小林秀雄「本居宣長」全景

池田 雅延

六 もののあはれを知る

「もののあはれ」という言葉は、今日、文学などにはまるで関心がないという人にもよく知られている。ましてや、小説が好き、短歌が好き、俳句が好きといった人であれば、知らぬ人はないとさえ言っていいだろう。これはひとえに、江戸時代の半ば、本居宣長が出て「もののあはれ」の論を展開した、そのことが今日の教科書に載り、「もののあはれ」という言葉は現代語のなかにも生き続けることになった、そう解して大過はないだろうと思う。

そして今日、その「もののあはれ」が何かの拍子で出てくると、たいていの人はまず四季の情趣を意識する、そう言うにおいても大過はないと思われる。しかし、宣長が説いたところはそうではない、宣長の言う「もののあはれ」は、そうした四季の情趣に留まらず、情趣や情緒からは遠いとさえ言っていい世帯向きのこと、すなわち日常生活のやりくりにまで及んでいた、したがって、今日の私たちが漠然とであれ頭においている「もののあはれ」は、宣長の説からすれば片端と言ってよいのである。

それに加えて、「もののあはれ」には、もうひとつの誤解があるようだ。今日、多くの人は、「もののあはれ」は感じるものだと思っている。だが宣長は、そうではないと言う。「もののあはれ」は、感じるだけではいけない、知るということがなければいけない、人生でいちばん大事なことは、「もののあはれを知る」ということだと言い、小林氏は、宣長の学問は、人生いかに生きるべきかを問う「道」の学問であった、その「道」の中心には、「もののあはれを知る」ということがあった、と言うのである。ではその「もののあはれを知る」とは、どういうことなのだろうか。

 

ここですこし、また後戻りする。前回、「もののあはれ」という言葉は、江戸の中期に宣長が登場し、そこに独自の意味合を読み取ってみせるまで、どういうふうに使われていたかを見た。それと同じように、「もののあはれを知る」という言葉は、いつごろから見られるようになって、どういう場面で言われていたか、そこを遡っておこうと思うのだ。

というのは、宣長は、「もののあはれ」と一対で「もののあはれを知る」ということを強く説いたが、「もののあはれを知る」という言い方自体は宣長の発明ではない。宣長は、「もののあはれ」という言葉と同様に、平安時代からずっとあり、宣長の時代に至るまでごくありふれた言葉としてあった「もののあはれを知る」を取り上げて、独自の思想で染めたのである。宣長は、「もののあはれ」という言葉に、はちきれんばかり自分の考えを詰め込んだ、その様相を、前回、つぶさに見たが、「もののあはれを知る」という言葉にも、あふれんばかりの意味合を盛った。

 

「もののあはれ」という言葉が、文字に記された最初は平安時代、紀貫之の「土佐日記」であった。「楫取り、もののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば……」とあるそのなかに、早くも「もののあはれを知る」は見えていた。

さらには、同じく平安時代、「古今集」に続いた勅撰集「後撰集」に、ある女から「あやしく、もののあはれ知り顔なる翁かな」と言われて、と詞書した貫之の歌がある。「もののあはれを知る」は、こうして最初から、「もののあはれ」と一体だったのである。

これを承けて、『日本古典文学大辞典』はこう説いている。平安時代にあっては、歌を詠むこと、それがすなわち「もののあはれ」を知ることであった、逆にいえば、「もののあはれ」を知る者なればこそ歌を詠まずにはいられない、したがって、平安時代の「もののあはれ」は、「貴族の日常生活のなかで要求された美的情操に関わる生活用語」であったと言え、それを「知る」ということは、「趣味を解し、世間の情理をわきまえた節度のある知恵教養」を身につけるということであった。

時は流れて、藤原俊成の歌が生まれた。小林氏が「本居宣長」第十三章で取り上げている、「恋せずば人は心もなからまし 物のあはれもこれよりぞ知る」である。俊成は、平安末期から鎌倉初期にかけての人で、第七の勅撰集『千載和歌集』を独りで編み上げるほどの大歌人だったが、この歌自体は彼の私家集『長秋詠藻』にあると知られてはいたものの、その平明さから歌学や歌論に取り上げられることはまずないまま何年もが過ぎ、江戸時代になって近松門左衛門や浮世草子、随筆類の文中に、俊成の歌とはことわることなく織りこまれて広く知られるようになったという(田中康二氏『本居宣長の国文学』<ぺりかん社刊>による)。

そしてその江戸時代である。新潮日本古典集成『本居宣長集』の校注者日野龍夫氏は、「解説」で、次のように言っている。「物のあわれを知る」という言葉は、江戸時代人の言語生活の中ではごくありふれた言葉であった、したがって、その言葉によって表される思想も、江戸時代人の生活意識の中ではごくありふれた思想であった、通俗文学の中でも最も通俗的な為永春水の人情本に、「物のあはれを知る」ないし「あはれを知る」という言葉がしばしば出てくるほどである……。

 

「もののあはれを知る」という言葉は、こういう歴史を辿った。宣長は、その歴代の「もののあはれを知る」に人生の大事を嗅ぎつける。

紀貫之は、平安時代を代表する歌人であったが、最初の勅撰集「古今集」の編纂にあたっても中心的な位置を占め、いわゆる「仮名序」を書いた。

―やまと歌は、ひとつ心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出だせるなり。……

この「仮名序」を目にして、宣長は、「石上私淑言いそのかみのささめごと」巻一に次のように書いた。これが宣長の「もののあはれ」の論の起点となったのだが、同時にこれは、「もののあはれを知る」論の起点でもあった。「本居宣長」第十三章に引かれている。

―古今序に、やまと歌は、ひとつ心を、たねとして、よろづのことのはとぞ、なれりける、とある。此こころといふがすなはち物のあはれをしる心也。次に、世中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふ事を、みる物きく物につけて、いひいだせる也、とある、この心に思ふ事といふも、又すなはち、物のあはれをしる心也。上の、ひとつ心をといへるは、大綱をいひ、ここは其いはれをのべたる也。……

そして、俊成の歌である。ある人が宣長に問うた。宣長二十九歳の年の「安波礼弁あわれのべん」から、同じく第十三章に引かれている。

―俊成卿ノ歌ニ、恋セズハ、人ハ心モ無カラマシ、物ノアハレモ、是ヨリゾシル、ト申ス此ノアハレト云フハ、如何ナル義ニハベルヤラン、物ノアハレヲ知ルガ、即チ人ノ心ノアル也、物ノアハレヲ知ラヌガ、即チ人ノ心ノナキナレバ、人ノ情ノアルナシハ、タダ物ノアハレヲ知ルト知ラヌニテ侍レバ、此ノアハレハ、ツネニタダ、アハレトバカリ心得ヰルママニテハ、センナクヤ侍ン。……

俊成の歌に歌われている「あはれ」とは、どういう意味なのでしょうか。「もののあはれ」を知るということが、すなわち人の心があるということであり、「もののあはれ」を知らないということはすなわち人の心がないということだとすれば、人にこころがあるかないかは「もののあはれ」を知っているか知らずにいるかです、するとこの「あはれ」ということも、ただ「あはれ」と感じているだけでは意味がないということなのでしょうか……。

「安波礼弁」の行文上、この質問は「ある人」が宣長に問うたとなっているが、実のところは宣長が、宣長自身に問うたと解してもよいだろう。「あしわけ小舟」「石上私淑言」等、宣長の著作には問答体が目立つが、それらはすべて、読者を説得し、納得させるためのいわば文章術であると同時に、宣長自身の自問自答と言ってよいのである。

そういうところにも思いを馳せて、この「安波礼弁」の質問を読み返せば、宣長は二十九歳、京都での遊学中に、もう「もののあはれを知る」を平安時代の貴族たちとはよほどちがった関心で受取っていることがわかる。すなわち、「もののあはれ」を「貴族の日常生活のなかで要求された美的情操に関わる生活用語」とは受取らず、「もののあはれを知る」も「趣味を解し、世間の情理をわきまえた節度のある知恵教養」を身につけることとは受取っていない。人間の心というものの深さ、広さ、さらに言えば不思議、不可解、そこに向き合ってきた先人たちの経験、それが「もののあはれを知る」ということだと宣長は受取っているのである。

そして、宣長はそうと明確に言っているわけではないが、「もののあはれを知る」という言葉の微妙繊細、そこに思いを致させてくれたのが俊成の歌だったと言うのである。「古今集」の仮名序に対する発言が見える「石上私淑言」は、「安波礼弁」の五年後である。「石上私淑言」になると、もう必死というほどの口調で「此こころといふがすなはち物のあはれをしる心也」「此心に思ふ事といふも、又すなはち、物のあはれをしる心也」と畳みかけている。実際、宣長は、俊成の歌と出会ったことによって、「あはれ」と「もののあはれを知る」とが立ち上がってくるのを見た。その興奮がどれほどのものであったかは、「ある人」の質問に答えている宣長の回答が、あえて自らの興奮を抑え、自重を促しているかのようにも読めることからもわかる。小林氏の意図からはずれるが、ここもやはり小林氏の引用を借りて引く。

―予、心ニハサトリタルヤウニ覚ユレド、フト答フベキ言ナシ、ヤヤ思ヒメグラセバ、イヨイヨアハレト云フコトバニハ、意味フカキヤウニ思ハレ、一言二言ニテ、タヤスク対ヘラルベクモナケレバ、重ネテ申スベシト答ヘヌ、サテ其人ノイニケルアトニテ、ヨクヨク思ヒメグラスニ従ヒテ、イヨイヨアハレノコトバハ、タヤスク思フベキ事ニアラズ、古キ書又ハ古歌ナドニツカヘルヤウヲ、オロオロ思ヒ見ルニ、大方其ノ義多クシテ、一カタ二カタニツカフノミニアラズ、サテ、彼レ是レ古キ書ドモヲ考ヘ見テ、ナヲフカクアンズレバ、大方歌道ハ、アハレノ一言ヨリホカニ、余義ヨギナシ、神代ヨリ今ニ至リ、末世無窮ニ及ブマデ、ヨミ出ル所ノ和歌ミナ、アハレノ一言ニ帰ス、サレバ此道ノ極意ヲタヅヌルニ、又アハレノ一言ヨリ外ナシ、伊勢源氏ソノ外アラユル物語マデモ、又ソノ本意ヲタヅヌレバ、アハレノ一言ニテ、コレヲオホフベシ……

 

こうして時は江戸となり、貴族であった俊成の歌が、近松門左衛門や浮世草子といった大衆相手の作品世界に取り込まれ、「もののあはれを知る」は地下じげの娯楽のなかでもてはやされるようになるのだが、『日本古典文学大辞典』には、この時代、「もののあはれ」は浄瑠璃や小説類でも用いられ、そこでは日常生活で求められる他人への心づかいや同情心を意味することが多かったとあった。「もののあはれを知る」は江戸期、永く貴族の社会においてありふれた言葉であったのとはまた別の意味で、ありふれた言葉になっていたのである。

しかし宣長は、少なくとも表面上は、江戸期の「もののあはれを知る」に頓着はしなかったようだ。小林氏にも言及はない。小林氏にしてみれば、宣長が赫々と照らし出した古代・上代からの「もののあはれ」と「もののあはれを知る」に、自分はどこまで肉薄できるか、そこに思いは集中していたであろう。したがって、宣長がそうとはっきり顧みていない以上、小林氏も江戸期の「もののあはれを知る」にかまけている暇はなかったのだ、とは言えるだろう。

だがいま、こうしてこの稿を書きながら、日野氏の『本居宣長集』の「解説」を読み返していて、おのずと脳裏に浮かんだことがある。前回、折口信夫の指摘に沿って、宣長の「もののあはれ」は平安時代の用語例を超え、「うしろみの方の物のあはれ」すなわち世帯向きのことまで抱えこんでいたということを見たが、この「うしろみの方の物のあはれ」は、宣長が江戸時代人、すなわち宣長と同時代の人たちの生活意識、そこから汲み上げたものではなかっただろうか、そういう思いが浮かんだのである。

 

宣長は、「源氏物語」、「古事記」と、ひとことで言えば古典という「雅」に生きた人だが、人並み以上と言っていいほど「俗」にもひたっていた。日野氏によれば、「京都遊学中の宣長は、よく学ぶと同時によく遊んだ。『在京日記』には、人形浄瑠璃・歌舞伎に強い関心を持ち、しばしば劇場に足を運んだことが記されているし、その他、友人たちと作った狂詩、島原の灯籠見物、石垣町の料理屋での飲食、巷の情痴の人殺しの噂などの記事がある。落語史研究の資料となる米沢彦八についての記事などもある」…… (「宣長と当代文化」、筑摩書房刊『宣長と秋成』所収)

こうして、宣長の俗文化三昧にも目を配ってみると、「本居宣長」の第五章で言われている「好信楽」、第十一章で言われている「聖学」「雑学」が思い起されてくる。以下、第十一章から、小林氏の文章である。

―在京中の宣長の書簡に、「好ミ信ジ楽シム」という言葉がしきりに出て来るに就いては、既に述べたが、この言葉の含蓄するところは、もはや明らかであろう。宣長が求めたものは、如何に生くべきかという「道」であった。彼は「聖学」を求めて、出来る限りの「雑学」をして来たのである。彼は、どんな「道」も拒まなかったが、他人の説く「道」を自分の「道」とする事は出来なかった。従って、彼の「雑学」を貫道するものは、「之ヲ好ミ信ジ楽シム」という、自己の生き生きとした包容力と理解力としかなかった事になる。……

―学問とは物知りに至る道ではない、己れを知る道であるとは、恐らく宣長のような天才には、殆ど本能的に摑まれていたのである。彼には、周囲の雰囲気など、実はどうでもいいものであった。むしろ退屈なものだったであろう。卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに、道を求めなければならないとは、宣長にとっては、安心のいく、尤もな考え方ではなかった。俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事であった。この問いほど興味あるものは、恐らく、彼には、どこにも見附からなかったに相違ない。……

京都に遊学中、宣長は堀景山という儒医に師事したが、景山は、前時代の官僚儒学や堂上(公家)歌学の偏見から逃れて自由になった、無碍むげの学者の先駆けであった。以下、第四章の終盤からである。日野氏が写し取った宣長の在京生活は、小林氏の眼にはこういうふうに映っていた。

―宣長という魚が、景山という水を得た有様は、宣長の闊達な「在京日記」に明らかである。と言うのは、彼の日記に書かれているのは、言ってみれば、水の事ばかりだという意味にもなるようである。「日記」を読むと、学問しているのだか、遊んでいるのだかわからないような趣がある。塾の儒書会読については、極く簡単な記述があるが、国文学については、何事も語られていない。こまごまと楽し気に記されているのは、四季の行楽や観劇や行事祭礼の見物、市井の風俗などの類いだけである。……

小林氏は小林氏で、宣長を取り巻く江戸時代人の生活意識を、独自に嗅ぎ取っていたようだ。しかし宣長は、ただ浮かれていただけではなかった、こうして「雑学」を好み、信じ、楽しみながら、「聖学」の志は確と胸中に秘めていた。小林氏の文は続く。

―「やつがれなどは、さのみ世のいとなみも、今はまだ、なかるべき身にしあれど、境界につれて、風塵にまよひ、このごろは、書籍なんどは、手にだにとらぬがちなり」(宝暦六年十二月二十六、七日)というような言葉も見られるほどで、環境に向けられた、生き生きとした宣長の眼は摑めるが、間断なくつづけられていたに違いない、彼の心のうちの工夫は、深く隠されている。……

田中康二氏の前掲書によれば、宣長が俊成の歌と出会ったのも景山の著書『不尽言』によってであったらしい。この俊成の歌をどう読むか、これは彼の心のうちに最大の工夫課題として深く隠され、宝暦七年十月、松坂へ帰って「紫文要領」「石上私淑言」の筆を執ったとき、一気に心の外へ躍り出たのであろう。そしていったん躍り出た後は、「もののあはれを知る」は「恋せずば人は心もなからまし」から「うしろみの方の物のあはれ」まで、一瀉千里であったのであろう。むろん貫之の「仮名序」の「心」を、「此こころといふがすなはち物のあはれをしる心也」と読んだとき、そこにはすでに「うしろみの方の物のあはれ」もしっかり読み取られていたはずである。

小林氏は、第十三章で、次のように言っている。

―貫之にとって、「もののあはれ」という言葉は、歌人の言葉であって、楫とりの言葉ではなかった。宣長の場合は違う。言ってみれば、宣長は、楫とりから、「もののあはれ」とは何かと問われ、その正直な素朴な問い方から、問題の深さを悟って考え始めたのである。彼は、「古今集」真名序の言う「幽玄」などという言葉には眼もくれず、仮名序の言う「心」を、「物のあはれを知る心」と断ずれば足りるとした。(中略)それも、元はと言えば、自分は楫とりに問われているので、歌人から問われているのではないという確信に基く。「あはれ」という歌語を洗煉󠄁せんれんするのとは逆に、この言葉を歌語の枠から外し、ただ「あはれ」という平語に向って放つという道を、宣長は行ったと言える。……

ここまでくれば、前回引いた第十五章の次の文は、もう目睫もくしょうと言っていいだろう。

―「物の心を、わきまへしるが、すなはち物の哀をしる也。世俗にも、世間の事をよくしり、ことにあたりたる人は、心がねれてよきといふに同じ」とまで言う事になったのだから、「世帯をもちて、たとへば、無益のつゐへなる事などのあらんに、これはつゐへぞといふ事を、わきまへしるは、事の心をしる也。其つゐへなるといふ事を、わが心に、ああ是はつゐへなる事かなと感ずる」事は、勿論、「うしろみのかたの物の哀」と呼んでいいわけだ。……

 

では、さて、宣長が見通した「もののあはれを知る」の「知る」は、何をどう知るのかである。小林氏の文を読んで行こう。

宣長は、和歌史の上での「あはれ」の用例を調査して、先ず次の事に読者の注意を促す、と前置きし、小林氏は第十四章に、「石上私淑言」の巻一から引く。

―阿波礼といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれ共、其意は、みな同じ事にて、見る物、きく事、なすわざにふれて、ココロの深く感ずることをいふ也。俗には、ただ悲哀をのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず、すべてうれし共、おかし共、たのし共、かなしとも、こひし共、情に感ずる事は、みな阿波礼也。されば、おもしろき事、おかしき事などをも、あはれといへることおほし。……

「あはれ」とは、古来、人の心の動くさま、感じるさま、それを言う言葉として用いられてきた、が、いつのまにかこれに「哀」の字を充てて特に悲哀の意に使われるようになった、宣長の「源氏物語玉の小櫛」二の巻によれば、「うれしきこと、おもしろき事などには、感ずること深からず、ただかなしき事、うきこと、恋しきことなど、すべて心に思ふにかなはぬすぢには、感ずること、こよなく深きわざなるが故」である。―心が行為のうちに解消し難い時、心は心を見るように促される……。

―宣長が「あはれ」を論ずる「モト」と言う時、ひそかに考えていたのはその事だ。生活感情の流れに、身をまかせていれば、ある時は浅く、ある時は深く、おのずから意識される、そういう生活感情の本性への見通しなのである。放って置いても、「あはれ」の代表者になれた悲哀の情の情趣を説くなどは、末の話であった。そういう次第で、彼の論述が、感情論というより、むしろ認識論とでも呼びたいような強い色を帯びているのも当然なのだ。彼の課題は、「物のあはれとは何か」ではなく、「物のあはれを知るとは何か」であった。……

その「物のあはれを知るとは何か」を、宣長自身はどう言っているか。「紫文要領」巻上からである。小林氏は、同じく第十四章に引く。

―目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、これ事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしる也、其中にも、なほくはしくわけていはば、わきまへしる所は、物の心、事の心をしるといふもの也、わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也。……

ここで言われている「事の心」「物の心」の「事」とは出来事、「物」とは文字どおり物と受取り、それらの「心」とは「本質」ということであろうが、「本質」をさらに言うなら「事」の場合はそれが出来しゅったいした理由、「物」の場合はそれが存在していることの意義と、ひとまずは言っていいだろう。むろん、こう簡単に言ってすまされるわけのものではないが、ともあれこれを承けて小林氏は言う。

―明らかに、彼(宣長)は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである。知る事と感ずる事とが、ここで混同されているわけではない。両者の分化は、認識の発達を語っているかも知れないが、発達した認識を尺度として、両者のけじめもわきまえぬ子供の認識を笑う事は出来まい。子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない。……

「もののあはれを知る」の「知る」は、「感じる」でもあり「知る」でもある。「知る」をさらに言うなら、知識を得る意味の「知る」でもあろうし、「心得る」「弁える」の「知る」でもあろうし、何かを見聞きしてそれと「認める」の「知る」でもあろう。宣長の言う「もののあはれを知る」の「知る」は、そういう「感じる」と「知る」とが瞬時になしとげられる「知る」、すなわち全的な、直観的な認識のことだと小林氏は言うのである。

しかし、先に引いた「紫文要領」の、「目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて……」を、小林氏が「彼(宣長)は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである」と読んだについては、やや飛躍があると言えば言えるだろう。そこは小林氏も承知していて、これを言う前に「紫文要領」の説明は明瞭を欠いているようだが、彼の言おうとするところを感得するのは難しくあるまいと、ここから先は自分の読解だとことわって言っている。が、これに先立って、「もののあはれを知る」にまつわる宣長の論述が、感情論というよりむしろ認識論とでも呼びたいような強い色を帯びているのも当然なのだ、とも言っていた。認識……、認識論……、実はここが、小林氏が宣長に覚えた最大の共感点とも言えるのである。

 

小林氏の批評活動は、文壇登場論文の「様々なる意匠」以来、一貫して人生の認識活動であった。若き日、小林氏はボードレール、ランボーらとともに、アンドレ・ジイドに熱中したが、氏の生涯の盟友、河上徹太郎氏が、河上氏自身もジイドに熱中した理由をこう書いている。

―ジイドが他の作家と較べて際立って魅力があった所以は、彼が物語ったり歌ったりする作家ではなく、「識る」、つまり人間や世界の存在の意味を探ることを窮極の目標として創造する文学者であったからなのである。……(「認識の詩人」、『私の詩と真実』所収)

同じ理由が、小林氏にもあったと言っていい。晩年、氏は真夏の九州で開かれた「全国学生青年合宿教室」に積極的に足を運び、朝から学生たちに講義をするとともに彼らの質問に答えたが、そのなかにこういう問答がある。

―学生 小林さんは自分の経験を表現するために評論というフォームを選ばれたということですか。それは、他の人が短歌で経験を詠むのとまったく一緒ということですか?

小林 そうです。僕の表現の形式が評論の形に定まったということは、一つの運命みたいなものだと思っています。こういう形に定まろうとは思っていませんでした。僕ははじめ小説でも書こうかなと思っていたからね。そうしたら、どうも小説を書くよりも、評論というフォームを取るようになっていった。自然にそうなったのです。これはいろんな原因があるでしょう。その原因をこうだと見極めることはできないけれども、そこには何か必然的なものがあったのでしょうな。……(新潮文庫『学生との対話』より)

小林氏が、「何か必然的なものがあったのでしょうな」と言った必然とは、氏生来の「識る」「認識する」ということに対する烈しい欲求であったと見ていい。この生まれついての性向が、小林氏を批評家にしたと言ってよいのである。そのことは、昭和七年、三十歳で書いた「Xへの手紙」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第4集所収)が証している。この作品は、雑誌『中央公論』から小説をと言われ、小林氏自身も小説を書くつもりで書いた、しかし、出来上がった作品は、小説と言えば言えなくもないが、文体の手触りは評論である、すなわち、描写ではなく認識行為の所産である。小林氏は「Xへの手紙」で、自分自身の人生を苛烈に認識し、この「Xへの手紙」を分水嶺として、小説家志望から批評家、すなわち人間および人生の認識家となったのである。

小林氏の語録に、批評とは他人をダシにして己れを語ることだ、がある。先回りしていえば、『本居宣長』は小林氏が、本居宣長をダシにして己れを語った大著であるのだが、ここに露出している「彼(宣長)は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである」は、それこそ具体的、現実的に小林氏が己れを語った言葉であり、ここから氏は本居宣長という鉱脈を掘っていくのである。

そしてその鉱脈は、ただちに紫式部に通じていた。ここまでにも何回か引用した「紫文要領」の「紫文」とは「源氏物語」の意であり、「紫」は紫式部のことである。紀貫之の「古今集」序から藤原俊成の歌へと深まっていた宣長の「もののあはれを知る」とは何かの思索は、「源氏物語」との出会いによって一気に加速した。小林氏は、宣長は「源氏物語」の味読によって開眼したとまで言っている。

先の、明らかに宣長は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである、と言った文に続くくだりを引こう。

―よろずの事にふれて、おのずから心がウゴくという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている。心というものの有りようは、人々が「わが心」と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事にふれて感く、事に直接に、親密に感く、その充実した、生きたココロの働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損わず保持して行く事が難かしいというところにある。難かしいが、出来る事だ。これを高次な経験に豊かに育成する道はある。それが、宣長が考えていた、「物のあはれを知る」という「道」なのである。彼が、式部という妙手に見たのは、「物のあはれ」という王朝情趣の描写家ではなく、「物のあはれを知る道」を語った思想家であった。……

 

前々回、小林氏は現行の第十一章を書いた後、昭和四十一年十一月号から翌年三月号まで、連載を休んで「源氏物語」を熟読したと紹介した。この「源氏物語」を読むということは、宣長が「源氏物語」を読んで知った「もののあはれ」を、小林氏自身もしっかり知ろうとしてのことであった。その「もののあはれを知る」ときが、私たちにも訪れている。

(第六回 了)