ブラームスの勇気

杉本 圭司

「ゴッホの手紙」を上梓した一年後の昭和二十八年五月、角川書店の昭和文学全集の一巻として『小林秀雄・河上徹太郎集』が刊行された。小林秀雄の文章が網羅的な文学全集に収録された最初である。その中扉に、「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」という彼の書が掲げられている。小林秀雄の読者なら知らぬ者のない言葉であるが、彼がこの文句を直接文章の上で書いたことはなかった。折に触れて請われた色紙に書いたことから知られるようになったのだが、これを眼にした読者には、如何にもこの批評家の生涯が一言の裡に尽くされているように思われ、やがて人口に膾炙したのである。

小林秀雄がいつ頃からこの言葉を筆にするようになったのかは定かでない。少なくとも印刷されたものとしては、この文学全集に掲載されたものがもっとも古い筆蹟であろう。もともと彼は自ら好んで色紙を書くような文学者ではなかったし、止むを得ず筆を執らなければならない時に選んだ言葉は、「君子豹変 小人革面」「知ル者ハ言ハズ 言フ者ハ知ラズ」「頭寒足熱」といった故事成語か、吉田兼好や本居宣長などの言葉であるのが常だった。彼が敢えて自らの言葉を色紙に記したことは、この言葉の他にはなかったのではあるまいか。

評論家の佐古純一郎は、昭和十八年に創元社に入社し、当時顧問を務めていた小林秀雄の知遇を得て以来、親炙した人であった。佐古純一郎は、その二年前に『文藝』が募集した第一回「文藝推薦」評論で佳作第二席となりデビューしたが、その時の審査員の一人が小林秀雄であった。佐古はまた、小林秀雄論を単行本として世に問うた最初の人である。その佐古純一郎が、ある時、無理を言って色紙を所望したところ、小林秀雄が書いたのが同じくこの「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」であった。以後、佐古は小林秀雄が亡くなるまで、書斎に入るたびにその色紙をじっと見つめるのがならわしだったという(「『人格』のリアリティ」)。

佐古純一郎に宛てたその色紙が書かれたのはいつのことであったのか。昭和十八年に入社してから昭和二十九年に角川書店に移るまで、佐古はほとんど毎週小林秀雄と顔を合わせて指導してもらったというから、創元社に勤めた十年余りの間のことではあっただろう。角川に移った六年後、佐古は同社の「人生論読本」シリーズの一冊である『小林秀雄』を編集・解説したが(昭和三十五年十二月)、その中扉にも「批評トハ無私ヲ…」の色紙が掲載されている。おそらくはこれが、小林秀雄が佐古純一郎のために書いたものであろう。先の『小林秀雄・河上徹太郎集』掲載のものと筆蹟がよく似ているが、署名がフルネームではなく「秀雄」と書かれているところに、佐古への親しみと情愛が伝わってくるようである。

あるいはこの言葉は、もともと佐古純一郎の懇請に応じて書かれたのが最初だったのではあるまいか。というのも昭和二十六年十二月、甲陽書房から出版された佐古の第一評論集『純粋の探求』に、小林秀雄は序文を寄せているのだが、そこには、「私は批評というものの根本義は、己れを捨てる、その捨て方の工夫にあると思っている」という、この色紙のヴァリアントのような文句が記されているからである。短いものなので全文を引用する。これは、佐古純一郎に宛てて書いた「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」についての、彼の自注である。

 

佐古君は、いろいろ苦しんだ末、遂にキリスト教の信仰に入った人である。既に確固たる信仰を持った人について、論をなす事は出来ないのである。更に言えば、佐古君自身も己れの信仰について論をなす事は出来ないのである。従って、佐古君の評論は、私の様な宗教を持たぬものの評論とは異なると思う。異ならねばならぬと思う。評論は佐古君にとって信仰という目的の為の手段である筈である。私は批評というものの根本義は、己れを捨てる、その捨て方の工夫にあると思っているから、信仰を深める手段として有力な仕事であると考える。宗教の危険は神学にある。神学とは批評の力を恐れるから出来上るのである。先ずよく信ずるからこそよく疑えるという道を恐れるから神学を頼むのだ。

 

「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」とは、三年前に受洗した若き批評家に向けて、おそらくはその処女評論集の序文とともに書き送られたものであり、同時にこの「道」はまた、「ゴッホの手紙」を擱筆しようとしていた小林秀雄が、ついに「批評的言辞は私を去った」と自覚した瞬間に開けた道でもあった。『純粋の探求』が刊行されたのは、「ゴッホの手紙」の連載が終了する二ヶ月前であった。

この「批評トハ無私ヲ…」について、後に小林秀雄はある学生から直接問われたことがある。昭和四十五年八月九日、既に「本居宣長」の連載が半ばに差しかかろうとしていた頃、長崎県の雲仙で行われた講演(「文学の雑感」)でのことである。彼は、それは難しい、一口には言えないと断りながらも、およそ次のように答えた。

―無私というのは、得ようとしなければ得られないものなのです。客観的ということと無私とは違う。客観的になれ、主観を加えてはいけないというが、主観を加えないということは易しいのです。無私は得なければいけない。君は客観的にはなれるが無私にはなかなかなれない。何にも「私」を加えないで君が出てくるということがあるのです。自分を表そうと思っても君は表れはしない。自分を表そうと思って表している人、自己を主張しようとしている人は皆狂的です。そういう人は自己の主張するものが傷つけられると、人を傷つけます。人が僕を本当に解ってくれる時は、僕が無私になる時である。僕が無私になったら、人は僕の言うことを聞いてくれます。そういう時に僕は表れるのだ。僕を人に聞かそうと思っても僕は表れるものではない。僕が君の言うことが聞きたいと思った時に、僕が無私になる時に、僕はきっと表れるのです……

彼の色紙には、「批評トハ無私ヲ道デアル」と書かれたものもあるが、右の学生との問答からすれば、重点は「無私」とは何かを問うよりも、これを「得ル」あるいは「得ントスル」意思の働きそのものにあったことがわかるのである。だからこそそれは「道」なのであろう。『純粋の探求』序文で「己れを捨てる、その捨て方の工夫」と言われたのもまた同じことを示唆していたはずである。そしてゴッホという絵描きは、小林秀雄にとっては、この「無私ヲ得ントスル」意思の言わば化身の如きものとして彼の前に現れたのだった。「ゴッホの手紙」の第一回で、彼はそれを「自分自身を日に新たにしようとする間断のない倫理的意志」と呼び、三年後の「近代絵画」で再び取り上げた時には、この芸術家の驚くべき「天賦の無私」について次のように書いた。彼が学生に語った「無私ヲ得ントスル道」は、そのまま書簡全集に表れたゴッホの「無私ヲ得ントスル道」であったことがわかるだろう。

 

ひたすら自分を自分流に語る閉された世界に、他人を引き入れようとする点で、普通人の告白も狂人の告白と、さほど違ったものではない。自分自身を守ろうとする人間から、人々は極く自然に顔をそむけるものである。他人を傾聴させる告白者は、寧ろ全く逆な事を行うであろう。人々の間に自己を放とうとするであろう。優れた告白文学は、恐らく、例外なく、告白者の意志に反して個性的なのである。彼は、人々とともに感じ、ともに考えようと努める、まさに其のところに、彼自身を現して了うのである。ゴッホの手紙が、独立した告白文学と考えても差支えない様な趣を呈しているのも、そういう性質による。決して彼しか見舞わなかった様な不思議な彼の歎きも、人々が和して歌う歌の様に現れているし、いかにも彼らしい希いも、万人の祈りの様に書かれている。

 

近代文学を毒した自己告白、自己反省の欺瞞と不毛については、彼が戦前から言及し続けた主題であったし、ゴッホの書簡集に見出された「無私」はまた、彼が描いたモーツァルトという「自己告白の不能者」に、あるいは西行が達した「『読人知らず』の調べ」や実朝の「深い無邪気さ」に、そしてドストエフスキーという「如何に生くべきかを問うた或る『猛り狂った良心』」の裡にも等しく看取し得るものである。しかしゴッホにおいて、その「無私」は、芸術と生活の結界を破った剥き出しの姿で立ち現れ、「機関車の様に休みなく」描き、書き、ついにそれは、小林秀雄に対してこの画家に対する「批評的言辞」の放棄を迫ったのであった。ちなみに彼が「予め思いめぐらしていた諸観念」とは、たとえば次のようなものであった。

 

生活そのものがもしも芸術になったら、キリストみたいになっちゃうよ。それはもう一番偉いことじゃないのかな。そうしたら芸術なんてない。人生には装飾があれば足りるよ。一番大事なものが生活になっちゃえば……(略)僕が今度ゴッホで書きたいほんとうのテーマはそれだよ。ゴッホという人はキリストという芸術家にあこがれた人なんだ。それで最後はあんなすごい人はないと思っちゃったんだ。だから絵のなかに美があるだとか、そういうものが文化というものかもしれないさ、だけど、もしもそんなものがつまらなくなれば、自分自身が高貴になればいいんだよ、絵なんか要らない。一挙手一投足が表現であり、芸術じゃないか、そういうひどいところにゴッホは陥ったので、自殺した、と僕は勝手に判断している。僕はそれが書きたいと思っている。でなければ、何もゴッホを取上げる理由はないんだよ。(青山二郎との対談「『形』を見る眼」)

 

この対談は『文体』の休刊後、『芸術新潮』であらためて連載が再開される九ヶ月前に行われたものである。ここで言われた彼の着想の、おそらく直接のきっかけとなったベルナール宛の書簡(No.XI)は、連載第七回で確かに取り上げられている。しかしそれは、ゴッホの「不安な孤独な時間を救う」独白の一つとしてであって、「キリストという芸術家にあこがれた人」という彼の批評的観念が表立って展開されることはなかった。「何事かを決定的に」る働きとしての小林秀雄の批評精神は、ゴッホの複製画と書簡全集を貫くあの「或る一つの巨きな眼」に進んで見据えられることによって、自ら敗北を期したのである。だが彼は、「ゴッホを取上げる理由」を手放したわけでも見失ったわけでもなかった。「論評を加えようが為に予め思いめぐらしていた諸観念」や「批評的言辞」といった「私」が去った果てに生み落とされた、この一篇の「書簡による伝記」(この副題は単行本となった時に付与された)は、だったからである。

主題がただれるのではない、批評家小林秀雄という「私」がれるのである。

(つづく)