同じ本を時間をかけて繰り返し読む、ということを、この塾に入るまであまりしてこなかった。
「小林秀雄に学ぶ塾」が始まった六年前、僕は大学生になったばかりで、一読しておかねばならない本は古今東西に溢れているように思えた。巷には次から次へ最新の知識が供給されていた。身近なデジタル機器の発達は情報の飛び交う速度をさらに上げ、言葉は最短経路で情報を伝達できるような、できるだけ平易で誤解を生まない記号としての役割だけを求められているようだった。
知らず識らず、そのような速さに馴らされていたのかもしれない。僕は追われるようにして、新たな知識を得ることに汲々としていた。眼は不安げに活字の上を滑り、読むことの手応えはますます喪われていくようだった。
小林秀雄『本居宣長』の第五章に、言葉に向き合う宣長の態度を“文学者の味読”と表現しているくだりがある。
さりげなく遣われている言葉なので、とにかく内容を把握しようと一読したときはなんとなく読み過ごしていた。しかし、この塾で、本文の熟視を求められ、繰り返し文章の起伏を辿っているうち、言葉の方から語りかけてくるように、“文学者の味読”という活字が目に焼き付いた。この表現が孕んでいるもののうちに、小林秀雄が描こうとした宣長の肖像の大事な輪郭線がある。のみならず、小林秀雄は、この宣長への評言によって、己を語っている。そんな直観に捉えられた。――しかし、焦ってはならない。ここから、自分の中にある出来合いの概念などを引っぱり出して、この言葉を解釈しようとすれば、それは途端に空想の戯れになってしまい、結局いまの自分が持っている観念を文章に押し付けて一丁上がり、と済ませてしまうことになる。言葉に教わる、ということがない。まずは、解釈に逸る心をぐっと堪え、この短い一語がどのようなニュアンスで用いられているか、それを丹念に追いかけなければならない。
“文学者の味読”とは、一体どんな態度を指した言葉なのだろうか。この表現は、直接的には、『論語』「先進篇」への宣長の読み筋を指して用いられている。「先進篇第十一」にある孔子と弟子たちの逸話を、若き日の宣長はどう読んだのか。これを精確にとらえるため、“儒学者の解釈”と対置するようにして、宣長の“文学者の味読”を言うのである。逸話とは、こういう話である(以下、引用参照は特に断りのないかぎり第五章から)。
晩年、不遇の時代を過ごす孔子は、弟子たちに問いかける。君たちはいつも世に顧みられないことを嘆いているが、もし世間に認められるような事になったら、何を行なうか。弟子たちはさまざまな政治的理想を語るが、曾晳という弟子だけが、応えなかった。孔子に促され、自分は他の三人とは全く異なった考えを持っている、と言い、こう答えた。「暮春ニハ、春服既ニ成リ、冠者五六人、童子六七人、沂(川の名前)ニ浴シ、舞雩ニ風シ(雨乞の祭の舞をまう土壇で涼風を楽しむ)、詠ジテ帰ラン」。季節に相応しく新調した衣服を身にまとい、伴を連れ、川遊びをして風を愉しみ、詩を吟詠することが私の望みだ、と。孔子は、溜息をついて、私は彼と同感だ、と言った。
『論語』のテクストから矛盾のない理論を抽き出し、世の中を理解していこうと考える当時の儒家たちは、曾晳の「浴沂詠帰」という返答を、どのように解釈し、どのように自分たちの学問体系のなかに位置付けていけばよいかに、頭を悩ませていた。しかし、宣長はそんな儒者たちの思考の枠組みに頓着しない。「ソノ楽シム所ハ、先王ノ道ニ在ラズシテ、浴沂詠帰ニ在リ。孔子ノ意、スナハチ亦、此レニ在リテ、而シテ彼ニアラズ」。孔子の語った政治的思想は措き、彼が独りの人間として楽しむところは、儒者たちが頭を悩ませている政治的理想のような抽象的なものではなく、「浴沂詠帰」の側にある。孔子という人は、学者たちが堅苦しく定義しようとする「聖人」とは似ても似つかぬ、心の柔軟な「よき人」なのだ。若き日の宣長は『論語』を、そこに顕れている孔子を、そのように読んだし、考えは終生変わらなかった。
この“読み”を取り上げる小林の文章に、“文学者の味読”という言葉が用いられている。
「彼(宣長)は、この『先進篇』の文章から、直接に、曾点(曾晳)の言葉に喟然として嘆じている孔子という人間に行く。大事なのは、先王の道ではない。先王の道を背負いこんだ孔子という人の心だ、とでも言いたげな様子がある。もし、ここに、儒学者の解釈を知らぬ間に脱している文学者の味読を感ずるなら、有名な『物のあはれ』の説の萌芽も、もう此処にある、と言って良いかも知れない」。(丸カッコ内は筆者注)
「もののあはれ」が、宣長の生涯の重要なモチーフであることを考え合わせるなら、小林がここで、“文学者の味読”を、宣長が言葉に向き合う際の基本的な態度を言い表す言葉として遣っている、と受け取ってもよいだろう。“文学者の味読”とは、ことばの表面上の意味を分析的に読み解くことで、矛盾のない抽象的な観念を得るのではなく、その文体や語勢を、ほとんど対象の内側に入り込むように丁寧に追いかけることで、文の姿を味わい、言葉を遺した人の心ばえを甦らせようとする、“読む”というとてつもない行為の一端を明かした言葉である。宣長は、『論語』を愛読することで「孔子といふよき人」の像を得た。この「文章から直接に人間に行く」読み筋が、『古事記』を蘇生してみせたような、のちの宣長の仕事の根っこに確かに生きている。この言葉に、小林はそういう含みを持たせている。
小林自身、『宣長』を書くにあたって、この読みを実践している。第二章の終盤で、彼ははっきりとこう書いている。「宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う」。この言葉通り、『本居宣長』という、著者晩年の十二年をかけて書き上げられた畢生の大作は、宣長の文章から彼の「肉声」を聴き取ろうとする、また読者に聴き取ってもらおうとする、小林の努力に充ちた本だ。思想の構造を抽き出そうとした宣長研究者たちが、どのような袋小路に迷い込んだかを、小林はよく知っていた。自分が宣長を愛読して掴み出した像を描出するには、宣長自身が辿った紆余曲折を誠実に歩きなおさなければならない。小林のそうした覚悟を、理や方法に恃まず、「文章から直接に人間に行く」という道を一筋に歩む“文学者の味読”という言葉は、図らずも語っているようだ。
手軽な解説、自分の感覚に近しい現代語訳、情報の最短経路での伝達に馴れきった、かつての僕のような読者は、『宣長』にある膨大な引用文を怪しみ、それが時に十分に解釈されないまま投げ出されているように見えて困惑する。しかし、実は僕ら読者もまた、時間をかけて味読することを求められているのだ。『古事記』を読んだ宣長のように、宣長を読んだ小林のように。
読むことを、頭で理解することのうちだけに留めておかず、文章が持つ微妙な起伏に耳を澄まし、言葉が持つ手触りを直かに感じること。生きるために摂取され、将来自分の一部を形成することになる食べ物に対するかのような、原始的な真剣さで、身を以て言葉を味わうこと。この塾で語り伝えられ、また文章を扱う池田塾頭の姿勢そのものから無言で示され続けてきたのは、まさにこのような“読むことの態度”であったように思う。
かつての自分にとって、読むことは、砂漠に種を蒔きつづけるような、索漠たる行為だった。二十五歳の僕は少しずつだが、知識や情報というものの外面に惑わされることなく、自分を養うための言葉を蓄えられているように思う。
読むことの手応えを、いまは確かに感じている。
(了)