文は人なり。と、小林先生がおっしゃるように、書き綴られた文章にふれ、詠まれた歌にふれ、ああ、この人に逢ってみたいと、時折強く思うことがある。そして、幾度かその夢を心の中で反芻しているうち、ふと言葉に出して表明してみるうちに、思いがけない拍子で現実になることがある。
この夏、七夕の節句に、そんな私の願いが一つ、かなうこととなった。
東京目白のフランク・ロイド・ライト建築の自由学園明日館にて、ここ数年来、一度ご尊顔を拝してみたいと考えていた、岡野弘彦先生の公開講座に参加できることとなったのだ。
これまで古典にも歌にも親しむこともせず、いたずらに歳月のみを過ごしてしまっていた。名高い国文学者でもあり歌人でもあり、宮中歌会始の選者でもあった岡野先生。その実像を知らないまま、ただこの人に逢ってみたいなと、思い描いていた。が、とうに國學院大学は退任され、伊豆にお住まいだという。なかなかそのチャンスはないだろうと半ばあきらめていたところ、このご講義のことを知ったのだった。
「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ」
小林秀雄「本居宣長」の冒頭の一節。読む者の心をぐいと惹きつけて離さない、どこか謎めいたこのひとことを折口信夫が言った、その瞬間。小林秀雄が紡ぐ壮大な思想劇の幕開けを予感させる、この言葉が発せられたこの瞬間に、当時折口信夫の内弟子であった岡野先生は、立ち会われていたという。
大森における折口×小林の対話の目撃者ともいうべき岡野先生。このこともさることながら、そもそも私が岡野弘彦という名を知り惹かれたのは数年前に溯る。それは、先の伊勢神宮式年遷宮の折に伊勢を訪ねたときのこと。神宮会館で求めた冊子「お伊勢さんと遷宮」に岡野先生のインタビュー記事が掲載されており、その言葉と歌にふれてのことであった。
「遷宮と日本人の心」というタイトル名のその記事から、少々抜粋させていただこう。『私は、戦後教育の中で言葉を大切にしなかったことが、じわじわと積もって、ボクシングのボディブローのように、ここにきて効きはじめているのだと思います。古典の教育をおろそかにしてきたことから言葉の力が衰え、何よりも大切に伝えてゆかねばならなかった、日本人の心が伝承できなかったのです。
古来、神話などの物語やそれを凝縮した和歌は、神々のありようを伝えるものでした。そして、それは同時に神々からの祝福であり、人々の暮らしに活力を与えるものでした。それを伝え伝えすることによって、人は神を規範として生活することができた――そういう最も大事な心の伝承が断ち切られてしまっているのです。』
私たちがもっていた言葉の力を取り戻し、古代から連綿と伝えられてきた日本の心を取り戻さねばならないと、式年遷宮に寄せてメッセージをくださっていた岡野先生。そのページは、
したたりて青海原につらなれる この列島を守りたまへな
という、先生の歌集「美しく愛しき日本」の中の一首で締めくくられ、短歌の素養もなく不勉強な私にも、この三十一文字に張り裂けんばかりに込められた深い祈りが感じられた。私は日本という国に生まれ、いま、ここに生きている。自然に頭が下がる思いがし、ありがたいことだと、胸に沁みた。
さて、七夕の目白・明日館に話を戻そう。極めて暑かったその日、館内にはすこぶる冷房がきいていた。天井まで届く窓から光がこぼれる講堂は、広さも置かれた椅子も少々小ぶりで、木の温もりが漂う雰囲気。開講30分前に到着したにも関わらず、長年岡野先生の講義を受けている方々であろうか、すでに多くの聴衆が息をひそめて着席し、先生の登場を静かに待っていた。
ご講義のお題は「万葉集」。とりあげる歌人は「大伴家持」。
期待と思慕とに張り詰めたような気配の中、いよいよ登壇された岡野先生。初めてそのお顔を間近で見つめてみれば、柔和で優しい表情の中に、哀しみとおかしみと大きな慈愛を湛えられ、どこか能楽の翁の面のようかとも思われる。ゆっくりと開口され発せられるその声はよく透り、張りがみなぎり清明。言葉は一定の間合いを取り、明朗なリズムを刻み、その間合いの奥深くに熱い情をたたえ、一語一語をくっきりと際立て話されてゆく。
「今日はわたくしの誕生日なのです。93歳になりました」
と、ほほえみながらの講義の冒頭。なんと、七月七日、七夕生まれだという岡野先生。一挙に会場全体がほっと和み、恐れ多いという感覚から、私も親しみやすさに緊張がほどけてきた。
「短歌というものは、日本人にとって宿命的な文学です。義理人情、あるいは政治的な状況に直面した武士たちが、死に際して多くの辞世を残している。血のしたたるような志の歌や、何のために生きてきたかなどを歌に残してきた。短歌の5.7.5.7.7という形式は極限といっていい。上の句に情景や状況が描写され、下の句へと思いが凝縮していきます」
岡野先生のご出身は、本居宣長が眠る松阪に近い三重県(現在の)津市。30代以上も続く社家の生まれで、本居宣長の文献も家にあり、幼いころから親しまれていたと語られる。皇學館の中学生時代には、毎年秋の宣長の命日に大八車に山桜の苗を積んで、山室山の墓の回りに植える行事があったそうだ。その際、生徒から募った歌の中から出来のいいものを、教師が墓前で読みあげてくれたという。
「わりあい私の歌が選ばれることが多くて」と、ユーモアまじりにふりかえる岡野先生。先生の歌が朗々と読みあげられ、あの奥墓の山桜の梢が指す天空へ響き渡った瞬間、「ああ、思いが宣長さんに通じたな」と感じられたそうだ。
――本年、私も訪れることがかなった、本居宣長が永遠にそこにいる奥墓。吉田館長の導きのもと池田塾頭、池田塾の先輩同輩諸氏と共に参拝した墓前で、同道された詩吟の先生が豊かな声量で宣長による桜の歌を朗詠してくださった。そんなごく最近の私の体験に、80年近くの時を経て岡野先生が物語る情景が重なってゆく。深緑と静寂に包まれた神域ともいえる墓所に響き渡る言霊に宣長の魂は降り立ち、静かに頭をたれ居並ぶ私たちを見守ってくれていたようにも思える。
そんな少年時代の思い出や、歌人釈迢空こと折口信夫の逸話から、講義は次第に本題の大伴家持の話となってゆく。「万葉集」の編纂にも加わり、国司としても多くの歌を詠んだ家持。政争が多い時代に名門一族を背負った、どこか悲劇的な香りを纏う家持が、岡野先生はときに兄とも感じるほどお好きなのだという。
あしひきの 山さへ光り 咲く花の 散りぬるごとき 我がおおきみかも(巻3 477)
家持の歌の一言一句をくっきりと読み上げられ、
「天平16年正月13日、聖武天皇の第一皇子、安積親王(あさかのみこ)が亡くなったときの挽歌です。挽歌だけれど、これは気持ちのいい祝福の歌。『万葉』の時代は死に際して詠む挽歌も、魂の新たな旅立ちとして言祝ぐのです」
この日、岡野先生が取り上げられた家持の歌を以下にあげてみよう。
雄神川 紅にほふ 娘子らし 葦付取ると 瀬に立たすらし(巻17 4021)
珠洲の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり(巻17 4029)
春まけて もの悲しきに さ夜更けて 羽振き鳴く鴫 誰が田にか棲む(巻19 4141)
朝床に 聞けば遥けし 射水川 朝漕ぎしつつ 唄ふ舟人(巻19 4150)
ますらをは 名をし立つべし 後の世に 聞き継ぐ人も 語り継ぐがね(巻19 4165)
春の野に 霞たなびき うら悲し この夕陰に うぐひす鳴くも(巻19 4290)
我が宿の いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕かも(巻19 4291)
うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば(巻19 4292)
剣太刀 いよよ磨ぐべし いにしへゆ さやけく負ひて 来にしその名ぞ(巻20 4267)
新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事(巻20 4516)
かつて岡野先生が行なっていた研究会では、学生を率い、「万葉」ゆかりの土地をできるだけ、乗り物を使わないで足で歩いて周ったという。書物だけで分かることではない、体でぶつかっていくことで心身に刻まれた、いにしえの歌に詠まれた情景や心情。それらを次々と、講義を受ける私たちの目の前にまざまざと説いてくださり、月が照り輝く海や、春の霞たなびく夕暮れ、舟人たちの唱い声が遥かに聞こえる暁の中へと連れていってくださる。
言葉が力を備えていた「万葉」の時代の壮大な歌の世界は、岡野先生の高らかな声にのって果てしなく、遥か時空を越え講堂中に広がっていったのである。
「わたくしも命ある限り最後まで、我が志をつらぬきたい。歌人として歌を残したい。たった三十一音の小さな定形だけれども、家持さんも同じような気持ちだったでしょうね。いにしえの歌を鑑賞し、魂で共感を重ねていく。自分たちの国の古典を読むとは、そういうことです」
今年も吉野へ桜を見に訪れたという岡野先生だが、かつて凄惨な戦時中の体験から、「断じて桜を美しいと思うまい」と決意したことがあった。
すさまじく ひと木の桜ふぶくゆゑ 身はひえ冷えと なりて立ちおり
10年かけてようやく歌となった、満開の桜が炎で燃えさかった戦火の体験。それから月日は流れ、現在、岡野先生が住む伊豆の家には、庭の片隅に植えた大島桜が、伸びに伸びた大きな枝を広げ、家の半分ほどを包み込むという。朝はゆるりと朝風呂につかり、歌を詠む岡野先生。桜の花時には、その時間が1時間半にも及ぶのだそうだ。
七夕の日の岡野先生との邂逅。これからも二度三度とまたご講義を受けたいと、さらに欲張りな願いを胸中の短冊にしたため、筆をおきたいと思う。
春爛漫の桜の下で、祈りの歌を詠む翁の姿を思い起こしつつ。
※参考文献
「お伊勢さんと遷宮」(伊勢文化舎)
「花幾年」(岡野弘彦/中公文庫)
「美しく愛しき日本」(岡野弘彦/角川書店)
(了)