなかった。美が深ければ深いほど、こちらの想像も解釈も、これに対して為すところがなく、恰もそれは僕に言語障害を起こさせる力を蔵するものの様に思われた。それでも眼が離せず見入っていなければならないのは、自分の裡にまだあるらしい観念の最後の残滓が吸い取られて行くのを堪えている気持ちだった。

 

しかし「『ガリア戦記』」において、小林秀雄が語ろうとしたのは、右で言われた骨董への開眼という事実そのものではなかった。彼が伝えたかったのは、骨董への開眼によってもたらされた、文学に関するある新たな啓示についてであった。重要なのは、十年余り続けてきた文芸時評の舞台を彼が降りたのが、「ここ一年ほどの間」であったという事実なのである。

 

文学に興味を持ち出して以来、どの様な思想もただ思想としては僕を動かした例しはなかった。イデオロギーに対する嫌悪が、僕の批評文の殆どただ一つの原理だったとさえ言えるのだが、今から考えるとその嫌悪も弱々しいものだった様に思われる。好んで論戦の形式で書いたという事が既にかなり明らかな証拠だろう。そして今はもう論戦というものを考える事さえ出来ない。言葉と言葉が衝突して、シャボン玉がはじける様な音を発するという様な事が、もう信じられないだけである。(同)

 

六年前、「様々な評家が纏った様々な意匠に対する反駁文」(「私信」)としての批評文、右の言葉で言えば「イデオロギーに対する嫌悪」をほとんど唯一の原理とする批評に飽き足らなかった小林秀雄は、「ある作家並びに作品を素材として創作する」ことを企図した。それが当時彼が目論んだ「本当の批評文」であり、その野心の結果生み落とされた批評作品が「ドストエフスキイの生活」であった。ところがその脱稿とほぼ時を同じくして彼に取り憑いた骨董への異常な執心が、彼に「言語障害」を起こさせ、彼の裡にあった「観念の最後の残滓」を吸い取り、美とは「言語道断な或る形」であるという事実を身をもって思い知らせた。この美の経験の渦中で、何よりも彼を驚かせたのは、たまたま手に取った「ガリア戦記」という古代ローマ文学が、あたかも古代ローマの美術品の様に彼に迫り、沈黙を強いたという事実である。それは文学というよりも、地中から掘り起こされた戦勝記念碑の破片のように現れ、石のザラザラした面や強い彫りの線として感じられた。それまで「文学という言葉の世界から、美術というもう一つの言葉の世界に時々出向いたというに過ぎなかった」小林秀雄の中で、言わばいうことが起こったのである。

そして彼は呟くのだ、「文学というものは、元来君等が考えているほど文学的なものではないのだ」と。これは、骨董という「狐」の存在なしには決して吐き得なかった台詞であり、「文学的な、あまりに文学的な」近代ヨーロッパ文学によってこの世界に眼を開かれ、批評家となった小林秀雄にとって、文学に関するコペルニクス的大転回であった。この時期、小林秀雄は西洋から日本へ回帰したということが言われるが、むしろ彼は、観念から形へ回帰したと言った方がよい。あるいは観念から形へ回帰するというその心の傾斜の在り様が、いかにも日本的なのである。しかもこの啓示の中の「文学」という言葉が、翌月発表された「無常という事」においては、そのまま「歴史」に置き換えられる。歴史もまた、彼にとっては、美しく感じられる「動かし難い形」として立ち現れるようになるのである。「ドストエフスキイの生活」の執筆によって、「批評とは何か」の問いが、「歴史とは何か」の問いに呑み込まれていったように、今また骨董との出会いにより、「歴史とは何か」の問いが、「美とは何か」という問いに包摂されてゆく。「批評文も亦一つのたしかな美の形式として現れるようにならねばならぬ」という彼の要求は、この三つの問いの衝突と融合のダイナミズムから生れたものであり、それはつまり、彼を憔悴させた一口の壺のように、「強く明確な而も言語道断な或る形」としての批評を生み出したいという欲求なのであった。

「『ガリア戦記』」が書かれた昭和十七年から翌十八年にかけて、『文學界』を舞台として発表されたエッセイ群、とりわけ日本の古典をめぐって書かれた諸篇は、すべてこの「言語道断な或る形」としての歴史と文学を主題としながら、これを綴る彼の批評文それ自体が「言語道断な或る形」であることを願っている。世阿弥の「美しい『花』」も(「当麻」)、歴史という「解釈を拒絶して動じないもの」も(「無常という事」)、「『平家』という大音楽」も(「平家物語」)、兼好の「物が見え過ぎる眼」も(「徒然草」)、西行が詠んだ「いかにかすべき我心」(「西行」)や、実朝の歌が伝える「悲しい調べ」の数々も(「実朝」)。これら白洲正子が「きらきらした」と評した一連の散文は、「コメディ・リテレール」座談会が発表された五日後に、『無常という事』として創元社から上梓された。新作の批評作品という意味では、小林秀雄の戦後第一作は「モオツァルト」であったが、刊行に際して入念に手を入れたその推敲の跡を見れば、昭和十八年の秋以降長らく沈黙していた小林秀雄が、戦後最初に世に問うたのは『無常という事』であったとも言える。そしてこの『無常という事』諸篇の背後で構想し続け、四年の歳月をかけて書き上げた「モオツァルト」において、彼が目論んだ「たしかな美の形式」としての批評文学は一つの極点に達した。

続けて取り組まれた「ゴッホの手紙」の連載において、彼のこの新たな野心が、この画家の苛烈なまでの「無私」に触れることによって次第に消失していったことはすでに見た。だがまたそれは、彼の骨董の「狐」が落ちたということでもあったのだ。小林秀雄が骨董についてその事実を明かしたのは、昭和二十六年一月に発表した「真贋」においてであるが、『文體』で連載開始された「ゴッホの手紙」が雑誌廃刊とともにいったん中断され、一年半の期間をおいて『芸術新潮』であらためて再開されたのも、同じ昭和二十六年一月のことであった。

(つづく)