一
小林秀雄のレコードラックは、伊豆の大島を望む南面の居間の、庭に向かって左の隅に置かれてあった。編集者が原稿の打ち合わせなどで訪ねると、彼はきまってそのラックを背にした椅子に腰掛け、応接したという。
鎌倉八幡宮の裏山に建ち、全山の緑に取り巻かれた彼の旧宅は、「山の上の家」と呼ばれていた。小林秀雄は、四十六歳の年から三十年近く、生涯で最も長い時間をここで過ごした。「ゴッホの手紙」、「私の人生観」、「『白痴』について Ⅱ」、「近代絵画」、「感想」(ベルクソン論)、「考えるヒント」など、彼の後半生の作品のほとんどが、この空間から生み出され、畢生の大作となった「本居宣長」も、全六十四回の連載のうち、第六十回までがここで執筆されている。七十四歳となる年の一月、小林秀雄はこの家を知人に譲ったが、その時レコードのごく一部だけを手元に残し、あとは長らく使用したオーディオ装置と一緒に、ラックごと「山の上」に置いていったのだった。
そのレコードラックに残された千枚を超えるレコードを閲覧する機会に恵まれたときのことを、高橋英夫氏(「小林秀雄のレコード」)と前川誠朗氏(「小林秀雄とレコード」)がそれぞれ書いている。それらは一枚を除いてすべて戦後のLPで、「モオツァルト」を執筆していた頃に所有していた厖大なSPレコードはすでになかった。作曲家では、やはりモーツァルト、そしてベートーヴェンとバッハが飛び抜けて多かったが、彼が自ら買い求めたレコードではない、編集者が持ち込んだものやレコード会社から献呈された見本盤なども多かったというから、およそ「小林秀雄のレコードコレクション」とは呼べない、雑然たるレコード群であった。毎日音楽を聴かない日はないと自ら語った小林秀雄は、しかし、その雑然たるレコードラックの中から、日々LPを取り出しては音楽を聴き続けたのである。
さて、それらのLPレコードを作曲家別に数えていく中で、高橋氏がこれは貴重な発見ではないかと思ったのは、上記の三人に次いで、ブラームスのレコードが相当な数出てきたことであった。「ひょっとすると小林さんは、隠れブラームス派かな?」とまで思ったそうである。そしてブラームスを何かかけてみようと思い立ち、偶々手にした交響曲第一番のレコードをジャケットから抜き出したところ、盤面が汚れていて、何度もかけた跡が明瞭だったという。
生前、小林秀雄は、ブラームスについては一行も書き残さなかった。唯一、五味康祐との対談「音楽談義」の中に、「あの人(ドビュッシー)はドイツではワーグナーよりブラームスと近い人じゃないですか」という発言があるのみである。
その小林秀雄が、実はブラームスに深く傾倒していたという事実をはじめて示唆したのは、学生時代から彼の音楽生活を間近で眼にしていた大岡昇平であった。小林秀雄が亡くなった時、「文學界」の追悼特集号で行われた大江健三郎との対談(「伝えられたもの」)で、大岡昇平は、「小林さんはモーツァルトのほかに、ブラームスも好きだった」と伝えている。ある時、自分がモーツァルトのオペラのメロディの美しさを言ったところ、「ブラームスだって美しい」と怒られたことがあったという。
その四年後、ステレオサウンド社から「音楽談義」のカセットテープが発売され、大岡昇平の証言が裏書きされることとなった。六十四歳の時に記録されたこの録音には、小林秀雄が活字として発表した対談録では削除されていた発言が多く含まれていたが、その中に、ブラームスについての彼の熱烈な言葉が収められていたのである。
彼はまず、自分は音楽を聴かない日はない、自分の文章も音楽に影響を受けていると断った上で、今連載している「本居宣長」は、ブラームスで書いていると語り出す。それを受けて、五味康祐が「先生の文章は難しいです」と返すと、小林秀雄は、自分の文章は少しも難しくはない、あれはブラームスの音楽が難しいようなもので、ブラームスのように肌目が細かく、おっているのだと言う。おっているとは、織物をおるという意味の「織る」に、道がおれるという意味での「折る」が重ねられているようで、緻密な織物を織っていくように、音楽の諸声部が表に現れたり裏に隠れたりしながら交錯する、あるいは深い森の径を歩んで行くように、主題が脇道へ逸れたり元の道へ戻ったりしながら進行する、その様を、「テーマは随分先に出るが、一度出てもおれて、またどこかで出る」という言い方で表現するのである。
この「『本居宣長』はブラームスで書いている」という彼の言葉に連なる証言として、小林秀雄のもっとも身近にいた編集者の一人であり、「本居宣長」の連載を担当した元新潮社の坂本忠雄氏が、小林秀雄から直に聞いた話を交えながら書いている。氏によれば、それは、「本居宣長」は変奏で書いている、ということであると言う。
連載は延々と続き、先生は時に「年を取ってくると、手に唾をつけないと縦糸と横糸がしっかりと織れない。それを読者に覚られてはならないよ」と述懐されることもあったが、後から考えれば連載半ばに達した頃、「ブラームスの音が繰返しながら少しずつ進んでいくように書いているんだ」と言われた。幸い私は言わんとされていることがすぐに感知できた。(「ブラームスと原稿料」)
そしてブラームスの音楽に変奏が執拗に現れることの例として、弦楽六重奏曲第一番、ハイドンの主題による変奏曲、交響曲第四番が挙げられている。
坂本氏が感知した、「本居宣長」は変奏で書いているとは、小林秀雄自身、この作品の中で繰り返し言及したところでもあった。たとえば第三十五章は、「『人に聞する所、もつとも歌の本義』という主題については、まだまだ変奏が書けそうな気がする」と結ばれているし、坂本氏も引用している第四十七章には、「私としては、同じ主題に、もう一つ変奏を書くように誘われた、という事である」ともある。さらに単行本にする際には削除された連載第五十五回の末尾にも、「どうも、又脇道に逸れた様子で、元に戻らねばならないが、これも、宣長の得た古道という実に単純で充実した主題を考えていると、おのずからその変奏の如きものがいくつでも心に浮んで来るという事でもあるのだ」との断りがある。その他、「変奏」という言葉を使っていなくとも、ある主題を繰り返し繰り返し、その都度語り口を変えながら書き継いでいくという書法は、この作品の全篇にわたって見られるもので、その変奏の重層性は、連載の回を重ねるにしたがって増す一方であった。
「本居宣長」は、確かに巨大な変奏曲の様相を呈している。そして小林秀雄自身、そのことをはっきり意識しながら、連載十一年半、推敲一年をかけたこの長編を書き継いでいったことは間違いないだろう。しかし彼が言った、「『本居宣長』はブラームスで書いている」とは、この作品を変奏曲のように書き進めるという一事だけを指していたわけではなかった。ブラームスが変奏曲を得意とした作曲家であったことは事実だが、この作曲形式は、ブラームスの発明でも専売特許でもない。そもそも変奏曲の大家といえば、誰をおいてもベートーヴェンを挙げなければならないだろう。ブラームスは、ベートーヴェン以後に現れた変奏曲の大家の一人であり、小林秀雄もそのことは承知していたはずである。ところが「音楽談義」の中で、彼は、もうベートーヴェンではやれない、ブラームスでやらなければならない、とも語っているのだ。
「『本居宣長』はブラームスで書いている」とは、批評の文章をただ変奏形式で綴るということではなかった。同じ変奏形式でも、ベートーヴェンの変奏形式ではなく、ブラームスの変奏形式でおらなければならないという意味であった。そしてそれは、「本居宣長」の連載とともに、彼の批評が、ベートーヴェン的なものからブラームス的なものへと移り変わりつつあった、ということでもあったのである。
(つづく)