上越後の桑取谷は里山の集落だ。この山に源を発する桑取川は急峻な山を下り、瞬く間に水量を増し日本海に流れ着く。雪解けの春、この地を訪れた。海辺に雪は無いが、川に沿って登れば、まだ雪は深い。それでも春はここに来ていて、雪の融ける音が聞こえる。雪の下から覘く緑も鮮やかで目に眩しい。雪解けの水を得た川は生命を取り戻したかのようにどうどうと流れ、その音が心地よい。春は駆け足でやってくるのだ。雪支度が残る庭先では、お互いに交わす甲高い声が聞こえてくる。そこには、この日を待って動き出す人たちがいる。
背丈にも達する積雪があっても、種もみを植える苗床に使う田んぼの一角だけでも、雪を除けようとショベルカーを操る年老いた農夫がいた。軒下から様子を見つめるのは連れ合いだろう。一人暮らしばかりになったこの集落では、数少ない夫婦が揃う所帯だ。
山を少し降りれば、雪はだいぶ融けている。そこには、畔を作り直す人がいた。見渡すかぎりただ一人。今年の米作りはここから始まる。私たちの日々の食を支える農の営みがここにある。私たちの命の源の食、その源流はここに至る。
行政やメディアの世界には、こうした地域を「限界集落」と呼ぶ人がいる。「高齢化率100%」と研究者は数字にする。しかし、これらの言葉から、この地に生きる人々の喜びや悲しみ、確かな暮らしを支える知恵と豊かさ、古くから守ってきた祈りや祭り、そして、私たちの日頃の食を支える営みを感じ取ることはできない。人々への敬意も、自らの食を支えてくれている感謝の気持ちもない。そもそも当人たちの前でこの言葉を使うことができるのだろうか。近年の日本の課題としてしばしば使われる「人口減少」や「地方消滅」も同じだ。
政策を研究し、具体的な制度設計や運用に活かすことは、社会課題に向き合うことに他ならない。人と人の交わり、つながりを根本とする社会において、どんな困りごとや生き辛さがあるのか、お互いの助け合いによって、これを小さくし、無くすことはできるのだろうか、「よく生きる」を支えるためにどんな社会の仕組みが必要なのだろうか、私自身が問い続けていることであり、それが私の仕事だ。
こうした営みは、しばしば、社会課題の「解決」と呼ばれてきた。私自身もあたりまえに使ってきたが、最近、小林秀雄の文章に接していると、この言葉に疑問を持つようになってきた。果たして、社会課題を解決することなんてできるのだろうか。そもそも、解決とはどんな状態なんだろうか。解決という言葉を使っていてよいのだろうか。
小林秀雄の作品を貫く言葉の一つに「独」がある。元を辿れば中江藤樹の言葉だ。
――「我ニ在リ、自己一人ノ知ル所ニシテ、人ノ知ラザル所、故ニ之ヲ独ト謂フ」、これは当り前の事だが、この事実に注目し、これを尊重するなら、「卓然独立シテ、倚ル所無シ」という覚悟はできるだろう。そうすれば、「貧富、貴賤、禍福、利害、毀誉、得喪、之ニ処スルコト一ナリ、故ニ之ヲ独ト謂フ」、そういう「独」の意味合も開けて来るだろう。更に自反を重ねれば、「聖凡一体、生死息マズ、故ニ之ヲ独と謂フ」という高次の意味合にも通じることが出来るだろう。(「本居宣長」第九章、新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.100)
「独」とは重く、難しい言葉だ。この文章を味わって読み、我がものにするしかない。下手に置き換えてみれば、それこそ取り漏らしてしまう。自己を成すものは何か、我が身に意味あるどんな生き方があるか、そこを考え抜くこと。権威や立場に寄らず、時代に流されず、現代の学問や社会にありがちな数字や分析を客観的な証拠とし、誰かが使った違う言葉で言い換え、自分をごまかすことでもない。どれだけ見解を集めても人間を創ることはできない。聖人も凡人も、人の生死においては同じなのだから、我が主観を徹底的に突き詰め磨いていけば、それは万人に通じる客観に至るということにもつながってくる。その本質は、己を知るに始まり、己を知るに終わる所に在る。藤樹は「天下第一等人間第一義之意味を御咬出」すと学問の独立宣言をしたが、そこで「咬出す」という言葉を使った、その意味を受けとめれば、「独」の重みも体感できるだろう。
藤樹に始まった「独」の道は、契沖、仁斎、徂徠を経て宣長に至る。近代では、福沢諭吉に引き継がれ、そして、小林秀雄に至る。人はいかに生きるか、自分自身の尺度で自分の心に問うた系譜がそこにある。時代を自分自身のこととして引き受け、そこに応えようとし続け、格闘した人の生きてきた道がある。
「独」を実践するための第一歩である「考える」について、小林秀雄はこう言う。
――考えるとは、自分が身をもって相手と交わることだと(宣長は)言っている。だから、考えるとは、つきあうことなのです。ある対象を向こうへ離して、こちらで観察するのは考えることではない。対象と私とがある親密な関係に入り込む、それが考えることなのです。人間について考えるというのは、その人と交わることです。(新潮社刊『学生との対話』p.117)
そうした「考える」は、本居宣長と親身に交わることで実践された。
――私が、彼の日記を読んで、彼の裡に深く隠れているものを想像するのも、又、これを、かりに、よく信じられた彼の自己と、呼べるように考えるのも、この彼の自己が、彼の思想的作品の独自の魅力をなしていることを、私があらかじめ直知しているからである。この言い難い魅力を、何とか解きほぐしてみたいという私の希いは、宣長に与えられた環境という原因から、宣長の思想という結果を明らめようとする、歴史家によく用いられた有力な方法とは、全く逆な方向に働く。これは致し方ない事だ。両者が、歴史に正しく質問しようとする私たちの努力の裡で、何処かで、どういう具合にか、出会う事を信ずる他はない。(「本居宣長」第四章、『小林秀雄全作品』第27集p.58~59)
ここで言われている「歴史家によく用いられた有力な方法」については、本居大平の「恩頼図」に依拠した宣長研究が一例として考えられるだろう。大平は江戸後期の国学者で宣長の家学を継いだ養嗣子だが、彼の「恩頼図」とは、彼が同門の殿村安守のために宣長の学問の系譜、著述、門人を図解したものである。この「恩頼図」を、宣長やその学問を理解しようとして頼りにする、あるいは模倣する、つまり、肝心の対象である宣長自身の内面や著作の言葉には向き合おうとせず、人間関係や時代背景等、宣長を取り巻く外的要素ばかりを収集し、並べ立てる研究者が後を絶たないのである。現代にも多く見られる、「客観的な」文献の引用、数値化、分析等の羅列も同断であろう。
小林秀雄は、本居宣長や彼の読んだ古典に対し、そうした方法は決して採らなかった。対象を信じ、自らが直覚したものに従い、遺された仕事の内面を辿り、正しく質問し、身をもって交わる、時間をかけて向き合う道を選んだ。
「限界集落」とか「高齢化率100%」と言っているうちは、いつまで経っても研究対象のままで、他人事であるところから免れない。親密に交わることは避けられている。相手が客体のままではどうにもならない。自分から親身に交わらないうちは考えることは始まらないし、それでは「独」には決して至らない。
「課題解決」という言葉には、自分自身と相手は別もので私は当事者ではない、課題は客体にあるのであって、自分はそこに交わるつもりはないという態度が垣間見える。
私がすべきは「解決」ではなく、目の前にある困りごとや生き辛さに向かい合うこと、自分自身が親身に交わることなのではないだろうか。そして、自反を重ねていれば、自ずから何をすべきかが明らかになってくる。
そもそも、過去を振り返っても、社会課題が無くなった時代を経験したことはないだろう。また、私自身、病を抱えながら生きているから感じるのかもしれないが、人が生きること、その交わりやつながりの総体が社会だとすれば、課題が解決されたすっきりした状態なんてありえず、それこそ、人が病を持ちながら生きていくのと同じことなのかもしれない。
そこにあった課題は向き合い続けることでやがて変容し、また違う形の課題となって顕れる。解決しようという心構えでは、別の形になった時に気付くことはできないが、向い合いあって離さないことができていれば、その変容に気づき、また、自ずから何をすべきかが明らかになってくる。そういう持続性こそが、向かい合うことの本質にあるのではないだろうか。
不思議なことかもしれないが、困りごとや生き辛さといった社会課題に向き合い続けていると、それは他者のためでなく、自分自身のためにやっていることに気づく。目の前の問いを離さずに応えること、それは、結局、自分自身の「よく生きる」にも繋がっているように思える。
「客観的」に代表される科学的なものの見方・考え方に毒された現代において、本当の「独」を実践し続けるのはきわめて難しい。しかし、それこそ、人が生きて来たどの時代も同じだったのではないだろうか。権威や他者に盲従すれば楽かもしれないが、そうなれば自分自身はそこにいない。社会課題に我が身をかけて親身に向き合うこと、そして、そこにある当事者性こそが私自身を生かしてくれるのだ。それこそが現代に活かしていかねばならない「独」の意味なのだと思う。
(了)