小林秀雄氏の文章に初めて触れたのは、高校二年の時、現代国語の教科書に載っていた『無常という事』によってだった。
確か夏に入ろうかという物憂い季節のことで、教室内はねっとりとした空気が充満し、開けっ放しの窓からは校庭で体育の授業を受けている生徒たちの歓声が、寄せては返す波音のように聞こえていた。そこへいきなり、父親に連れられてよく虫捕りに行った比叡山の深い緑、その中の古びた神社で祈りを捧げる白装束の巫女のイメージが飛び込んできて、不意に辺りの音は掻き消え、そのあとに続く、何度読んでもその奥底には辿り着けないような文章の中へと入り込んでしまったのである。
その不思議な体験のあと、私は新聞配達のアルバイトで貯めていた金で氏の全集を買い、のめり込むようにして読んだ。
その後、京都から東京に移り住み、本命大学の受験日を間近に控えたある日、三百人劇場で氏の講演会があるというのを何かの伝手で知った私は、二年目の浪人であとがなかったにも拘らず、迷わずその会場へ赴くことを決めた。
三月初めのまだ寒い日だったが、熱気とともに溢れ返る人々が見守る中、氏は飄々とした出で立ちで登壇した。少し間を置いてから聞こえてきたのは、まさに江戸落語を聞いているような軽妙な語りだった。実際、最初は客席から笑い声が絶えなかった。しかし、そのあと、話が柳田国男十四歳の時のエピソードに及ぶと、一同静まり返って氏の一語一語を緊張しながら追った。柳田国男は、庭にある祖母を祀った祠がずっと気になっていて、ある時、恐る恐る開けてみると、中に蝋石があった。それを見て、何とも言えない不思議な気持ちに襲われた彼が、ふと見上げると、青空に数十の星が輝いているのが見えた。と、その時、ヒヨドリの鳴き声がして我に返ったという。もし、ヒヨドリの鳴き声が聞こえなかったら、私は発狂していたかもしれない。そういう柳田国男の感受性こそが、彼の民俗学の根源にある。それをしかと感じ取った感動を語る小林氏の話に、私は『無常という事』を読んだ時と同じような不思議な気持ちを覚えたのだった。
落語家の古今亭志ん生に似ているとも言われる氏の語り口のうまさは、生来的なものもあるかもしれないが、実は、事前に相当練習した努力の賜物であったらしい(池田雅延塾頭談)。恐らく、一級の話し上手の人たちは、最初から話し上手だったわけではなく、努力することによってそうなったに違いない。その氏の話し上手は、あとでかなり手を加えられているという話だが、様々な作家たちとの対談でも遺憾なく発揮されている。それはそうだろう、批評家として、古今東西の詩や小説や評論を読み尽くし、徹底的に考察し尽くして来ているのだから。中身がぎっしり詰まった引き出しは山ほどある。また、大作家たちも負けてはいない。作品からだけでは出てこない生々しい思いや隠された意図などを次々と吐露していく。ここで氏の話し上手と同時に注目したいのは、氏の訊き上手である。執拗に氏に食って掛かる坂口安吾をなだめすかし、最後の方で、「……アリョーシャは人間の最高だよ。涙を流したよ。……」と言わせたり、『金閣寺』を世に出したばかりの三島由紀夫が斜に構えてなかなか本音を言わない中、「……美という固定観念に追い詰められた男というのを、ぼくはあの中で芸術家の象徴みたいなつもりで書いた……」と語らせたりするのはお手の物だが、ここでは全く専門領域の違う二人の学者との対談に注目したい。
一人は日本人で初めてノーベル賞を受賞した、物理学者の湯川秀樹。文学と物理は全く相容れないと一見考えられるが、「人生いかに生きるべきか」を問い続けた氏にとって、この、宇宙を含めた世界とはいったいどのような原理に基づいて成り立っているのか、そして動いているのかを解き明かそうとするアインシュタインなどの物理学者達の理論に興味が無いはずがなく、確率論や量子論、二元論やエントロピーの増大といった難解な問題を湯川秀樹に対して徹底的に訊くのである。そうして、そこにはやはり芸術と同じような人間的な尺度、人間の感性的な問題があるということを導き出す。
さらに注目したいのは、数学者の岡潔。現在では、門外漢にとってはなじみが薄いかもしれないが、その全盛期には、日本にはKIYOSHI OKAという数学者のグループがあって、次々と素晴らしい論文を出してくると海外の数学者達は思っていたというエピソードがあったくらいだから(池田雅延塾頭談)、その実力は推して知るべしだろう。
その岡潔を前にして、氏はもともと抽象的だと認識していた数学について、「このごろ抽象的になった……」という岡潔の書いたものに疑問をぶつける。そして、「数学にも個性がある」という言葉を導き出した後、さらに、「……数学は知性の世界だけに存在し得るものではない……感情を入れなければ成り立たぬ……」という驚くべき発言を岡潔にさせている。そして、「……言葉というものを、詩人はそのくらい信用している……それと同じように数学者は、数というものが言葉ではないのですか……」と氏は問いかけ、岡潔の同意を得ている。とにかく、文学者と数学者という、あまり共通項はないと思われていた二者が織り成す、息の合った対話のハーモニーが素晴らしい。
また、この対談の中で、氏の訊き上手の原点を示唆する重要な発言がある。
「ベルグソンは若いころにこういうことを言ってます。問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。問題をうまく出せば即ちそれが答えだと……」
つまり、訊き上手というのは、常に様々な知識を吸収し、大事なことは徹底的に考え抜き、その中で自らの人生と関連づけて、さらに高みを目指して問い続けることができる人のことを言うのだろう。また、他人に対して訊くのがうまいということは、常日頃、自分自身に対しても、訊く(問いかける)ことがうまくなくてはいけないのではないか。
ちなみに、塾頭補佐の茂木健一郎氏も『質問力』という本を出されており、いい質問を出し、それによって脳の可能性を広げ、最高の結果を引き出す、それが重要だということを分かりやすく書かれているが、その本質は、まさに小林秀雄氏の訊き上手と繋がるものである。
小林秀雄氏の文章に初めて接してから四十年余りたった現在、私は老若男女の混じった塾生とともに、氏の息遣いと佇まいの残り香が漂う鎌倉の山の上の住居で、池田塾頭のもと、氏の畢生の大作『本居宣長』を勉強している。その内容は、例えば、『ことば』をテーマに、塾生が池田塾頭に質問したいと思う内容を取り上げ、それに対して自分の意見を言い、池田塾頭とともに答えを求めながらさらにその質問を深く掘り下げていく、といったような形式で行われる。時には池田塾頭の厳しい指摘で部屋の中に緊張感が漲る。不思議なことに、やや見当違いの質問が出て来た時の方が、そこから学ぶことは多い。息抜きに、ふと外を眺めると、庭の緑が眩しく目に映る。執筆で疲れた氏の目を、かつて癒したに違いない樹々の緑が。
この池田塾で学ぶ我々に対して、氏は現在もずっと問い続けている。
「君たちにとって、人生はいかに生きるべきものなのか、人生の意味とは何なのか?」と。
我々にとって、その答えを出すことはさほど重要ではない。むしろ、その質問をずっと心の中で問い続けることこそが重要なのだ。
(了)