編集後記

坂口 慶樹

はじめに、本誌読者の皆さんが、このたびの新型コロナウイルス禍の影響を、少なからず受けておられることとお察しし、心からお見舞い申し上げます。加えて、同禍の影響を本誌編集部も受け、スタッフの足並みが乱れ当初の意のままに対応できなかったため、発行が遅れてしまったことを、心よりお詫び申し上げます。

 

 

さて今号では、とりわけ「美を求める心」に注目されたい。今年の2月初旬、東京で開かれた東京都交響楽団(*1)第896回定期演奏会の特集である。

最初に、本塾ともご縁の深い、同楽団のソロ・コンサートマスター、矢部達哉さんに、「明晰なファンタジー、ロトの指揮」(*2)と題してご執筆いただいた。その内容は、通常、客席からは決して計り知ることのできない、舞台上での指揮者とコンサートマスターとの間の機微である。その機微を、本誌において、ここまで精しく語って下さった矢部さんに、心からの敬意と感謝の気持ちを表したい。読者の皆さんには、ふだん矢部さんが会話をされるときの感じそのままに綴られた穏やかな語り口を、それこそホールで鳴る音に身を任せるのと同じように、じっくり味わっていただければと思う。

 

その演奏会が開かれた、上野の東京文化会館の客席に、杉本圭司さんがいた。今回のエッセイ「音楽を目撃する」は、杉本さんが終演後、矢部さんに出した感謝の思いを伝えるメールが元になっている。紙背から、その感動の大きさ、こころ動くさまが立ち上がってくる。そこで杉本さんが「目撃」したものは、ロトの指揮の舞いの見かけの形ではなく、その「舞い」が、「そのままオーケストラが奏でる音楽として十全に鳴る様」であった。

 

 

もはや本誌の人気の「まくら」とも言える荻野徹さんの「巻頭劇場」は、落語に「もののあはれ」を聴き取る対話から始まる。「娘」は、本居宣長が「源氏物語」に感じたものと同じものがそこに在ると言う。対話は、宣長さんが言う「道」にまで及ぶ。それでは、荻野さんによる「寄席通い」の一席、ご存分にお愉しみを! 今号は「巻頭寄席」である。

 

 

荻野徹さんは、「『本居宣長』自問自答」にも寄稿されている。今回の問いは、神や神代について、「はきはきと語る賀茂真淵」の「内容の曖昧さ」が由来するところの「問題自体の暗さ」、その「暗さ」とは何かである。宣長には、恩師である真淵の学問上の限界が、その心中までもが見えていた。どうしてこんなことになったのか……。荻野さんの「発明」に注目されたい。

 

 

有馬雄祐さんは、「考えるヒント」において、映画の登場人物が、自分自身が何者であるかに気付く瞬間、‘character-defining moment’に関するスピルバーグ監督のスピーチを契機として、生命の創造性と、人間一人ひとりが生きている意味について思いを巡らしている。その手がかりは、スピルバーグ監督と哲学者のベルクソンがともに説く、「直観」のささやきに耳を傾けるところにあると言う。

 

 

改めて「美を求める心」に話を戻したい。今号の矢部さんと杉本さんのエッセイを合わせ読むことで、私は、自分までもが東京文化会館の大ホールに同席し、そこで奏でられる音楽を「目撃」していたかのような錯覚に陥ってしまった。そこに、今回の演奏会場に宿っていた力の凄まじさを感じざるを得ない……。

その夜、壇上にいた矢部さんは、「ロトを通じてラヴェル(*3)と繋がる聴衆のひとりとして、その音楽を聴きました」と言う。客席にいた杉本さんは、ロトと、矢部さんはじめ演奏家の皆さんによる「作曲家の創造の意思に肉薄し、これを再生しようとする誠実と熱情」を感得した。それは、まさに矢部さんが言っているように「時空を超えて音楽と演奏者と聴衆が繫がり合う」一夜であり、その場に居合わせた全ての人たちが、作曲家ラヴェルの心魂と直に触れることができた瞬間だったのであろう。

 

小林秀雄先生は「本居宣長」の中で、こう記している。

「誰も、各自の心身を吹き荒れる実情の嵐の静まるのを待つ。叫びが歌声になり、震えが舞踏になるのを待つのである。例えば悲しみを堪え難いと思うのも、裏を返せば、これに堪えたい、その『カタチ』を見定めたいと願っている事だとも言えよう。捕えどころのない悲しみの嵐が、おのずからあやある声の『カタチ』となって捕えられる」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集、p264)

 

杉本さんが、この演奏会で「音楽のもっとも初源的な発生の瞬間に立ち会えたかのような」感動を覚えたと言っているように、矢部さんや杉本さんが、演奏中に感得し「目撃」したものは、ロトの指揮の形を通じて現出した、ラヴェルが自らの叫びや震えを見定めた、その「カタチ」だったのではなかっただろうか。

 

 

(*1)東京都交響楽団:東京オリンピックの記念文化事業として1965年東京都が設立(略称:都響)。定期演奏会などを中心に、小中学校への音楽鑑賞教室(50回以上/年)、青少年への音楽普及プログラム、多摩・島しょ地域での訪問演奏、ハンディキャップを持つ方のための「ふれあいコンサート」や福祉施設での出張演奏など、多彩な活動を展開している。(出典:『月刊都響』2020年1・2月号)

(*2)ロト:フランソワ=グザヴィエ・ロト(François-Xavier Roth)、1971年パリ生まれ、カリスマ性と進取の気性で最も注目を集めている指揮者の1人。ケルン市音楽総監督として同市のギュルツェニヒ管とオペラを率い、ロンドン響主席客演指揮者も務めている。(同上)

(*3)ラヴェル:ジョセフ=モーリス・ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel)、1875-1937年、バスク系フランス人の作曲家、バレエ音楽『ダフニスとクロエ』や『ボレロ』、『スペイン狂詩曲』、『展覧会の絵』のオーケストレーションなどで知られている。

(了)