小林秀雄「本居宣長」全景

池田 雅延

一 刊行まで

小林秀雄の『本居宣長』は、昭和五十二年(一九七七)十月三十日に刊行された。菊版、厚表紙、貼箱入り、全六一一頁で定価四、〇〇〇円という、今なら八、〇〇〇円にもなろうかという本であった。が、いざ発売となったその日、版元新潮社の前には読者の列ができた。終戦直後の昭和二十三年、西田幾多郎の『善の研究』の新版が出たときは、読者が岩波書店を取り巻いたそうだが、『本居宣長』を求める列はそれ以来であったという。今日、村上春樹氏の新刊には似たような騒ぎが何度も見られているから、現代の読者には読者の列と聞いてもさほどに強い印象はないかも知れないが、片や評論、哲学であり、片や小説である、それだけをとっても同列には論じられない。

さらにその年、おそらくは空前と思われる現象が起きた。『本居宣長』が、歳暮に使われたのである。財界の重鎮たちが、『本居宣長』を何冊も買って歳暮にした。しかも、それだけではない。『本居宣長』は、パチンコ屋の景品にもなった。そもそも当時、パチンコの景品に本が使われるということ自体、そうあることではなかったはずである。ましてや、硬派も硬派の小林秀雄の本である、意表をつかれるような、稀有と言っていいような現象だったが、それも裏を返せば、『本居宣長』は、パチンコ屋が客寄せに使いたくなるほどの評判だったということなのだ。事実、書店では都会の大型書店でも売切れ続出だった。

歳暮だの景品だのと、下世話な話をいきなりとはどういう了見だ、あの小林秀雄が精魂こめた『本居宣長』に、世俗の空騒ぎはふさわしくないと、眉をしかめられる向きも多かろう。それはたしかにそうである。しかし、実を言えば、小林秀雄その人が、こういう騒ぎを表立ってよろこび、我が意を得たりと満悦だったのである。

 

発売の約半月後、昭和五十二年十一月の十三日には和歌山で、十四日には大阪で、『本居宣長』の刊行を記念する講演会を催した。翌五十三年六月、『本居宣長』は日本文学大賞を受けることになり、小林秀雄氏はその贈呈式の挨拶で、和歌山、大阪の講演で話した中身と同じことを口にした。後日、その内容は「本の広告」と題して雑誌『波』に載り、今は『小林秀雄全作品』(新潮社刊)第28集に入っている。次のとおりである。

―「本居宣長」が本になった時、新潮社から講演を頼むと言われたが、講演はもう御免だとお断りした。すると、担当者は、「今度は講演じゃないですよ。本の広告なんです」と言うのだな。ああ、そうか、広告なら話は別だ、というわけで、引受けた。
 本は、どんな本だって、まず売れなければ話にならない。これは、常に実生活に即して物を考えた、宣長の根本的な思想に通ずるものです。周知の通り、彼は小児科の医者で、丸薬なども、自家製造して売っていたから、広告もうまかった。「六味地黄丸」という子供の薬を売るために書いた広告文が、今も残っている。……

そう言って、宣長の広告文を全文引いているのだが、ここではひとまず割愛する。そしてその広告文の後である。

―さて、この宣長の教えに従って、言わせて貰う事にしたいが、私の本は、定価四千円で、なるほど、高いと言えば高いが、其の吟味に及ばないのは麁忽そこつの至りなのである。私の文章は、ちょっと見ると、何か面白い事が書いてあるように見えるが、一度読んでもなかなか解らない。読者は、立止ったり、後を振り返ったりしなければならない。自然とそうなるように、私が工夫を凝らしているからです。これは、永年文章を書いていれば、自ずと出来る工夫に過ぎないのだが、読者は、うっかり、二度三度と読んでしまう。簡単明瞭に読書時間から割り出すと、この本は、定価一万二、三千円どころの値打ちはある。それが四千円で買える、書肆しょしとしても大変な割引です、嘘だと思うなら、買って御覧なさい、とまあ、講演めかして、そういう事を喋った。……

―聴衆の諸君も解ってくれたのではないかと思う。売れました。誰よりも販売担当者が、まず驚いた。鎌倉でも、私のよく行く鰻屋のおかみさんまで買ってくれました。鰻の蒲焼と「古事記」とは関係がないから、おかみさんが読んでくれたとは思わないが、買った本は、読まなければならぬなどという義務は、誰にもありはしない。しかし、出版元は、客が買えば印税を支払う義務がある。私としては、それで充分である。昔流に言えば、文士冥利に叶う事だ。冥利の冥とは、人間には全く見通しがきかないという意味でしょう。私は、大学にいた頃から、文を売って生計を立てて来たから、文を売って生きて行くとはどういう意味合の事かと、あれこれ思案をめぐらして来た道はずい分長かった。しかし、私の眼には、この冥暗界の雲は、まだれてくれないようです。……

今度は講演じゃないですよ、本の広告なんです……、そう言ったのは私である。当時、私は三十歳、本を造る係の編集者として出入りを許され、初めての仕事として「本居宣長」を本にさせてもらったばかりだったが、氏の講演嫌いはつとに承知していた。だから、講演は困ると断られるやすぐ引き下がり、今回は講演というより、先生の本を読んでもらうための宣伝なのですが……、と言い添えた。すると、氏は、なんだ? 宣伝だって? 宣伝なら行くよ、そう言われたのである。

和歌山、大阪の講演でも受賞式の挨拶でも、買った本は、読まなければならぬなどという義務は、誰にもありはしない、と言われているが、これは氏の話芸の妙に属する諧謔かいぎゃくで、本はどんな本でも売れなければ話にならないという切実な思想と裏腹に、買ってくれる読者にはしっかり読んでほしいという願いも切実だった。それを私は、昭和五十二年一月から九月に及んだ「本居宣長」の校正作業を通じて思い知らされていた。だからこその「先生の本を読んでもらうための宣伝なのですが……」だったのである。

昭和五十三年二月、単行本『本居宣長』は発売三ヶ月で五〇、〇〇〇部に達し、やがてついには一〇〇、〇〇〇部を超えた。

 

雑誌『新潮』に、昭和四十年から書き継がれた「本居宣長」は、五十一年十一月、同誌の同年十二月号をもって連載終了となった。翌五十二年新年号に、編集部の名で「読者へのお知らせ」が載っている。

―小林秀雄氏の連載評論『本居宣長』は、本誌昭和四十年六月号より十一年余にわたって断続的に掲載して参りましたが、昭和五十一年十二月号をもって、未完のまま連載を終ることになりました。今後は完結までを書き下ろして、単行本として、昭和五十二年小社より刊行致します。/長期に及んだこの連載において、読者に伝えんとする眼目はそれぞれほぼ書きつくしたので、掲載分を推敲、凝縮の上、結語を急ぎたい、という筆者の意向に基づくものであります。/長い間ご愛読いただき有難うございました。何卒右の事情御了承の程お願い申し上げます。……

小林氏のこの連載終了の意思は、五十一年十二月号の発売直前に『新潮』編集部に告げられた。突然であった。氏の許に通って十一年、原稿を受取り続けた『新潮』の編集者、坂本忠雄氏ですら予測だにしていなかった。何があったのか、どういうわけなのか……。だが、そこを思案しているいとまはなかった。坂本氏とともに小林氏を訪い、単行本に向けて手筈を相談した。連載の第一回分から手を入れて、来年中には本にしたい、君には苦労をかけるが、よろしく頼む、そう言われた。

氏の意を体し、昭和五十二年内の刊行を期して私の仕事が始まった。まずは、単行本化のために著者が行う加筆用の土台造りである。今日幅をきかせているパソコンやデジタル・データは、普及はおろか影も形も見せていなかった。雑誌や新聞に連載された著作を本にしようとすれば、連載中から掲載ページの切抜きをとっておき、それらを一ページ分ずつ四〇〇字詰の原稿用紙の真ん中に貼っていく。著者は編集者からその貼り込み原稿を受け取り、余白に新たな修整文を書き込むなどして編集者に返す。編集者はその書込み稿を整理して印刷所に送り、本としての新たな活字の組上げを頼むのである。「本居宣長」の切抜きは、五十一年十一月中に貼り込みを終え、十二月の末、暮の挨拶に参上した席で小林氏に託した。

 

当時、ふつうの本であれば、本文の字数は一冊あたり四〇〇字詰原稿用紙で四、五〇〇枚から七、八〇〇枚というのが標準であった。したがって、著者の書込みは、貼り込み稿を預けて二、三週間もすれば一度で編集者の手に戻ってきた。しかし、「本居宣長」は、『新潮』掲載稿が合せて一、五〇〇枚分はあった、しかも、内容は、本居宣長の原文引用も夥しければ小林氏の行文も緻密である。とても一気呵成にというわけには参らない。そこでこういう手筈を調えた。『新潮』掲載の一、五〇〇枚分をざっと三等分し、これらを順次、小林氏から返してもらう、私はそれをただちに印刷所に送り、印刷所から校正刷を出してもらい、校正者には校正作業を始めておいてもらう、この段階での著者修整は、彫刻でいえば粗彫りに留め、細部の彫琢には印刷所が活字を組上げてからの校正段階で時間をかける……、この手筈を氏も諒とされた。

実際、このとき氏の前にあったのは、往時、ミケランジェロがダビデを彫るために立ち向かった大理石にも譬えたくなる原稿の塊であった。その塊は、小林氏自身が十一年半かけて積み上げたものには違いなかったが、単行本上梓という新たな局面に立った時点では、その原稿の塊は小林氏が手ずから切り出してきた大理石とも見え、その大理石に小林氏自身が気魄ののみをふるう、そういう構図だったのである。

 

昭和五十二年が明けるなり、小林氏からは順次書込み修整稿が私に手渡された。『新潮』の連載回数は六十四回だったが、後半の第三十四,三十五、四十二、四十三、四十四、四十五、四十六、五十一、五十五、五十九、六十、六十一章は全面削除され、他にも大幅削除の章がいくつかあって、本としての章立ては新たに全四十九章とされた。最後の一章、すなわち第五十章が、全篇校正の完了後に書き下ろす結語に宛てられた。こうして私の仕事は、第一段階の入稿作業から、第二段階の校正作業に入った。

その校正作業も、ふつうの本であれば、一冊分まとめて校正者から編集者、編集者から著者、著者から編集者、編集者から印刷所と、テンポよく進むのである。ところが、「本居宣長」は、ここでもそうはいかなかった。『新潮』の掲載稿に削除が加わり、四〇〇字詰原稿用紙にして一、五〇〇枚分が約一、〇〇〇枚分の校正刷になったとはいえ、これをふつうの本と同じように運んでいくことはできなかった。宣長の引用文はすべて旧字旧仮名である。小林氏の文も旧字旧仮名である。それだけでも校正者はふつうの本にはない慎重さが求められる。そこでまた一計を案じた。今度は全体を十等分し、印刷所から出てきた校正刷はまず第一章から第五章までを校正者に渡す、校正者は作業を終えた校正刷を私に回し、私は編集者の目で読んでそれを小林氏に届ける、その間にも校正者は次の第六章から第十章の校正を進め、それを私に回し、私は小林氏に届け、という循環を繰り返す、あたかも音楽の輪唱のように、この循環を十回繰り返すのである。

 

編集者の仕事は多岐にわたるが、中核をなすのは目の前に現れた原稿の出来、すなわち売れるか売れないか、後世に残るか否か、その鑑定と、当該原稿をいっそう高度な完成域へと押し上げるための助太刀である。この二つは車の両輪のようなもので、同じことは芸術、教育の世界や、スポーツの世界でも言われているだろうが、本の編集者の場合は助太刀の手腕がより求められると言っていい。雑誌や新聞に掲載された原稿は、原稿の出来に関しては一応の鑑定がなされている。しかし、雑誌や新聞は、締切という時間との戦いのうちに見切り発車しなければならないこともしばしばである、やむなく心残りを残したまま発行に至ってしまっているケースも少なくない。その心残りを、本の編集者が引き継ぐのである。

一般に、本はすべて著者が書いている、編集者は著者の原稿を整理して、雑誌や本という器に盛りつけるだけの商売であると、そう思われている節がある。憚りながら、それはとんでもない誤解である。どんな天才、英才といえども、著者ひとりで文章の完璧を期すことはできない。手っ取り早いところでは、長篇小説を思い併せていただけば十分だろう。何人もの登場人物の風貌、背丈、服装、言葉づかい、職業、出身地、学歴、癖……これらを細かく描き分けて混線させないだけでも大変だが、そこに舞台となる国や都市の地理地形、風俗習慣、歴史的、政治的、経済的、国際的、学術的その他の諸要素がからみ、それらにふとした勘違いも起れば悪しき思い込みも割り込んでくる、ストーリー展開や事件の時間軸に矛盾も起りかねない。こういった側面の、混線、誤謬、矛盾等々を見逃さず、逐一指摘して作者に修正を促すのも編集者の役割なのである。

むろん、それだけではない。もっと大事なことは、この著作で著者が言わんとしていることが、この表現で読者に伝わるかどうか、著者が井の中の蛙と馴れあって独りよがりになっていないかどうか、そこに目を光らせる。さらには、著者が目指しているその著作の思想的、芸術的到達点を逸早く直観し、その到達点への進路をはずれて著者が迷走するときは本来の軌道へ引き戻し、著者が中途で尊大になったり弱気になったりして、筆鋒が荒れたり鈍ったりしたときは𠮟りつけてでも挙措を正させる。

こうした働き、役回りから言うなら、編集者は囲碁の世界で言われる「傍目おかめ八目」のプロなのである。「傍目八目」とは、いま現に碁を打っている棋士よりも、盤のわきで対局を見ている観戦者のほうが八目多く戦局を読めるということで、往々にして当事者よりも第三者のほうが物事がよく見えるということを言った格言である。したがって、編集者の給料の大半は、「傍目八目」の働きに対して支払われているとさえ言っていいのだが、なかでも編集者が先読みすべき大事な「目」は、著者の資質と適性である。著者本人はなかなか気づけない。

 

昭和四十五年の春、新潮社に入り、何人かの著者の本を造らせてもらって、私は常にこの傍目八目を自分に言い聞かせていた。したがって、「本居宣長」の校正刷を読むにあたっても、同じ心構えで臨んだ。昭和五十二年二月、そうして読んだ第一章から第五章の校正刷を小林氏に届けた。約二週間後には第六章から第十章までを届けた。さらに二週間後、第十一章から第十五章までを届けようとして、私は重大なことに気づいた。私が小林氏に届けている校正刷には、編集者の傍目八目で見てとった小林氏への相談事を鉛筆で書き込んでいる。その鉛筆書込みが、これまでに造った本の何倍にもなっているのである。

むろん、批評家として半世紀以上も文章を書いてきた小林氏の著作である、しかも一度は新潮社校閲部の目を通っている「本居宣長」である、さらにしかも、単行本に向けて新潮社校閲部の老練校正者があらためて目を通した校正刷である、歴史的、文献的な誤謬も、日本語文としての用語の適不適等も、ほとんど私の出る幕ではなかった。にもかかわらず、私の鉛筆書込みが異常に多くなっていたのは、ひとえに「本居宣長」の文章の奥の深さからだった。その文章の奥の深さが、小林氏特有の難解さと受け取られ、読者を立ち往生させてしまうであろう箇所が少なくなかった。私はそこを、私なりに合点したい一心で小林氏に質問を呈し、可能なかぎりでもう少し言葉を補ったり、表現を砕いたりしていただけまいかと該当箇所に試案を書き込んでいた、その数が尋常ではなかった。

これはいけない、と思った。相手は本居宣長である。小林秀雄氏である。七十五歳の小林氏が、六十三歳の年から十二年ちかくをかけた畢生の思索である。学校で日本文学を専攻してきたとはいえ、おいそれと三十歳の若造の手の届くところではない。この先、この書込みについては御免を願い出よう、編集者の最重要任務「傍目八目」を放棄する無責任は弁解できないが、これからまだまだ第五十章まで、小林氏の徹底推敲という思索の戦いは続く。その戦いに私がからんだのでは足手まといも甚だしい。いま優先すべきは小林氏自身の思索時間の確保である、その点の先読みが、いまの私にできる唯一の「傍目八目」である……。

三月、第十一章から第十五章の校正刷を携えて参上し、それを氏に託してすぐ、私は上記の心中を申し述べ、寛恕を乞うた。

氏は、私の言葉を最後まで聞き、私が口を噤むなり、

―君、それはちがう。

と言われた。

―僕の文章を、君くらい丹念に読んでくれる読者はいないんだ。君にわかってもらえないのでは、日本中の読者の誰にもわかってもらえない、そうではないか。僕の書いたものは、読者が読んでくれなければ僕が書いた意味はないんだ。読者に読んでもらうためには、誰よりも君にまずわかってもらう、そのためならどんな努力もする、遠慮はいらない、これまでと同じように、これからも訊いてくれたまえ……。

氏は、それからしばらく黙り、そして言われた、

―宣長さんは、とてつもなく難しいことを考えた人だ、しかし、彼の文章はおどろくほど平明だ、あれが文章の極意なんだ……。

「本居宣長」の校正作業は、初校が五十二年六月まで、再校が八月まで続き、最後の第五十章は七月に書き上げられて、第一章から第五十章までが揃った三校は九月まで続いた。私の校正刷への書込みも、九月まで続いた。

 

小林氏は、君にわかってもらうためならと言われたが、氏がどんなに懇切に手を施されようと、半年そこらで私に「わかる」はずはなかった。それでも各所、私なりに得心して九月の末に全ページを校了にした。その得心を譬えていえば、こういう事である。父親が子供を連れて歩いていて、きれいな山を目にする。あの山をごらん、どうだ、きれいだろう、と子供に言う。しかし、背丈の足りない子供は、目の前の草むらに邪魔されてはっきりとは山が見えない、それを父親に言うと、ああそうか、それではと父親が肩車をする、あるいはそばにあった木の枝で背の高い草を払いのけ、どうだ、見えたか、うん、見えた、きれいだね……。比喩の拙劣はお詫びするが、これと似た小林氏の配慮で、私にも本居宣長という山の全貌を目にすることはできるようになったのである。五十二年九月現在の私の「わかった」は、こういうわかり方だったのである。

そして思った。小林氏にここまでしておいてもらえれば、あとは私自身が、いかにして自分の視力を鍛えるかである。今見えている山の微妙な襞まで見てとる視力をいかにして得るかである。『新潮』に「本居宣長」を書き始めた年、小林氏は六十三歳だった、私も六十三歳からは小林氏のように時間をとって、十二年かけて「本居宣長」を読み返そう、三十代、四十代と、そう思い決めて準備はしていた。五十五歳で刊行を始めた『小林秀雄全作品』の脚注は、読者に読んでもらわなければ書いた意味がないという氏の思いを承けての事業であったが、私個人としては私自身の六十三歳からに備える足拵えのつもりもあった。しかし、思い通りに事は運ばなかった。六十三歳で手を着けはしたが、六十四歳から六十九歳にかけて身辺に不慮の事態が相次ぎ、気がつけば七十歳になっていた。

しかし、幸いにして、六十六歳からは小林氏の旧宅で「小林秀雄に学ぶ塾」を頼まれ、塾生諸君とともに「本居宣長」を読んできた。十二年読むとすればあと八年、この八年で、昭和五十二年二月から九月にかけての「本居宣長」の校正期を再現しようと思っている。どうだ、きれいだろうと、小林氏に指し示された名峰の美しさを、自分自身の肉眼、心眼両方の視力でしっかり見てとろうと思う。本誌『好・信・楽』のこの連載は、そういう思いで少しずつ描きとっていく「本居宣長」の全景である。

(第一回 了)