小林秀雄「本居宣長」全景

池田 雅延

二 思想のドラマ

昭和四十七年(一九七二)九月二十六日の夜、大阪・堂島にあった毎日ホールでのことである。新潮社はこの日、ここで「円地文子訳 源氏物語」の刊行記念講演会を催すこととし、講師には円地文子氏とともに大江健三郎氏、小林秀雄氏に来てもらっていた。小林氏の演題は「宣長の源氏観」であった。

講壇には大江氏、円地氏、小林氏の順で上がってもらうことになっていたから、小林氏の登壇時刻は八時近くになる。氏の係として随行していた私は、夕刻から心斎橋近くの氏がなじみの店で夕食を呈し、時間を見計らって毎日ホールへ案内した。

控室には、すでに講演を終えた大江健三郎氏と社の幹部たちが待っていて、それぞれに挨拶した。氏はその挨拶を型どおりに受け、ソファに腰を下ろすなり言われた。

―僕は、宣長さんは思想のドラマを書こうと思ったのです。……

「宣長さんは」とは、『新潮』に連載している「本居宣長」は、の謂である。昭和四十年の六月号から始まり、五十一年の十二月号まで六十四回にわたった「本居宣長」は、そのころ第四十回を過ぎたあたりだった。

氏は、人と会ったり電話を受けたりしたとき、相手の挨拶や用件を聞くより早く、自分の関心事をいきなり口にするということがよくあった。常に何かを考えていた氏は、他人と接するや挨拶のつもりで当面の関心事を口にしてしまうらしかった。

毎日ホールでの「思想のドラマ」も、その夜はそこを語ろうとしてのことであったのだろう。まもなく講壇に立った氏は、こう語り始めた、―本居宣長という人は、生涯に何も波乱はない人です。今でいえば三重県の松阪にじっと坐って、ずっと勉強していた人です。あの人の波乱というものは、全部頭の中にあるのです。その頭の中の波乱たるや実におもしろい、ドラマティックなものなのです……。

あの日、氏の口を衝いて出た「思想のドラマ」という言葉は、以後、私の念頭を領した。私は、氏が読者に示そうとしたドラマの起伏に身を委ねて「本居宣長」を読んだ。

 

「本居宣長」は、宣長の遺言書の紹介から始っている。小林氏は、第一章、第二章と、その風変りとも異様ともいえる遺言書を丹念に読んでいき、第二章の閉じめで言う。

―要するに、私は簡明な考えしか持っていない。或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった。この文を、宣長の遺言書から始めたのは、私の単なる気まぐれで、何も彼の生涯を、逆さまに辿ろうとしたわけではないのだが、ただ、私が辿ろうとしたのは、彼の演じた思想劇であって、私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた、そこに留意して貰えればよいのである。……

「本居宣長」の『新潮』連載は、私が高校を出て浪人した年、昭和四十年(一九六五)の六月号から始ったが、浪人時代は言うまでもなく、小林秀雄を読み通したい一心で入った大学の四年間も「本居宣長」にまでは手が回らなかった。四十五年四月、新潮社に入り、翌年八月、小林秀雄氏の本を造る係を命じられ、いずれは「本居宣長」が本になる、いまから準備を始めておくようにと言われた。

ただちに『新潮』のバックナンバーで「本居宣長」を読んだ。だがそのときは、氏が劈頭へきとういきなり宣長の遺言書を読者の前に繰り広げ、つぶさに読んでいったその後に、自分が辿ろうとしたのは宣長の思想劇である、彼の遺言書をまず読んだのは、彼の思想劇の幕切れを眺めたということなのだと言った氏の、「思想劇」という言葉に託された思いの深さは見て取れていなかった。思うに、あのときはただ、傍若無人とでもいうほかない宣長の気質に圧倒されていたのである。

その小林氏の「思想劇」という言葉を、氏の係を命じられてちょうど一年たった昭和四十七年九月、氏の口からじかに聞いたのである。むろん氏は、そこに居合せた人たちの誰にということではなく言われたのだが、私は、私に言われたような気がした。それというのも、心斎橋から堂島までの道々、氏は、すでに『新潮』に書かれていた「本居宣長」の一部を、問わず語りに話して下さっていたからである。

 

私のこの小文は、小林秀雄氏の「本居宣長」の全景を、少しずつ描きとっていこうとするものだという意味のことを前回の最後に書いた。そこをいまいちど、いくらか補足しながら辿り直しておこうと思う。

この小文を、「全景」と題したのは、「本居宣長」のさらなる精読に努めることによって、氏が指し示した本居宣長という人の全姿全貌をいっそうくっきり見て取りたいという気持ちからであるが、そのためには、本居宣長の人と学問を色鮮やかに写し取った氏の文章の姿を、私も絵を描くように写し取る、この心がけにくはないという気持ちからである。小林氏は、「本居宣長」に続けて書いた「本居宣長補記Ⅱ」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集所収)で、こう言っている。

宣長の「古事記伝」には、一之巻の最後に「直毘霊なおびのみたま」と題された文章が置かれている、この文章は、「古道」とは何かが説かれた宣長の代表的著作の一つだが、宣長には、とりわけこれは「古事記伝」に欠くことのできない文章だという強い意識があった、そこに思いを馳せれば、「直毘霊」は、あたかも「古典フルキフミ」に現れた神々の「御所為ミシワザ」をモデルにした画家の優れたデッサンの如きものに見えてくる、宣長にとって、

―「古事記」を注釈するとは、モデルを熟視する事に他ならず、熟視されたモデルの生き生きとした動きを、画家の眼は追い、これを鉛筆の握られた手が追うという事になる。……

そしてその軽やかに走る描線が、私たちの知覚に直かに訴えるのだと氏は言っている。

本居宣長は、三十五年もの間、「古事記」を熟視しつづけた。その宣長を、小林氏も十二年余の間、熟視しつづけた。来る日も来る日も、宣長の動きを追う氏の眼を手が追った。視力、筆づかい、もとよりともにとうてい及びもつかない私だが、気構えだけは宣長に、小林氏に、私も倣おうとするのである。

そしてもうひとり、小林氏が最も好きだった画家、セザンヌは、郷里に聳えるサント・ヴィクトアール山を若年期から最晩年まで描きつづけ、その数八十点を超えているという。セザンヌもまた、サント・ヴィクトアール山を、終生熟視しつづけた。唐突に聞こえるかも知れないが、私にとって「本居宣長」は、セザンヌにとってのサント・ヴィクトアール山でもあるのである。

 

そういう思いで、今回は、「本居宣長」の第一章から第五章に眼をこらす。さっそく素描を始めよう。

「本居宣長」は、思想のドラマを書こうとしたのだと小林氏は言った。「本居宣長」において、思想という言葉が最初に出るのは、やはり遺言書との関連においてである。氏はまず、宣長が自分の墓のことを細かく指図し、墓碑の後ろには選りすぐりの山桜を植えよと指示したくだりを読んだ後にこう言っている。

―以上、少しばかりの引用によっても、宣長の遺言書が、その人柄を、まことによく現している事が、わかるだろうが、これは、ただ彼の人柄を知る上の好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言いたい趣のものと考えるので、もう少し、これについて書こうと思う。……

次いで、こう言う。

―そういうわけで、葬式が少々風変りな事は、無論、彼も承知していたであろうが、彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく、それなら、世間の思惑なぞ気にしていても、意味がない。遺言書の文体も、当り前な事を、当り前に言うだけだという、淡々たる姿をしている。……

続いて、こう言う。

―動機は、全く自発的であり、言ってみれば、自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家の姿が、其処に在ると見てよい。遺言書と言うよりむしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える。……

さらに、こう言う。

―私は、研究方法の上で、自負するところなど、何もあるわけではない。ただ、宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は、自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいというねがいと、どうやら区別し難いのであり、その事を、私は、芸もなく、繰り返し思ってみているに過ぎない。宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ないという事、これは、宣長の著作の在りのままの姿から、私が、直接感受しているところだ。……

「思想」という言葉を、小林氏は以上のように用いるのである。

 

だが、世間で一般に「思想」が取り沙汰されるときは、必ずしもこうではない。「思想」は「イデオロギー」の訳語と思われている、あるいは、その意識すらないまま混用されている、それが常態ではあるまいか。

『大辞林』によれば、「イデオロギー」とは、「社会集団や社会的立場(国家・階級・党派・性別など)において、思想・行動や生活の仕方を根底的に制約している観念・信条の体系」であり、「歴史的・社会的立場を反映した思想・意識の体系」であるが、こういう「イデオロギー」と「思想」との混同は八十年前にもう起っていた。

昭和十四年十二月、三十七歳の冬、小林秀雄は『文藝春秋』に書いた文芸時評(現行題「イデオロギイの問題」、『小林秀雄全作品』第12集所収)で、ある評家の言に抗して言っている。論者は、「イデオロギー」は「思想」の代名詞として用いられている、その事実を認めなければならないと言うが、そんな事実はどこにもない、あればそれは間違いだ、とまず言い、

―イデオロギイはイデオロギイであり、思想は思想である。誰でも知っている様に、フランス語にもイデオロジイとパンセという二つの言葉があり、まるで異った意味に用いられている。イデオロギイは僕の外部にある。だが、僕の精神は、何かを出来上らそうとして希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしているのだ。それが僕の思想であり、又誰にとっても、思想とはそういうものであろうと思う。……

小林の言うところに副って、「イデオロギー」と「思想」をそれぞれ括ってみれば、「イデオロギー」は人間社会の集団行動、あるいは集団生活の論理である。だから小林は、「イデオロギイは僕の外部にある」と言っている。対して「思想」は、個人の生活、個人の行動半径内での思念、思索である、だからこれは、私たち一人ひとりの内部にある。

そしてさらに、「思想」についてはこう言っている、

―しっかりと自分になりきった強い精神の動きが、本当の意味で思想と呼ぶべきものである……。

つまり、「思想」には、私たちの精神が、希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしている、そういう段階がまずあり、こうした希望や絶望、懐疑や信服、観察や判断の試行錯誤を繰り返して、やがてしっかり自分になりきった強い精神の動きを得る、こうして私たち一人ひとりの「思想」が出来上がる。

小林氏は、「思想」についてのこの考えを、以後も変えなかった。したがって、「本居宣長」の中で使われる「思想」という言葉も、すべてが個人の生活範囲における思念、思索の意味においてである。だから「本居宣長」では、いっそう強い口調で言うのである、

―この誠実な思想家は、言わば、自分の身丈に、しっくり合った思想しか、決して語らなかった。その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬものでもあった。……

では、その「思想」とは、具体的にどういうものであるか。ここまでくると、そう問いたくなるのも人情の自然であるが、それに答えることはできない。答えられるものではないと、小林氏が言っているからである。先の文芸時評(「イデオロギーの問題」)とほぼ同時期、昭和十六年の夏、氏は哲学者三木清と「実験的精神」と題して対談し(同第14集所収)、そこで言っている。―誰それの思想は、こういうものだと解らせることはできない、思想というものは、解らせることのできない独立した形ある美なのだ、だから思想は、実地に経験しなければいけないのだ……。

「本居宣長」は、思想のドラマを書こうとした、それは、こういう理由によるのである。本居宣長という人の思想、これはどうあっても読者に伝えたい、しかし、宣長の思想とはこういうものだと説いて解ってもらうことはできない、説かれる側も説かれて解ったと思ったらもうそれは張り子のまがい物である。説いて解ってもらうのではない、読者に経験してもらうのだ、そのためには、宣長が演じた思想劇の舞台に、読者にも上がってもらうのだ、舞台の上で、近々と宣長の口からほとばしる台詞を聞いてもらうのだ、小林氏は、そういう思いで、「私が辿ろうとしたのは、彼の演じた思想劇であって、私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた……」に続けてすぐ、次の一節を書いたのである。

―宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う。……

 

次いで眼を向けたいのは、「劇」である。「劇」と言えば、ふつうにはまず作者がいて、作者の想念で書かれた台詞を役者が喋る、そこではたしかに人生の真実らしきものが語られ、演じられるが、要するに客は作者の恣意に翻弄される、そこをよしとする者だけが劇を楽しむ、拍手を送る、というふうに意識されているのではあるまいか。だが、小林氏が、「本居宣長」は思想のドラマを書いたのだと言うときの「劇」は、そうではなかった。「本居宣長補記Ⅱ」で、氏は言っている。

―誰もが、確かにこれは己れの物と信じているそれぞれの「思ふ心」を持ち寄り、みんなで暮すところに、その筋書きの測り知れぬ人間劇の幕は開く。この動かせぬ生活事実を容認する以上、学者も学者の役を振られた一登場人物に過ぎないと考える他はない。「一トわたりの理」を頼めば、見物人の側に廻れると考えたがる学者の特権など、宣長は、頭から認めてはいなかったのである。……

宣長が演じた劇とは、人間誰もが例外なく役を振られる日常生活そのものである。ゆえに、学者であろうと神官・僧侶であろうと傍観は許されない。「一トわたりの理」を頼むとは、学者がそれ相応の理屈を掲げ、理屈を盾にとって特権的傍観者でいようとするということである。こうして学者というものは、腕組みして世間を見下ろす高みの見物をきめこみたがるが、宣長は頭からそれを認めなかったというのである。

―そこで、どういう事になったかというと、自分は劇の主役であるという烈しい、緊張した意識が、先ず彼を捕えていたと見ていい。この役はむずかしい。普通の意味での難役とは、まるで違う。どの役者の関心も、己れの演技の出来如何にあるわけだが、学者にあっては、己れの演技の出来を確めて行く事が、即ち劇全体の意味を究めて行く事に他ならない。人生劇の主役をつとめようとするなら、是非とも、そういう、人々の眼に異様なものと映るような役をこなさなければならない。……

宣長の遺言書が、私たちの眼に異様と映るのは、このためである。「劇全体の意味を究めて行く」とは、日常生活という事実の意味、すなわち人間が生きているという事実の意味を究めていくということだ。

―演技によって、己れの「思ふ心」を、何の疑念もなく、表現していれば、それで済んでいる役者達に立ち交って、主役は、その役を演じ通す為には、更に、「信ずるところを信ずるまめごゝろ」が要求されると、そういう言い方を、宣長はしたと解していい。……

「演技によって、己れの『思ふ心』を、何の疑念もなく、表現していれば、それで済んでいる役者達」とは、世間一般の男女である。そういう彼ら彼女らを相手にして、宣長は主役を演じなければならない。「まめごころ」とは、誠実な心、実直な心、である。「信ずるところを信ずるまめごゝろ」とは、自分がこうだと信じたことはどこまでもそれを貫き、他人の思惑を気にしたり、他人の反発にたじろいだりは決してしない心である。

したがって、小林氏の言う「劇」は、人間の作為によるものではない。作者の気儘な想念の産物ではない。人間が二人以上集って、それぞれがそれぞれの「思う心」を持ち寄って共に暮らしていこうとすれば、そこには必ず心の行違いが起る、行違いは即、摩擦を生じ、波風を立てる、波乱を呼ぶ、そういう、この世に生きている以上、誰しも避けることのできない軋轢、それを小林氏は「劇」と呼んでいるのである。そしてこの「思う心」がすなわち「思想」である、「思想劇」とは、その「思う心」が、あたかも作られた劇の役者たちのように立ち回るさま、ということなのである。

 

そこでもう一度、小林氏が宣長の遺言書を読みきったあとの、第二章の閉じめの文を写してみよう。

―或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった。……

「本居宣長」の思想劇とは、本居宣長が人間社会の人間劇の主役となって、劇全体の意味を究めて行ったその一部始終、ということなのだが、劇が劇として目に見えるようになるのは、宣長が何かを発言することによってである。宣長の発言、小林氏はそこに「劇」の契機を見ていた。

―動機は、全く自発的であり、言ってみれば、自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家の姿が、其処に在ると見てよい。遺言書と言うよりむしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える。……

宣長の遺言書の動機である。宣長にしてみれば、別して深刻なものではなかった。信念の披瀝であり独白であった。遺言書の一言一句、それらすべてが宣長の思想であり、宣長が「しっかりと自分になりきった強い精神の動き」であり、「本当の意味で思想と呼ぶべきもの」であり、「彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかった」ものであった。

ところが、しかし……、であった。

―これは、宣長の思想を、よく理解していると信じた弟子達にも、恐らく、いぶかしいものであった。……

宣長が、遺言書に書いたとおりに、自分の墓地を定めに行くと弟子たちに言った、その瞬間、「劇」が動いた。「宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために」、最後の場面の幕が開いた。

では何が、弟子たちにとっていぶかしいものであったのか。「遺言」という言葉に漂う不穏な空気を吸って私たちがかきたてられる死の観念ではない。また、あれほど日本古代の神ながらの道を称えた宣長が、最後は仏教の葬儀を指示したという宗教上の矛盾でもない。宣長は、常日頃から「さかしら事」を厳しく戒めていた、その「さかしら事」を、当の宣長が行おうとしていた、そこであった。

数多い弟子たちのなかでも、養嗣子大平おおひらは常に宣長の身辺にいて、「宣長の心の内側に動く宣長の気質の力もはっきり意識」していた。その大平は、父宣長に、死んだあとのことを思い煩うのは「さかしら事」であると、日頃から教えられ躾けられてきていた。にもかかわらず、その「さかしら事」を、父宣長がしようとしていた、大平は、たしかに心穏やかではいられなかったであろう。

小林氏が、劈頭いきなり宣長の遺言書を読み解き、それによって読者に訴えようとしたのは、遺言書の内容如何ではない。氏が見てほしかったのは、遺言書という宣長の思想の「独立した形ある美」の姿であり、その美に則って宣長が演じた最後の立ち回りであった。この立ち回りにこそ、宣長の最も深遠な思想劇が出現していた。宣長のいちばんの理解者、後継者であった大平にしてなお宣長の思想の機微は読めなかった。それほどに宣長が生涯かけて追い求めたこの世に生きるということの意味は微妙であり、見通しのきかない昏さを伴っていた。そこをまず小林氏自身、しかと胸に畳みたかったのである。遺言書を読み上げた第二章は、次のように閉じられている。

―彼は、最初の著述を、「葦別小舟あしわけおぶね」と呼んだが、彼の学問なり思想なりは、以来、「萬葉」に、「障り多み」と詠まれた川に乗り出した小舟の、いつも漕ぎ手は一人という姿を変えはしなかった。幕開きで、もう己れの天稟に直面した人の演技が、明らかに感受出来るのだが、それが幕切れで、その思想を一番よく判読したと信じた人々の誤解を代償として、演じられる有様を、先ず書いて了ったわけである。……

 

宣長の思想劇は、彼の思想を最もよく理解していたはずの弟子たちと、彼らの誤解を挟んで向きあうという切迫した場面で幕を閉じた。小林氏は、「本居宣長」を思想劇として書く意思を、開巻第一ページですでに示していた。折口信夫氏を訪ねた日、折口氏に向かって、「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」という言葉がふと口に出てしまった、と氏は書いている。周到な伏線である。

伏線は、これだけではない。あの日の別れ際、折口氏は、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ」と追い討ちをかけるように言った。この謎のような言葉の襞は、次々回、第十五章を眺める回で見きわめようと思う。

(第二回 了)