いにしへびとに会ひにゆく

櫛渕 万里

おほらかに蓮の葉ゆれて紅の 咲くうれしさは古代もかくやと

(二〇一七年八月一日 薬師池公園にて)

 

二千年以上前といわれる古代の蓮の実が千葉で発掘されたのは五十一年前。翌年に発芽・開花したものを分けてもらい、沼地に移植したのがいまの町田薬師池公園の大賀ハスである。今年も悠久の時を越えて大勢の人の目を喜ばせてくれる。私の背丈以上に高い茎を伸ばし、私の顔の四倍くらいはある大きな立葉。池に青々と浮いている蓮葉から可憐な花がほころび、その足元は泥池。沼とは知らず、もっと愛でようと近くに寄ったはいいが泥にまみれ濡れた人がどれだけいるだろうと心のなかでクスッと笑う。

大きな池の見わたすかぎり広がる蓮葉と、ふっくらと咲く花の美しさにみとれながら、その昔に生きた古人はどのようにこの蓮を愛でたのだろうと想像をめぐらす。

 

    蓮の露をみて詠める

はちす葉のにごりに染まぬ心もて なにかは露を玉とあざむく

(僧正遍照 古今和歌集 夏 一六五)

 

はちす咲くあたりの風のかほりあひて 心のみづを澄ます池かな

(藤原定家 拾遺愚草員外 三四)

 

学校の歴史の時間にのみ耳にしたことのある僧正遍照や藤原定家であるが、詠まれた歌を口ずさむと、情感にあふれたひとりの人間がそこにいて対話をしているような嬉しさに包まれる。まるで、語り手と聞き手のように。むろん私という聞き手はいたって未熟なのであるが、いつか語り手が詠う古語とも談話する奇跡まで起こりうるのかもしれないと胸が高鳴る。私は、ふと思う。もし、池田塾で和歌を詠んでいなかったら、二千年以上前という数字を単にカウントして古代の蓮を蘇らせた技術に感嘆するだけだったかもしれない。いや、それもすごいことだが、よもや、二千年前、千年前に生きた古人がどんなふうに蓮の美しさをとらえていたのか、話しかけ、その心を共有する感動に出会うことなど想像さえしなかっただろう。

小林秀雄のいう、「現在が過去を支え、過去が現在に生きるという伝統の基本性質」(『本居宣長』第二十一章)の風景とはこういうことなのだろうか。蓮の姿となって、それが目の前にあらわれたように思われた。「古語を得んとする」一と筋の道をいった本居宣長は、それを「あたかも『物の味を、みづからなめて、しれるがごと』き親しい関係を古語との間に取り結ぶことである」(同上第二十四章)と言った。それらを味わうにはまだまだ鍛錬が必要であるが、詠歌をはじめてから、少なくとも、古語は、私にとって、化石でも死物でもなくなった。なにも分からず仲間とともに始めてから四年が経つが、夜空を仰いで月影のあかりに照らされたとき、露をおく花弁が震えるとき、会えぬ人を恋い焦がれるとき、胸がはちきれそうなほど悲しいとき、古人はどんなふうに表現するだろう、心の揺れるさまをどんな言葉でとらえるのだろうと想像をめぐらし、古語を探す、選ぶ。そして、声にだしてみる、話しかける。詠んでみる、歌う。それは、私にとって、古人の日常を訪ねて会いに行く、という行為に近い。

 

頓阿の『草庵集』に一首だけ、蓮の葉を詠んだ歌をみつけた。

 

白露のたまればがてに打なびき 村雨凉し池の蓮葉はちすば

(草庵集 夏 三八七)

 

先の二首の歌と比べて、どうだろう。素朴な描写で涼しさを醸しだす夏の歌である。詠歌を始めるにはこの歌集からと薦められ、なるほど、宣長の註解書序文にはこうある。「此ふみかけるさま、言葉をかざらず、今の世のいやしげなるをも、あまたまじへつ。こは、ものよみしらぬわらはべまで、聞とりやすかれとて也」(『草庵集玉箒』)。つまり、子どもまで対象にしてわかりやすく歌の道を開こうというのである。さらに、宣長は、その後、「遠き代の言の葉の、くれなゐ深き心ばへを、やすくちかく、手染の色に、うつして見するも、もはら、このめがねのたとひに、かなへらぬ物をや」とし、「古今集」を江戸期の口語に訳した『古今集遠鏡』を出した。和歌を、雅の世界から世俗のものへと広げたのである。すごいことである。一部の人だけに独占されていた和歌の姿をどんな人にも親しみやすいものに変えたのだ。子どもにもどんな人にも、歌の道を開こうとする思想がみえる。宣長は、古語の「語」を「語り」としてとらえていたのではないだろうか。だからこそ、言いざまや勢いまで訳し、すべての人の声をよみがえらせた、私にはそう思われる。

 

そもそも、なぜ私は、歌を詠んでみようと思ったのかを書き留めておく。「もののあはれを知る」ためというもっともな理由はさておき、それだけではない。次の言葉に、ガツンと頭を殴られるような衝撃とショックを受けたのである。「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシズメテ、妄念ヲヤムルニアリ」(『本居宣長』第二十二章)。えっ、感動を詠むのではないのか。しかも、それまで心を震わせていたものは妄念であるというのか。それは、心の逆上状態であるとまで池田塾頭は解説された。今度は、小林秀雄が続ける。「『情ハ自然也』と言っただけでは足りない。『自然と求めずして在る』心は、そのままでは、『心錯乱シテ、妄念キソヒオコ』る状態を抜けられるものではない。言葉という『手がかり』がなければ、心は心で、どう始末のつけようもないものだ。思う心を『ほどよく言ふ』では言い足りない。一歩すすめて、乱れる心を『しづむ』『すます』『定むる』と言うべきだ。『石上私淑言』では、『むねにせまるかなしさを、はらす』と、同じ意味合で『はらす』という言葉が使われている。悲しみを詠むとは、悲しみを晴らす事だ。悲しみが反省され、見定められなければ、悲しみは晴れまい。言葉の『手がかり』がなくて、どうしてそれが人間に出来よう」

 

政治の世界に入る前、アジアはじめ世界各地で国際協力の仕事をしていた時代から心揺さぶられる多くの事実や出会いの経験を得てきた私にとって、「『歌の実』という表現性を得ない『実の心』の単なる事実性などは、敢えて『妄念』とか『錯乱した心』とか呼ぶのがよろしい」と突き放す宣長の言葉がどれほど大きな衝撃であったか想像いただけるだろうか。その直後に、私は、三十一文字の世界の固い門をドンドンドンと叩いていた。花鳥風月とは程遠いのである。そして、四年後の今日、もしかしたら、こういうことなのかもしれないと思えた事実とそのときの詠歌を紹介して、終わりにしたい。

 

あふことの心かなはぬものとなり そぼつ涙は波のまにまに

暁にさすや光のひとすぢを 師のまなざしと受けていだかむ

(二〇一七年七月十五日 海にて)

 

つい最近のことであるが、七月、ノーベル平和賞受賞者である中国文学者の劉暁波氏が「せめて自由の国で死にたい」という言葉を残して亡くなった。天安門事件のとき、若き学生であった私の夫の師でもある劉氏の死は、我が家にも大きな悲しみとやりばのない憤りをもたらした。火葬さえも許されず、海に散骨されたニュースを知った晩、いちばん近い海まで車を走らせ、浜辺でろうそくを灯し数本の花で写真を囲みお通夜をひっそりと執り行った。叫び、泣き、弔う自由がこの国にはあることにほっとしながら、月影もなく静かにうねる大海原を前にして詠んだ歌である。言葉や作法の未熟さはお許しいただきたい。ただ、ただ、胸が張り裂けそうな悲しみと憤り、表現する自由の許されない祖国への夫の渇望、国を越えて一つの命さえも救うことのできない隣人としての悔しさ、そうしたあふれでる思いをせめて歌にして心を鎮めた。詠歌という経験に、このとき、私は心から感謝した。

モオツァルトの「レクイエム」の音が、波のなかへ消えていった。

(了)