日本人の美意識の中核には、一見そう簡単には掴みきれないところがある。しかし、気づいてみると、その手がかりはこれ以上ないくらいの明白なかたちをとって存在するのである。
もっとも、ここで言うのは、すべての人によって共有されている感覚では必ずしもない。だからといって、単純に相対的なものであるわけでもない。
何を美しいと感じるかということは、技術革新に似ている。それは多数決の民主主義ではない。場合によっては、ごく少人数の人が先導する、ある種の革命でもある。美意識は、人工知能と同じように、少数派でも、もっとも優れたものが結局静寂を支配するというところがある。
そして、美は、命そのものと似ている。
命の本質とはなんだろう。もしある時点で完成されてしまうのならば、それ以上の変化は必要ない。脳の中核的機能は学習だが、常に未熟だからこそ、成長する意味がある。
満たないからこそ、動き続ける。日本人の美意識は、そのような生命哲学との深い共鳴の中にあるように思う。
千利休による茶道の創始には、日本人の美意識がよく顕れている。
それまで、中国の道具を使うのが最も格式が高いとされていたのが、利休によって「侘び寂び」や「一期一会」などの全く新しい評価基準が持ち込まれたのである。
利休は自身で道具をつくったとされる。茶杓の節が目立つところにあることを許容したり、長次郎に樂茶碗をつくらせたりといったその事跡を見ていると、その美意識が見えてくる。
利休以前の茶道具は、中国から伝来したものが中心であった。中国の器は、幾何学的に完全なものを理想とする。しかし、利休はそこから逸脱した。
不完全なもの、歪んだもの、均衡がとれていないもの、満たないもの。そのようなものの中にこそ美を見出した利休の感覚は、生命の本質に寄り添ったものであった。
奇を衒っているわけではない。むしろ、雑事を排して、光が発せられるその源をまっすぐに見ている。
生命は、完全さや均衡とは程遠い領域にある。もし完全であるならば、そこで動きが止まってしまう。均衡であれば、変化する必要はない。
バランスが崩れ、常に「先延ばし」され、ゴールが移動されるからこそ命は続く。その意味では、不完全であること、不均衡であることこそが生命の本質である。
利休が見出した「美」の文法は、そのような生命の本質に寄り添ったものであった。逆に言えば、それまでの中国の器を理想とする美意識は、本質において反生命的あるいは超生命的(生命を超えた何ものかへの志向)であったとさえ言っても良いのかもしれない。中国の器においては、完全なる円といった幾何学性や、対称性が尊ばれるのであるが、そのようなイデアの領域は実は生命の本質から遠い場所にあるのである。
先日、映画監督の森達也さんと会った時に、森さんの『A』や『A2』、さらには最近の『FAKE』、あるいは原一男さんの『ゆきゆきて、神軍』や『全身小説家』のようなドキュメンタリー作品と、海外のそれを比べた場合に、日本の作品の特徴の一つとして「人間」の描き方があるのかもしれないという話になった。立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」と言ったそうだが、日本のドキュメンタリーには欠点や長所を含めた人間の業を肯定するところがある。一方、欧米のドキュメンタリーには、例えばマイケル・ムーア監督の作品のように、社会の不平等や保険制度、銃規制などの公共性のあるテーマが前面に出て、一人ひとりのどうしょうもなさ、情けなさを含めた人間性は、必ずしも正面から取り上げられない傾向があるようである。
森さんとは、それから、ドキュメンタリー作品における撮り手と撮られる側のある種の共犯関係の話になって、たとえば太宰治のような私小説の伝統において、主人公ないしは作者は一見自堕落なように見えるが、しかしそれは読み手との間のまさに阿吽の呼吸の結果なのであって、作者ないしは主人公はある程度意識して「無頼派」を敢えて演じているのである、という話になったのであるが、いずれにせよ、日本の文化的伝統の真ん中に、そのような一筋縄ではいかない人間性への視座がありそうだ。
それは、これから日本人にとっての一つの福音ですらあるだろう。
人形浄瑠璃や、歌舞伎などの伝統的芸能の中にも、例えば殺しの場面を様式化して演じるなど、人間の暗黒部分をその逆説的な生命の躍動とともに描くという傾向があるように思うが、このあたりの生命観を、ニーチェの『悲劇の誕生』におけるアポロン的(理性の原理)とディオニソス的(生命の原理)の対照につなげて論じてみるのは興味深いことなのかもしれない。
いずれにせよ、完全なる幾何学や対称性からの「逸脱」こそが茶事における器への選好などに表れた日本的美意識の特徴の一つであり、そのような傾向におけるフロントランナーの一人が千利休であったと、私は認識している。
もっとも、均衡と不均衡、対称性と非対称性の間には、思わぬ「裏回廊」があるようにも感じられる。数学者の藤原正彦さんは、優れた数学の定理というものは、異なる大陸にある二つの山頂の間に、よく見たら薄い虹の橋がかかっていたという事実を見出すようなものであると書かれているが、均衡と不均衡、対称性と非対称性という「対立」軸の間には、思わぬつながりがある可能性もあると思う。
そのことに気付かせてくれるのが、曜変天目茶碗である。
曜変天目茶碗の中でも、最高峰とされる「稲葉天目」は、そのあまりの見事さに、一時期所蔵していた岩崎小弥太が、自らはそれを使う価値がないと茶事での使用を控えたほどの出来栄えである。
青い星雲を散りばめたようなその模様は、中国の南宋時代に建窯でつくられた多くの器のうち、ごく一部のものに偶然生まれたものと考えられている。おそらくは、何百万に一つというような確率で模様が成ったのであろう。現代の陶工たちも懸命にその再現を試みているが、今のところ完全には成功していない。
稲葉天目を実見すると感銘を受ける。そのかたちは、あくまでも、南宋、及び中国陶器の一般文法である、完全なる幾何学を示している。上から見れば円であり、横から見ればほれぼれとするほど整った形状を示している。
その均整のとれた形状の上に、まるで宇宙を満たす生命原理の顕れのような光の星雲がある。植物の葉っぱや、水流の照り返しのように、容易にはその秩序が捉えがたい、しかし、どこかに法則性があるような、要するにいかにも自然な奥行きがある。
整った外形と、その上の自然な模様と。その点に、稲葉天目の美の本質がある。また、同時に、そこにこそ、私たちが追い求めている虹の架け橋の手がかりがあるのではないか。
ひょっとしたら、整った稲葉天目の形状と、光の星々のように散らばる窯変の模様は、単一の、同じ原理から生まれてきているのかもしれない。だからこそ、曜変天目茶碗には、モナリザの微笑みのような不可思議な真実への予感が込められているのかもしれない。
白と黒と、真実と虚偽と。私たちは世界を二項対立でとらえがちである。器の選好においても、均衡と不均衡、対称性と非対称性という区分けがあると思いがちだが、それは大いなる勘違いに過ぎないのではないだろうか。
生命の本質は偶有性にある。偶有性とは、つまりは秩序と無秩序の共存である。一碗の中に、偶有性がこの上なく美しく示されているとするならば、稲葉天目は、やはり、天下に並ぶことなき名碗だと言わざるを得ないのであろう。
(了)