姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ

安田 博道

「建築家の作る住宅は、かっこいいけど使い勝手がよくないよね」

僕も何度か耳にしたことがあるけれど、建築家の作る物は、見てくれ(姿・形)ばかり気にしていて、使い勝手(機能性)は二の次にしているという批判が込められている。

設計業務を生業として建築家の末席に名を連ねている身としては、その話を聞くたびに、苦笑いを浮かべてその場をやり過ごしながらも、確かな言葉を持つことなくいままで来ていた。

 

いまから62年前に、「美しきもののみ機能的である」という言葉をのこした建築家がいる。丹下健三である(「人間と建築-デザインのおぼえがき」)。

1913年生まれの丹下は、東京大学を卒業後、2005年にその生涯を閉じるまで数々の設計をして、特に東京代々木のオリンピックプールや、大阪万博の会場基幹施設の設計など、国家プロジェクトを数多くこなした日本を代表する建築家である。日本の近代建築を飛躍的に高めた人で、小林秀雄が近代批評で果たした役割を建築界で担った人、というとわかりやすいかもしれない。

ところで、「美しきもののみ機能的である」と題するエッセイが書かれた1950年代は、機能主義全盛の時代であり、「形態は機能に従う」「機能的なものは美しい」などと言われ、建築創造にとって機能性は欠かせない条件となっていた。機能性とは「使い勝手」のことであり、この場合、建築の「姿」(空間の美)とは対概念である。建築を作る上で「機能」を第一に考えることが当然の時代に、丹下は一石を投じたわけである。

もう少し丹下健三の言葉を聞いてみよう。

「『機能的なものは美しい』、という素朴な、しかし魅惑的なこの言葉ほど、罪深いものはない。これは多くの気の弱い建築家たちを技術至上主義の狭い道に迷いこませ、彼らが再び希望にみちた建築にかえってくることを不可能にしてしまうに充分であった」

皆が機能に向かう中で、建築の「姿」(空間の美)に対してはひそひそと語るにとどまり、機能追求を至上とする近代建築の思想は、例えば無表情で魅力のない建築を作る免罪符にもなっていた。

丹下は「美しきもののみ機能的である」との発言で、「姿」(空間の美)と「機能」(使い勝手)の価値を反転させたわけである。

僕がこのエッセーを知ったのは、今から30年前、大学で建築を学んでいた頃であり、「姿」(空間の美)を主張したもの程度の理解で、今から振り返るとその鮮やかな反転の意味はまだ理解出来ていなかった。

 

ところが最近、小林秀雄の「本居宣長」を読み、「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という言葉に出会う中で、「美しきもののみ機能的である」のフレーズが我知らず脳裏によみがえり、大いに腑に落ちることがあった。

「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」は丹下から遡ること更に176年前、和歌について本居宣長が発した言葉である。

その言葉が何を意味したか、小林秀雄に倣ってトレースしてみよう。

当時、儒家の間では、詠まれた和歌はその「意味」が重要で、「姿」は簡単に真似る事ができるから、それほど重要ではないと思われていた。

「言語文字の異はあれども、唐にて詩といひ、ここにて和歌といふ、大義いくばくかの違いあらんや」

言葉や文字は異っても、漢詩を作ろうが和歌を詠もうが、大して違いはない、というわけである。小林秀雄は、こんなことを言う儒家に対して本当にものが解っているのか? と言う。

「『姿は似せ難く、意は似せ易し』と言ったら、諸君は驚くであろう。何故なら、諸君は、むしろ意は似せ難く、姿は似せ易しと思い込んでいるからだ、まずそういう含意が見える。人の言うことの意味を理解するのは必ずしも容易ではないが、意味もわからず口真似するのは、子供でも出来るではないか、諸君は、そう言いたいところだろう。言葉とは、ある意味を伝える為の符牒に過ぎないという俗見は、いかにも根強いのである」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.286)

言葉の「姿」よりも「意」が先をいく。言葉はその「足跡」に過ぎないという考えはぬきがたい。人は文辞の「姿」を軽んじ、文辞の「意」に心を奪われているではないか、と。

またこんなことも言っている。

「『言詞をなほざりに思ひすつる』ものしり人に、阿呆という言葉の意味を問えば、馬鹿の事だと答えるだろうが、馬鹿の意味を問えば阿呆の事だと言う。……彼等は、阿呆も馬鹿も、要するに智慧が足りぬという意味だとは言っても、日常会話の世界で、人々は、どうして二つの別々な言葉を必要としているか、という事については、鈍感なものである。……言語に関し,『身に触れて知る』という、しっかりした経験を『なほざりに思ひすつる』人々は、『言霊のさきはふ国』の住人とは認められない」(同第28集p.48)

僕らが「阿呆」と「馬鹿」を日常の会話でとても繊細に(しかし無意識に)文脈に沿って使い分けているのは、それら日本語が僕らの心に直結した言葉となっているからだ。ここに、「意味」が同じであるなら構わないだろう、では済ますことの出来ない微妙な問題がある。宣長が「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」で示したのは、当時の通念に異を唱え、言葉の「姿」を第一と考える、ということだった。

ところで、和歌における「意」と「姿」に対する宣長の考えを典型的に示した発言があるので紹介する。「新古今集」の注釈書である「新古今集美濃の家づと」にある一節である。

 みよし野山もかすみてしら雪のふりにし里に春は来にけり

これは摂政太政大臣の詠んだ歌だが、それに対して宣長は次のような注釈をしている。

「めでたし、詞めでたし、初句もじ、いひしらずめでたし、ともともあらむは、よのつねなるべし」

宣長はこの歌をとても良いとしたうえで、「みよし野は」の「は」に注目して「みよし野の」や「みよし野や」だったら平凡だった、と評価している。

ここで注目すべきは、「の」や「や」に変えても「意」は変わらないが歌は平凡になる、という宣長の認識だ。歌の「姿」はたった一文字入れ替えただけで「麗しさ」がなくなってしまう、生きた言葉を捉える宣長の感受性を示した一節である。歌の「姿」に対する繊細な感性、これが「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という宣長の言語観なのである。

 

僕ら建築家は、空間のスケールやサイズにとても気をつかっている。それが空間の「姿」に出てしまうからだ。例えば和室を設計した際に柱の太さが1cmないし2cm変わった場合、機能にさして影響は無いけれど空間の質や緊張感が失われてしまうことがある。あるいは、8畳間の天井の高さは10cm高くなっただけでも、どこか居座りが悪いと感じることがある。何故かというと、その感覚は特に建築家でなくても僕ら日本人には染み付いたものだからだ。和室などに表れた「姿」(プロポーション)は、僕たち日本人には日常であり、何世代にもわたった空間の経験である。この日本人が作り伝えて来た伝統的な空間は、僕たちの生活に備わった財産であり共通の感覚を養ってきた。

先ほどの例に戻るなら、「阿呆」と「馬鹿」を日常の会話でいとも簡単に適切に使い分けているのは僕らの心に直結した言語となっているからであり、和室では天井の高さや柱の微妙なサイズに敏感に応じるのは身体に染み付いた感覚になっているからだ。言語であれ空間であれ、その「姿」は長い歴史の中で培われ形作られた。宣長が歌について「姿」の重要性を語るのは、言語のその発生まで遡ってみたときに現れた「姿」が、「意」よりも根源的だと気が付いたからである。だとするなら、僕らは同じ経緯をたどって「空間」を見る必要があるのではないだろうか? そんなことを思い描いているときに、丹下がなぜ空間の「姿」を第一として「美しきもののみ機能的である」というエッセーを書いたのか、その理由が解ったような気がした。

「機能、機能」と言う人は、「姿」に直接向かい合わず、空間と空間の「関係」を目指している。空間と空間をどのように繋げたら「使いやすいか?」にその神経が集中している。丹下が「美しきもののみ機能的である」とのエッセーで伝えたかったことは、古代から人間が本来持っている空間の「姿」に直接対峙するその感受性を忘れるな、ということではなかったのか。

丹下は、同じエッセーの中で機能主義者に対してこんなことを言っている。

「人の肉体を心地よくさせ、目を見はらせ、そうして精神を感動させる『美しさ』に背を向けているかぎり、彼らはに背を向けていたのである」

(了)