編集後記

池田 雅延

昭和八年(一九三三)十月、小林秀雄、林房雄、川端康成ら七人が編集同人となって、雑誌『文學界』が創刊された。詳しい経緯は省くが、小林は、林に声をかけられて立ち上がったかたちだった。しかし、事が動きだすや、この新雑誌に急速に体重をかけていった。

小林は、昭和四年九月、二十七歳の秋、批評家宣言とも言うべき「様々なる意匠」を書いて文壇に躍り出、すぐさま『文藝春秋』『東京日日新聞』などに文芸時評の場を与えられて健筆をふるった。だが、この文芸時評には、たちまち嫌気がさした。明治の文明開化からやっと六十年、西欧舶来の近代小説は板につかず、小説家も批評家も作品制作そっちのけで文学用語の定義だの文学思想の解釈だのに口角泡を飛ばしていた。だめだ、これではいけない、こんなことをしていては、自分が書きたい「批評」は書けない、唯々諾々とジャーナリズムの煽動に乗っているときではない……、小林の焦りは募る一方だった。そこへ『文學界』の声がかかったのである。

小林は、「様々なる意匠」でこう啖呵たんかをきっていた、―若し私が所謂文学界の独身者文芸批評家たる事をねがい、而も最も素晴しい独身者となる事を生涯の希いとするならば、今私が長々と語った処の結論として、次の様な英雄的であると同程度に馬鹿々々しい格言を信じなければなるまい。「私は、バルザックが『人間喜劇』を書いた様に、あらゆる天才等の喜劇を書かねばならない」と……。

「人間喜劇」とは、十九世紀フランスの小説家バルザックの、九十一篇の長短篇小説の総称である。よく知られたところには「ゴリオ爺さん」「谷間の百合」「従妹ベット」などがあるが、バルザックはここに二千人にもおよぶ人間たちを登場させ、それぞれの風貌、性格、信条などを克明に描き分け、描ききった。小林が書きたかったのは、こういう「人間劇」である。

その人間劇を、小説家バルザックは具体的描写で書いたが、フランスにはもう一人、押しも押されもせぬ近代批評の創始者サント・ブーヴがいた。サント・ブーヴはバルザックの向こうを張るかのように、抽象的描写で人間劇を書いた。自分が追いつきたいのはこのサント・ブーヴである。そして、小説家たちにはいつまでも観念の相撲ばかりとらさずに、どこへ出しても恥ずかしくない「作品」を書かせたい。しかし、いくらこれを言っても、既成のジャーナリズムが敷いた線路の上を走らされている作家、批評家たちは馬耳東風である。さて、どうする……。そこへ『文學界』の話がきたのだ。

創刊からの一年余り、小林が『文學界』に書いたのは「私小説について」等の数篇だったが、昭和十年一月、『文學界』の編集責任者となり、そこに自ら「ドストエフスキイの生活」の連載を始めた。文学で生きると決めて、誰よりも早く会いに行きたかった作家がドストエフスキーであった。こうして正真正銘、小林は『文學界』に全体重をかけた。

「ドストエフスキイの生活」は、昭和十二年三月まで続き、十四年五月、創元社から刊行した。今日、小林秀雄は日本における近代批評の創始者、構築者と呼ばれているが、その最初の一歩、最初の一里塚が「ドストエフスキイの生活」だった。しかし、それは、おいそれとは誰にも跨がせない一歩であり、高々と天をつく一里塚であった。

その「ドストエフスキイの生活」の刊行に際して、『文學界』昭和十四年七月号の編集後記に小林は書いている。

—僕は今度「ドストエフスキイの生活」を本にして、うれしいのでその事を書く。彼の伝記をこの雑誌に連載し始めたのは昭和十年の一月からだ。それは二年ばかりで終ったが、その後、あっちを弄りこっちを弄り、このデッサンにこれから先きどういう色を塗ろうかなぞと、呑気に考えているうちに本にするのが延び延びになってしまった。ゆっくり構えたから、本になっても別に、あそこはああ書くべきだったという様な事も思わない。勿論自慢もしないが謙遜もしない。久しい間、ドストエフスキイは、僕の殆ど唯一の思想の淵源であった。恐らくは僕はこれを汲み尽さない。汲んでいるのではなく、掘っているのだから。……

精魂こめた「ドストエフスキイの生活」刊行のよろこびはもちろんだが、『文學界』という、好きなことを好きなように書いて世に問える舞台に恵まれたよろこびが伝わってくる。財政面では四苦八苦の連続だったが、生涯の盟友となる河上徹太郎と交互に編集責任者を務め、昭和十年代の文学界、精神界、思想界を牽引した。

本誌『好・信・楽』は、小林秀雄がこうして『文學界』にそそいだ情熱の衣鉢いはつを継ごうとするものである。ただし、ここに集うのは、必ずしも文学や芸術を志す者たちばかりではない。年齢も職業も様々な、多くは一般社会の生活人である。したがって、『文學界』で小林が体現したような、精神文化の創造に向かって邁進するなどということはとてもできないし、それが願いでもない。私たちが継ごうとする衣鉢は、小林が時代の通念を疑い、通念の裏を読んで、自分本来の生き方を烈しく追い求めた、その真摯な情熱である。

通念を捉えて、小林は迷信とも言っていた。迷信と聞くと、私たちは前時代的な妄念・妄想を思いがちだが、小林に言わせればなんのことはない、現代の私たちも現代の迷信の真っ只中にいるのである。

早い話が、科学的な物の見方、考え方、という金科玉条である。これなどは現代の迷信の最たるものだと小林は言う。詳しくは小林の「私の人生観」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第17集所収)をご覧いただきたいが、私たち現代人が動かぬ真理と思っているこれら似而非えせ金科玉条の災いで、私たちは人間本来の弾力に富んだ生き方ができなくなってしまっている。ではどうすれば、そこをそうと気づくことができるのか、どこをどう建て直せば人生の弾力を取り戻せるのか……。小林の作品は、そのすべてが現代の迷信への異議申し立てであった。すなわち、「人間喜劇」を押し立てて行う「人生批評」であった。『文學界』の編集は、毎号それらと同一の線上にあった。

そういう次第で、私たちが小林秀雄の「本居宣長」を読むのも、読んで動揺する心を本誌に持ち寄るのも、すべては小林秀雄に学んで現代の迷信から覚めようとしてのことである。ひとまずはこの創刊号から、そういう気概を感じていただければ幸いである。

 (了)