発明する心

溝口 朋芽

「本居宣長」の文章には、という言葉が数多く登場する。私たちが日頃慣れ親しんでいる発明の意味、すなわち<それまで世になかった新しい物を、考え出したり作り出したりすること>(大辞林より)とは別に、<隠れていた事理などを新たにひらき、明らかにする>(「本居宣長」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集所収、脚注より)という意味での使われ方でたびたび登場する。著者の小林秀雄氏が生前、自身の肉声で発明という言葉を発している講演が残っている。―わかるってことと、苦労するってことは同じ意味ですよ。苦労しないでわかるってことは知識が一つ増えるってことなんですね。発明ってものはありゃしません(新潮CD「小林秀雄講演」第3巻所収「本居宣長」より)……ここでは、発明とは、苦労してわかった末にあること、と理解できようか。

 

下記に挙げた「本居宣長」本文の例を見ていくと、宣長の生きた当時は、日常的にこの発明という言葉が使用されていたことがわかる。具体的にどのように使われていたのかを見ていきたい。

 

1、契沖の学問の形式なり構造なりを理解し、利用し、先きに進むことは出来るが、この新学問の者の心を想いみることは、それとは別である、と宣長は言うのだ。(中略)自分は、ただ、出来上がった契沖の学問を、他のうえにて思い、これをもどこうとしたのではない。者の「大明眼」を「みづからの事にて思」い、「やすらかに見る」みずからの眼を得たのである、と。(「本居宣長」同 第6章)

 

2、「(前略)拙僧万葉は、彼集出来以後之一人と存候、……」(契沖書簡集より、同 第7章)

 

3、家老に宛てた願書を読むと、「母一人子一人」の人情の披瀝に終始しているが、(中江)藤樹は、心底は明かさなかったようである。心底には、恐らく、学問するとは即ち母を養う事だという、人に伝え難いがあり、それが、彼の言う「全孝の心法」(「翁問答」)を重ねて、遂に彼の学問の基本の考えとなったと見てよいだろう。(同 第8章)

 

4、宣長を語ろうとして、契沖からさらにさか上って(中江)藤樹に触れて了ったのも、慶長の頃から始った新学問への運動の、言わば初心とでも言うべきものに触れたかったからである。社会秩序の安定に伴った文運の上昇に歩調を合せ、新学問は、一方、官学として形式化して、固定する傾向を生じたが、これに抗し、絶えずして、一般人の生きた教養と交渉した学者達は、皆藤樹の志を継いだと考えられるからだ。(同 第9章)

 

5、「…如此注をもはなれ、本文計を、見るともなく、読ともなく、うつらうつらと見居候内に、あそこここに疑共出来いたし、是を種といたし、只今は経学は大形如此物と申事合点参候事に候。注にたより早く会得いたしたるは益あるやうニ候へども、自己のは曾而無之事ニ候。」(徂徠「答問書」下より、同 第10章)

 

以上に挙げたとおり、契沖・中江藤樹・荻生徂徠それぞれの学問が、発明という共通の言葉で表されているが、宣長自身が自著「あしわけをぶね」で取り上げたのは契沖の発明についてである。小林氏は先出とは別の講演の中で契沖について触れた際に、―(契沖は)自分に得心のいく学問というものをしなければならなかった人、そういうことが宣長にわかったに違いないんですね。(中略)契沖は「こと」をした人。ということはかたいものである、ということを宣長は言ってます。宣長が感動したのは、する豪傑の心なんです。そうに違いない。それで彼は契沖をもどいて、また別のをしたのはご承知のとおり(新潮CD「小林秀雄講演」第8巻所収「宣長の学問」より)……と述べている。宣長自身の学問に多大な影響を与えたのが契沖であるということは小林氏の本著で繰返し述べられているが、宣長が契沖のに対して感動したのは、発明する豪傑の心に違いない、と強い思いを語っているこの講演を聞き、という言葉がいわば小林氏の心中で生き直すようにいきいきと登場しているように思われた。

 

宣長が契沖の発明に感動し、もどいた対象が「源氏物語」であった。どのようにもどいたのか。幾時いつの間にか、誰も古典と呼んで疑わぬものとなった、豊かな表現力をもった傑作は、理解者、認識者の行う一種の冒険、実証的関係を踏み越えて来る、無私な全的な共感に出会う機会を待っているものだ。(中略)宣長が行ったのは、この種の冒険であった。(同 第13章)……この「冒険」という言葉は、発明と呼応するように登場している。そしてこの冒険に出た宣長を評して、小林氏は次の2箇所で、宣長の発明について言及する。

 

6、「源氏物語」が明らかに示しているのは、大作家の創作意識であって、単なる一才女の成功ではない。これが宣長の考えだ。(中略)式部の「日記」から推察すれば、「源氏」は書かれているうちから、周囲の人々に争って読まれたものらしいが、制作の意味合いについての式部の明瞭な意識は、全く時流を抜いていた。その中に身を躍らして飛び込んだ時、この大批評家は、式部という大批評家をしたと言ってよい。この「源氏」味読の経験が、彼の「源氏」論の中核に存し、そこから本文評釈の分析的深読みが発しているのであって、その逆ではないのである。(同 第14章)

 

宣長が「源氏物語」を読み、冒険を通して得たこと―その表現世界は、あたかも「めでたき器物」の如く、きっぱりと自立した客観物と化している。のみならず、宣長を驚かしたのは、この器物をよく見る人には、この「細工人」がその「作りやう」を語る言葉が聞こえて来るという事であった(同 第13章)……この宣長の経験は、そのまま「古事記」への態度に繋がっている。

 

7、宣長が、「古言のふり」とか「古言の調」とか呼んだところは、観察され、実証された資料を、凡て寄せ集めてみたところで 、その姿が現ずるというものではあるまい。「訓法よみざまの事」は、「古事記伝」の土台であり、宣長の努力の集中したところだが、彼が、「古言のふり」を知ったという事には、古い言い方で、実証の終るところに、内証が熟したとでも言うのが適切なものがあったと見るべきで、これは勿論修正など利くものではない。「古言」は発見されたかも知れないが、「古言のふり」は、むしろされたと言った方がよい。されて、宣長の心中に生きたであろうし、その際、彼が味わったのは、言わば、「古言」に証せられる、とでも言っていい喜びだったであろう。(同 第30章)

 

「古言のふり」が“発明された”と書かれた第30章は、天武天皇の「古事記」撰録の理由についての注釈風のまとめから始まる。上代のわが国の国民が強いられた、漢字以外に書き言葉がない、という宿命的な言語経験が背景となって、天武天皇の命により、「古事記」の編纂が稗田阿礼、太安万侶の手によって成った。漢文にかれて古語が失われてしまう懸念に対する歴史家としての天武天皇の哀しみは、天皇の歌人としての感受性から発していると同時に、尋常な一般生活人の歴史感覚の上に立ったものでもあった、と宣長はみていた。太安万侶はその天皇の哀しみの内容をただちに理解し、稗田阿礼の話し言葉を、漢字による国語表記であらわす大規模な実験に躍り込んだ。そして小林氏は次のように書いている。―(太安万侶による)誰の手本にもなりようのない、国語散文に関する実験は、言ってみれば、傑作の持つ一種の孤立性の如きものを帯びたのであって、そういうところに、宣長の心は、一番惹きつけられていたのを、「記伝」の「書紀のあげつらひ」を見ながら、私は、はっきりと感ずるのである……先に挙げた、発明のくだりと同様の、小林氏の強い確信が、太安万侶についてのこの文章にも見られる。ここで、太安万侶が「古事記」を成すにあたって試みた「実験」を、宣長ははっきりと意識している。この「実験」という言葉も、先に挙げた「冒険」と同様に発明という言葉と共鳴した表現と言えるだろう。そして、第30章に発明という言葉が登場する直前の段落で、小林氏は次のように述べている。

―どう訓読すれば、阿礼の語調に添うものとなるかというような、本文の呈出している課題となれば、其処には、研究の方法や資料の整備や充実だけでは、どうにもならないものがあろう。ここで私が言いたいのは、そういう仕事が、一種の冒険を必要としている事を、恐らく、宣長は非常によく知っていたという事である。この、言わば安万侶とは逆向きの冒険に、宣長は喜んで躍り込み、自分の直観と想像との力を、要求されるがままに、確信をもって行使したと言ってよい……。宣長は、「源氏物語」の紫式部に対した時と同じように、太安万侶の冒険を目の当たりにし、自身も冒険に出た。冒険の末に、宣長は「古言のふり」を発明した、小林氏はそう言っている。

 

では、「古言のふり」とは何か。第30章には次のように書かれている。―「古事記」という「古事のふみ」に記されている「古事」とは何か。宣長の古学の仕事は、その主題をはっきり決めて出発している。主題となる古事とは、過去に起こった単なる出来事ではなく、古人によって生きられ、演じられた出来事だ。外部からみればわかるようなものではなく、その内部に入り込んで知る必要のあるもの、内にある古人のココロの外への現れとしての出来事、そういう出来事に限られるのである。この現れを、宣長は「ふり」と言う。古学する者にとって、古事の眼目は、眼には手ぶりとなって見え、耳には口ぶりとなって聞える、その「ふり」である……。「本居宣長」に登場する発明という言葉を追ううちに、小林氏の文章に発明という言葉がでてくるところには、氏の強い思いが言葉の「ふり」となって伝わってくることに気付いた。

 

『古事記伝』が成った寛政十年に宣長が詠んだ歌が第30章で紹介されている。―「古事ふることの ふみをらよめば いにしへの てぶりことゝひ 聞見るごとし」(「石上稿いそのかみこう」詠稿十八)これは、ただの喜びの歌ではない。「古事記伝」終業とは、彼には遂にこのような詠歌に到ったというその事であった……。「源氏物語」の味読を経て、「古事記」を読み終え、この歌を詠んだ宣長はどのような境地に至ったのか。私はそれを知りたいと思う。古人の経験を回想によってわが物とする、という宣長自身が「古事記」にあたった態度をもどいて、この歌を味わおうとする冒険の扉は、小林氏の言うところの―誰にも出来る全く素朴な経験……として、「本居宣長」を読む私たちにも開かれている。その汲み尽くせぬ悦びの一端を、氏のあらわす宣長の「ふり」が教えてくれている。

(了)