ブラームスの勇気

杉本 圭司

熟れ切った麦は、金か硫黄の線条の様に地面いっぱいに突き刺さり、それが傷口の様に稲妻形に裂けて、青磁色の草の緑に縁どられた小道の泥が、イングリッシュ・レッドというのか知らん、牛肉色に剥き出ている。空は紺青だが、嵐を孕んで、落ちたら最後助からぬ強風に高鳴る海原の様だ。全管弦楽が鳴るかと思えば、突然、休止符が来て、烏の群れが音もなく舞っており、旧約聖書の登場人物めいた影が、今、麦の穂の向うに消えた―(「ゴッホの手紙」)

 

この「一種異様な画面」が突如として小林秀雄の前に現れ、愕然としてその前にしゃがみ込んでしまったのは、「モオツァルト」を発表した三ヶ月後の昭和二十二年三月、上野の東京都美術館で開催された「泰西名画展覧会」を見に行った時のことであった。彼が眼にしたのは、ゴッホが自殺する直前に描いた「烏のいる麦畑」の複製画であった。

翌年十二月、小林秀雄は「ゴッホの手紙」の連載を開始する。右の一節は、その第一回の劈頭に描かれたものであった。この黙示録的なビジョンもまた、彼を見舞ったベートーヴェン流の「元気のいい、リズミカルなインスピレーション」の一つであり、白洲正子の言う「きらきらしたもの」の典型と言っていいだろう。何よりこの海原の背後で鳴っている「全管弦楽」とは、疑いもなくベートーヴェンの交響曲の、嵐のようなアレグロ・コン・ブリオである。しかも「ゴッホの手紙」では、彼を見据えたこの「或る一つの巨きな眼」に続いて、「モオツァルト」の執筆動機となったもう一つの「一種異様な画面」が出現する。

 

あれを書く四年前のある五月の朝、僕は友人の家で、独りでレコードをかけ、D調クインテット(K.593)を聞いていた。夜来の豪雨は上っていたが、空には黒い雲が走り、灰色の海は一面に三角波を作って泡立っていた。新緑に覆われた半島は、昨夜の雨滴を満載し、大きく呼吸している様に見え、海の方から間断なくやって来る白い雲の断片に肌を撫でられ、海に向って徐々に動く様に見えた。僕は、その時、モオツァルトの音楽の精巧明皙な形式で一杯になった精神で、この殆ど無定形な自然を見詰めていたに相違ない。突然、感動が来た。もはや音楽はレコードからやって来るのではなかった。海の方から、山の方からやって来た。そして其処に、音楽史的時間とは何んの関係もない、聴覚的宇宙が実存するのをまざまざと見る様に感じ、同時に凡そ音楽美学というものの観念上の限界が突破された様に感じた。

 

描かれたものは、同じく「空には黒い雲が走り」、「一面に三角波を作って泡立」つ海原であり、感動が、突然、「海の方から、山の方からやって来」るという、インスピレーションの爆発風景であった。二つの風景が酷似しているのは、ゴッホとモーツァルトのアナロジーゆえではないだろう。この「一種異様な画面」が、当時、二人の芸術家に感応して鳴動する小林秀雄の批評精神のパースペクティブそのものだったからである。そして彼は言うのだ、「モオツァルト」という作品が書き上ったということは、自分にしてみれば、「何事かを決定的に事」(傍点原文)であったと。この「何事かを決定的に」る事こそ、ベートーヴェンの音楽の基本原理であり、「運命の喉首を締め上げてみせる」と言ったこの作曲家の本源的な生き方ではなかったか。

坂本忠雄氏が伝え聞いたところによれば、「モオツァルト」を執筆していた時、小林秀雄はベートーヴェンをよく聴いていたという(高橋英夫『疾走するモーツァルト』)。事実、この作品にはモーツァルトとベートーヴェンとが限りなく接近する瞬間が何度かあり、しかも歩み寄るのはいつもモーツァルトである。しかし小林秀雄は、モーツァルトをベートーヴェンのように描こうとしたわけではなかったはずだ。モーツァルトを描こうとする彼の批評精神の立ち現れ方そのものが、ベートーヴェンの音楽の生成の力学に限りなく近かったのである。つまり、小林秀雄は、「モオツァルト」をのである。

 

もはやモオツァルトというモデルは問題ではない。嘗てモオツァルトは微塵となって四散し、大理石の粒子となり了り、彫刻家の断固たる判断に順じて、モオツァルトが石のなかから生れて来る。(「モオツァルト」傍点原文)

 

ロダンのモーツァルト像について小林秀雄が書いたこの一節は、そのまま、彼自身の「モオツァルト」の執筆過程を語ったものであり、それはまたベートーヴェンの変奏曲、中でもその最後にして最高の精華であり、小林秀雄も生前愛聴したという「ディアベリ変奏曲」の作曲過程を思い起こさせる。

この変奏曲でベートーヴェンが使用した主題は、楽譜出版商アントン・ディアベリのワルツのテーマであった。ディアベリから自作の主題による変奏曲を依頼されたベートーヴェンは、その主題を「靴屋の継ぎ革」と呼んだと伝えられるが、実際、表向きは至極凡庸な三拍子ハ長調のテーマを、彼はいきなり最初の変奏で、もはやワルツでも何でもない四分の四拍子の、剥き出しの和声の連結のようなものに解体してしまう。「一皮剥けばこれが君のワルツの正体だ、変奏に値しない」と吐き捨てるかのようである。

ところがそうやっていったん叩き壊されたディアベリの主題が、続く第二変奏から再び四分の三拍子に戻っておもむろに蘇生し始め、変幻自在に姿を変えて行くのである。ある時はモーツァルトのオペラのパロディーとなり、ある時はバッハを彷彿とさせる厳粛なフーガとなり、ある時はほとんどショパンを先取りした抒情歌ともなる。そして三十三番目の最終変奏において、あろうことかベートーヴェン自身の最後のピアノ・ソナタの、同じくハ長調の変奏主題によく似たテーマに生まれ変わり、幕を閉じる。まさに、嘗てあった主題は微塵となって四散し、主題が石のなかから生れて来るのである。ちなみにベートーヴェンは、この変奏曲を通常の「Variationen」ではなく、「変容」や「変質」の語感が強い「Veränderungen」と命名して出版した。

一方、同じ変奏曲といってもブラームスの変奏曲、たとえば「ディアベリ変奏曲」と並んでこのジャンルの最高峰の一つである「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」ではそのようなことは起こらない。全体としては「ディアベリ変奏曲」同様、主題が刻々と性格を変えながら展開する所謂「性格変奏」の体を成しつつも、根幹において元の主題の構造を守り続け、全二十五の変奏のうち八曲を除けばすべてヘンデル主題と同じ変ロ長調、四分の四拍子、十六小節で進行する。三十三の変奏中九曲しかオリジナル通りの構成をとらない「ディアベリ変奏曲」とは大きな違いである。ブラームスの場合、各変奏はそれぞれどんなに個性的な相貌を呈していても、元の主題の上にがっちりと根を下ろしているのである。

「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」は、ブラームスが二十八歳の時に作曲した作品であるが、ブラームスはこういった傾向をさらに強めていき、やがてパッサカリアとかシャコンヌと呼ばれる作曲形式を好むようになっていく。パッサカリアあるいはシャコンヌとは、バロック時代に愛好された形式で、短い主題を低声部で何度も繰り返しながら、その上に新たな楽想を次々と組み上げていく、これも一種の変奏曲である。低声部で繰り返される基本主題をバッソ・オスティナート、日本語では「固執低音」あるいは「執拗低音」と呼ぶが、小林秀雄が「本居宣長」について、「音が繰返しながら少しずつ進んでいくように書いている」と語ったのは、まさにこのバッソ・オスティナートの執拗な繰り返しの上に文章を編んでいくことを指していたとも言えるだろう。少なくとも「本居宣長」には、「何事かを決定的に」るというような書きぶりは全く見られない、むしろ、最初に掴んだ主題を如何にずに持続させるかというところに、彼の神経は集中しているように見える。

「ゴッホの手紙」と同じく、「本居宣長」の連載第一回の書き出しも、本居宣長について書こうと考えた最初の動機、彼の批評の変奏主題が提示されるところから始まる。それは、戦争中に読んだ『古事記伝』の読後感であり、その「殆ど無定形な動揺する感情」であり、以来、彼の心の中に棲みついた「宣長という謎めいた人」であった。「モオツァルト」が、あの「殆ど無定形な自然」のビジョンによって始まったように、小林秀雄の批評精神は、いつも彼を動揺させる無定形の「謎」の現出によって発動し、その「謎」をめぐって「螺階的に上昇」した。

しかし「モオツァルトという或る本質的な謎」(「モオツァルト」)の円周を廻ろうとした小林秀雄は、何よりもまず、K.五九三のニ長調クインテットによって与えられたあの感動をることから始めたはずである。「モオツァルト」の中で、彼はこの昭和十七年の「ある五月の朝」の経験について、一言も触れてはいない。無論、彼が、最初に掴んだビジョンを捨てた、あるいは否定したということではない。その痕跡は、たとえば第一章の「凡そ音楽史的な意味を剥奪された巨大な音」として、あるいは第二章末尾の「海が黒くなり、空が茜色に染まるごとに」「威嚇する様に鳴る」ポリフォニーとして残響している。だが四年の歳月をかけて、最終的に石のなかから生み出されたのは、同じ弦楽クインテットでもト短調、K.五一六の、「かなしさは疾走する」という全く新たな、モーツァルト像であった。

二年後に書き出された「ゴッホの手紙」でも、彼は、美術館の閑散とした広間で自分を見据えた「或る一つの巨きな眼」を決定的にるつもりで筆を執ったに違いない。ところが連載を進めて行くにしたがい、その「眼」をようとする彼の文章にある変化が生じた。彼自身の地の文が徐々に消えていき、ついにはほとんどゴッホの手紙の翻訳だけで文章を構成していくという、彼自身の言い方で言えば「述べて作らず」の方法によって書き進められることになったのである。

(つづく)