“わきまへ知るところは物の心・事の心を知るといふものなり、わきまへ知りて、その品にしたがひて、感ずるところが、物の哀れなり。たとへばいみじくめでたき桜の盛りに咲きたるを見て、めでたき花と見るは、物の心を知るなり。めでたき花といふことをわきまへ知りて、さてさてめでたき花かなと思ふが、感ずるなり。これすなはち物の哀れなり”(「紫文要領」、新潮日本古典集成『本居宣長集』125頁)。
物事の「心」を弁え、その「品」に従って感じる、ということが「もののあはれを知る」ということであるならば、それは「もののあはれ」という言葉がふつう解されているような、単に感傷的な心の動きとはかなり違った人間の認識のありかたを表していることになる。「めでたき花」のような出来事に出会ったとき、その「花」を丁寧に、あるがままに眺め、備えている性質に逆らわず認識し、その在りように応じて感じるという態度。この道は、一方では主観や客観という言葉をめぐる哲学上の大問題に通じているが、一方では僕らが日々をいかに過ごすかという平生の心がけに開かれてもいる。今回集まった原稿を一望したとき、どれも陰に陽に「もののあはれを知る」を主題としているように見えたため、まずは感興をしたためた。
今号にも多彩な原稿が寄せられた。岡野弘彦氏の講演会の模様を、氏の「姿」との出会いのドラマとして描きだした後藤康子さん。「あだなる」という言葉との比較を通じて「もののあはれを知る」を考察する植田敦子さん。大人と子供、太陽と月という巧みな対照、比喩を用いつつ、『源氏物語』の浮舟をめぐる意欲的な読みを示した謝羽さん。蓮の花を通じて古人の心を想う歌詠みの心の動きを活写した櫛渕万里さん。「フィガロの結婚」をあえて器楽曲のように、「全身を耳と化して」聴くことでモーツァルトに接近しようとする坂口慶樹さん。それぞれの音調をお愉しみいただきたい。
異なる流れを持つ二つの大河を無理に繋げるようなことは控えなければならないが、池田塾頭が連載稿で、「もののあはれ」という言葉が孕むものを通り一遍の定義で済ませることなく、深く広く追い求めた宣長が、遂には「うしろみのかたのもののあはれ」という『源氏』の飛躍的な“読み”に至った過程を注視しているその同じ号で、杉本圭司さんが「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」という小林秀雄の言葉を取り上げていることに巡り合わせの妙を感じた。一見したところ正反対にも感じられかねないこの二つの態度が、『本居宣長』という作品のうちで、また小林秀雄という生きた個性のうちで、如何に結び合うのか。さらに熟読玩味を重ねたい。