小林秀雄 その古典との出会い
―堀辰雄と林房雄を通して

石川 則夫

はじめに

小林秀雄の交友関係を考える上で、堀辰雄、林房雄という2人の小説家を数えることは極めて珍しいだろう。交流した期間としては決して長いものではなく、小林がこの2人に言及した文章も実にわずかである。しかし、その交流の時期は昭和14(1939)年から16(1941)年という期間に重なっているのであり、それは戦時下における錯綜と混乱の時代に他ならないが、小林秀雄にとって、批評の表現としての指向性が戦中、戦後へ向かって大きく変化していく時期でもあった。そしてこの変化は社会情勢に負うだけではなく、この2人の小説家との往来が深く関わっていると、私は考えている。本稿はこの3者の接触とその意味についてのアウトラインを描いてみようとする試みである。

小林秀雄明治35(1902)年、堀辰雄明治37(1904)年、林房雄は明治36(1903)年とほぼ同じ世代として生まれた。小林と堀は大正10(1921)年に第一高等学校の同期生となり、学生時代の交流はあった。この『風立ちぬ』を代表作とする作家について紹介するまでもなかろうが、林房雄の読者は今なかなかいないかもしれない。林は熊本の五高から大正12(1923)年に東大法学部へ入学しているが、その当時には既に共産主義者のグループに参加し、以後プロレタリア文学の担い手として活動していくので、学生時代に小林との交流はない。しかし、林は2年近くの獄中生活の後、昭和7(1932)年から10年代にかけて歴史小説『青年』、『壮年』といった幕末維新期の歴史と人間を描出する方向へ進み、小林とともに「文學界」(昭和8(1933)年)の創刊メンバーとなっていく。いわば、文芸復興期といわれる時代にあって、小林から次代を担う作家として高く評価された文学者であった。小林秀雄がもっとも評価したのは、林の日本歴史への実に広範な知識と個性的な史観にあったと思われる。また、後年、三島由紀夫が年若い読者へ勧める1冊の書物が林の『青年』であったというエピソードもある。

 

1 堀辰雄との交流

 

昭和14(1939)年3月10日、鎌倉市小町1-11-14 笠原代三郎宅の2階に堀辰雄夫妻が寓居を構えた。堀はその後、5月には神西清とともに10日間ほど奈良へ旅行しているが、無理が祟ったのか鎌倉帰宅後しばらくの間病臥することになり、7月から軽井沢に別荘を借りて静養している。10月初旬に鎌倉へ戻り、翌15年3月には東京、杉並区の夫人の実家へ転居していく。したがって、堀辰雄は14年3月から15年3月までの1年間のうち、正味8ヶ月ほどを鎌倉に暮らしていたことになる。そして、この間に鎌倉市扇ヶ谷403番地在住であった小林秀雄は堀辰雄との交流を深めていたようである。その様子の一端については、『堀辰雄事典』(勉誠出版 平成13・10)に堀多恵子と竹内清己の対談があり、そこで鎌倉小町に暮らした日々を、堀多恵子は次のように回想している。

 

それは神西さんと主人が二人で探して、やっぱり結核ですからね、結核となるとなかなかうまい具合に家が借りられないんですよ。そういうこともあったんでしょうね。それで、お二階にお手洗いも洗面所も台所もある家でした。小林秀雄さんよく遊びに来ていました。

竹内

川端康成も。

先生も二階堂にいらしたでしょ。だから私たち遊びに行ったりしました。

竹内

鎌倉文士になってもいいような時期もあったんですね。堀辰雄にも。

かぎられた方々としかゆききはありませんでした。

 

このように鎌倉生活への言及は、本対談の全体からみれば極めてわずかな分量に過ぎないのだが、堀多恵子が住居のことを回想した直後に自ら小林秀雄の名を挙げていること、また、数ある鎌倉文士との交流を予想した竹内からの問いに対して、堀と他の鎌倉在住文士との交流の範囲は狭かったことも付け加えていることに注意すれば、ここで即座に想起された小林秀雄の存在、その印象はよほど強いものがあったと考えねばならないだろう。ではその内実はどうであったのか。昭和14年春から15年春までの1年間に、堀辰雄と小林秀雄の間でどのような会話が交わされていたのだろうか。

 

2 堀辰雄と日本古典文学

 

まずは、この時期の堀辰雄側の主たる話題について思い巡らしてみよう。昭和11(1936)年に室生犀星を介して折口信夫門下の小谷恒こ たに ひさしを通し、日本古典文学の世界へ入り込んでいった堀は、翌12年には折口の主著『古代研究』に親みつつ、折口との実際の交流も徐々に深まっていったことが確認できる。そして昭和14年1月から3月にかけて、折口古代学のエッセンスを近代小説へ昇華したと評価された小説『死者の書』(『日本評論』)が連載発表されているのに加えて、その4月から慶應大学にて開講されていた折口信夫の担当科目「源氏物語全講会」に出席し、「橋姫」の巻についての講義を聴いていた。つまり、昭和14年3月に逗子から鎌倉小町に転居して来た堀辰雄は、『死者の書』を精読し、鎌倉から三田の慶應大学へ毎週通っていたわけであり、言ってみれば、折口信夫の人と学問に心酔していた頃なのである。このことは、同年5月の奈良旅行の際にも、先に帰京する神西清と別れ、二上山の麓に佇む当麻寺へ足を向け、『死者の書』の舞台となったこの場所を一人訪れていることからも、その想いの強さは知られるのである。

また、こうした堀辰雄の様子は、同年の『文藝』(改造社)6月号掲載の堀辰雄・三好達治・小林秀雄による鼎談「詩歌について」にも強く表明されているところでもある。この座談会は、同年4月中に扇ヶ谷の小林秀雄宅で行われたらしいが、堀は5月の奈良旅行への期待を口にしつつ、自然に古典作品に触れていく。「蜻蛉日記」、「更級日記」、そして「伊勢物語」への賛辞を述べながら、それまでほとんど三好達治とのやりとりに終止していた堀は、突然、小林秀雄へ言葉を向けていく。

 

三好

(論者注・「伊勢物語」の)註釈物を読んでいると、非常によくわかるからね。―あの短い一つ宛の話が、短篇小説として面白いね。

うン。実にいゝね。―(小林氏に)折口さんの「古代研究」なんか読んだ?古代史なんかやったことがない?

小林

ずっとはじめ、神代をやったことがあるがね、そうくわしいことは……。

とても面白いね。一番国文学者としても尊敬しているのだけれども、国文学だけでも大したものだな、あの人ぐらいでないかなァ、何か独創的な意見をもっているのは……。たゞ「古代研究」は絶版になるらしいね、いろいろな意味で出せない。民族学者のほうで何か……

 

といった堀の発言を見てもその折口熱は相当なものと推察される。また小林の「ずっとはじめ、神代をやったことがある」という発言は、昭和7(1932)年から講師となっていた明治大学文芸科において、昭和11(1936)年より「日本文化史研究」を担当したことに関わるものではなかろうか。さて、この後の鼎談において小林秀雄はほとんど二人の会話の聞き役であるが、斎藤茂吉『万葉秀歌』の話題に触れて、これを「いいね」と評価し、同じ茂吉著の『柿本人麿』を読んだことを述べている。この後の堀と小林との交流で、確認できるものは翌15年1月に堀が仕事場として使うようになっていた鎌倉のホテルに岸田國士が滞在しており、そこへ堀、小林、三好の3人で訪ねていったことくらいであるが、この年の堀の身辺事情、つまり、鎌倉小町転居後まもなくの立原道造の死去に関わるあれこれが3月末から4月、5月の奈良旅行とその後の病臥、7月から10月までの軽井沢での静養期間などを鑑みれば、おそらく堀辰雄の寓居へ小林秀雄が「よく遊びに来ていました」というのは、先の鼎談が行われた4月以降、6月、10月から翌年3月の転居までの間ということになろう。そして引用したように、この昭和14年4月までの時点において、小林秀雄は折口信夫の『古代研究』は未読であろうし、連載発表されたばかりの小説『死者の書』も知らなかったであろう。逆に言えば、この昭和14年の4月以降に小林秀雄は堀辰雄によって折口信夫という国文学者の学問を吹き込まれ、日本古典文学の世界へ誘われたと考えてもよいのではなかろうか。この鼎談において珍しく沈黙したままの小林秀雄が、その後に、堀辰雄のもとを訪れては折口信夫の古代観について、その古典観について聞き質していたであろうことは決して想像に難くないのである。

 

3 昭和14年前後の小林秀雄

 

それでは、肝心の小林秀雄にとっての昭和14年前後とは、その精神にどのような指向性が認められるだろうか。たとえば、昭和10年1月から編集責任者を務めていた「文學界」では、昭和14年3月、4月号と連続して小林秀雄を加えた鼎談を掲載している。3月号では、小林に真船豊、佐藤信衛という顔ぶれで「現代日本文化の欠陥」と題するもの。この鼎談を主導するのは哲学者・佐藤信衛で、日本の学問伝統が近世と近代に区分され、対立したままであるとして、その分裂状態を指摘し、適切な継承がなされていないことを批判している。この点を劇作家である真船が歌舞伎と新劇との対立を挙げて具体的に説いているが、小林は「今の日本の文化というものの今あるが儘のギリギリの姿を見て居ない」ところに当時の文化批評の欠陥があると指摘する。

 

小林

……例えば真船君、芝居に携わって居る人には現代日本が表現しているごまかしのないイメージが舞台からちゃんとやって来るだろうと思う。だからそういう点から日本の文化の本当のギリギリの姿というものは、音楽、芝居、映画―眼に見えたり耳に聞こえたりするものによってはっきり見ることが出来る。そういう点から色々な現実に即した不平があると思う。そういうものを僕は考えたいと思う。

 

ここで言う「姿」という言葉を次の発言で「スタイル」と言い換え、一流と言われている日本の思想家が「自分のスタイルを持っていないという事は現代日本思想家の一大欠陥だよ」と断じているのも注意を引くが、その後の議論において佐藤が学問、文化の伝統継承の問題を次のように説くのを受けての小林の発言が見逃せない。

 

佐藤

……日本の古い伝統と新しい伝統とを旨く繋がなければいけなかったのだ。学問がそうだ。そう西洋の学問だからと言って、前のものをすっかり捨てて了って新しいものをやり出したことがいけないのだ。残るべきものを残してその伝統を新しく導いて行くべきだったんだ。……文学でもそうだ。古い文学というものは或る意味で完成して居るのだよ。所が今の旧式の文学者と新しい文学者とはまるで違うだろう。謂わば伝統が続いていない。……もともと文化というものがどういうものかということを考えようとしなかったから、前代の文化を正当に理解できなかったのだ。そうして古い伝統を皆捨てて、今見る、文学に於ける新旧の差別、演劇に於ける歌舞伎と新劇の対立、という風に、皆木に竹を接いだようになったからいけないと思う。それならどうすればよいかということは、やはり文学とは何ぞや、演劇とは何ぞやという所から始めて、古い伝統も現在の新しい状態もともに肯定せずして、皆そこからやり直すようでなければならぬ。

小林

やはり現在に必要なのは本居宣長かね。

 

佐藤の言い分は日本文化の歴史的継続性を再確認すべきという極めて分かりやすい提案なのだが、その話を受けるかたちで「本居宣長」の名を持ち出すところ、これを意味づける小林秀雄の文脈はその後の発言にも明確ではないし、宣長の学説や「古事記伝」への言及も本鼎談中にはいっさい見当たりはしない。しかし、「批評家の役割」という小見出しのある箇所では、先の発言を反復しつつこう述べる。

 

小林

もっと今あるままの文化を押進めて健全にすれば、古典主義に行かざるを得ない。そういう意味の古典主義なら賛成だ。今の日本主義とか復古主義者は今日の文化はこんなに堕落しているから後ろを見ろと言う。そういう説は病的なのだよ。

 

この言を踏まえれば、いわば健全なる古典主義という文脈において「本居宣長」の名を発音していた可能性は捨てきれないだろう。

そして4月号には小林秀雄・亀井勝一郎・林房雄による鼎談「現代人の課題」が掲載されている。これは先述した堀辰雄の鎌倉小町転居の時期に重なることになるのだが、この鼎談のテーマについては亀井勝一郎が最初にこう述べている。

 

亀井

……現代僕等が置かれて居るような非常な重圧様々な精神上の混乱、そこからの人間の恢復是らがどういう道を辿って行くだろうか現代の日本ではどうなるか。今日の題目にしようと想ったわけです。例えば大陸とか、戦争とか、農村とか、いろいろの場面があって文学者が出かけていく。何かから脱却しようとする努力が一様にそこに動いていると考えられるでしょう。……

 

といったようにその時代にあっての人間の再生が大きなテーマであった。この話題は勢い日本近代の思想や文化はどうあったのかという歴史的考察へと掘り下げられていくことになるが、日本近世から近代にかけての思想基盤の編成過程については、ほぼ林房雄が自らの考察、「日本には神道、仏教、儒道というものがある」という3要素を基点としての自説を展開し、鼎談を主導していく。そこで話が「日本の思想」とはどういうものかという点に触れると、小林は、「文化の伝統に就いてプラス、マイナスというようなことは言えぬ。……僕等にかくかくの精神傾向が伝統としてあるということはまさにそうであるので、それが良いとか悪いとか言う事はない」と言い、「今の日本が曖昧な形で持って居るところの日本人らしい思想を開明するところに僕等の実際の問題がある。それが人間の再生かもしれないよ」と続けて、その後しばらく亀井と林が西欧思想と日本思想の比較検討めいた議論を続けていてもこれを静観したまま、「誰の思想でも思想というものは、自ら徹底性があるのだよ。それを忘れて思想というものをもっと手前の方で持とうと想うところがいけないことなんだ」と、2人の議論、すなわち現代日本の思想批判とは逸脱する方向へ自らの語りを続けていくところが見受けられる。そして、この鼎談で注目すべきは、この戦争の経験から日本が孕むものへと林が言葉を続けたときに、小林が次のように発言している箇所である。

 

小林

津田左右吉が「志那思想と日本」という本を書いているが古来日本の国民思想は文学の中に現れているので、儒教や仏教に関する学問的著作の中には現れてをらぬ。そういうものは日本国民の実生活とは遊離してしまっている。そういう説を書いているが、西洋の学問が入って来ても明治以来の国民思想というものも、これを曲がりなりにも表現して来たのは文学者だと思うね。学者じゃないよ。今の事変に当たっても本当の日本人の思想を発表しているのは兵隊さんの文学だけだと思う。

 

小林秀雄の『本居宣長』を既に読んでしまっている我々にとっては、津田左右吉の著作を引き合いに出して、これに共感するような発言をするのには、意外の感を抱かせるが、この時には、津田左右吉の『文学に現れたる我が国民思想の研究』という大著の、その根本的な動機、我が国の文学史の上においてこそ日本人の思想の発現を認識しようという発想自体への共感はあったということであろう。

さて、この昭和14年には吉田健一を編集兼発行人として、伊藤信吉、西村孝次、中村光夫、山本健吉らの同人による雑誌『批評』が創刊された。その創刊号(8月号)には「歴史と文学―小林秀雄氏を囲む座談会―」を掲載しているが、小林への質問はドストエフスキー論を記述していく過程についてがほとんどで、ロシア、フランスの文学、思想の話題が中心として語り合われている。その中で、西村孝次が柳田國男の著作への読後感を「立派な歴史になり学問になっている」と発言しても、小林はベルクソン哲学の面白さを挙げるだけで、柳田にはまったく触れずにいる。しかし、山本健吉が日本の作家を選んで作家論を試みたいと言うと、「日本の文学史ならば書き度いと思う」という意思をもらし、また、幸田露伴の「渋沢栄一伝」に触れつつ「明治という時代は実に面白い」と述べてもいて、この時期の小林の関心の一端がうかがわれる。そして、こうした日本史、明治時代への指向性の背景にはやはり林房雄との交流が働きかけているようなのだ。

 

4 林房雄との交流

 

堀辰雄は昭和15年3月に鎌倉を去って行くが、この年は「文學界」誌上でさかんに林房雄との座談会、対談を企画しており、11月号では座談会「英雄を語る」を、石川達三を交えて掲載、林から「古事記」の素戔嗚尊が出ると、小林は日本武尊を挙げ、頼朝、家康から新井白石「折焚柴の記」などへも言及するが、この座談会でも日本史全体への見通しを展開し、折々のトピックスを提供するのはほとんど林房雄である。さらに、12月号の対談「歴史について」においては、林は、「古事記」、「万葉集」、「神皇正統記」、「太平記」から江戸期の契沖、宣長らの国学者たち、また、藤田東湖、水戸学の系譜などの流れを示し、自らの日本思想史観ともいうべきものを、かなりな言葉を費やして展開してみせた際に、小林は次のように答えている。

 

小林

君の革新説が実を結ぶには、大変な努力と時間が要るだろう。その事で思い出したが、津田左右吉氏に「文学に於けるわが国民思想の研究」―という本がある。初めのうちは面白がって読んでいたが、読んで了って僕はいろいろな疑問に捕らえられた。そして、結局僕を本当に喜ばしてくれる思想は全々こゝにはない事を感じた。……君は、ずい分前に津田左右吉は詰らぬと言っていた。僕は君ほど徹底的には未だ考え到らないのだが。

借物のものさしで西鶴を観るようにね。

小林

津田という人は、少なくとも過去の日本がね。あの実証主義者には、日本の神話が、広い意味での日本の神話が我慢がならないのだ。神話が人間性を覆っていると解するのだ。……

 

してみると、先述した「文學界」昭和14年4月号の時点から、小林秀雄は津田左右吉の著作を読み込んでおり、ほぼ1年半の時間を経ての結論として、津田左右吉の歴史認識を批判する地点に立っていることになる。さらにこの対談の先において林が「合理主義と進歩主義の歴史観」が蔓延する現状について指摘したとき、小林は次のように述べる。

 

小林

例えば本居宣長を、復古思想だというだろう。傍人がただ彼の復古思想を言う事と彼自身に復古思想がどういう意味合いを持っていたかとは違うよ。大体復古ということがなければ革命は無いのだ。それは歴史の法則だよ。進歩と革命ばかりを見るのは歴史の一面しか知らぬものだ。

 

すなわち、津田左右吉の日本文学史観、特に日本神話に関する思考方法を巡ってその批判を集中させている小林にとって、この直後の発言ではないにしろ、「本居宣長」について「彼自身」にとっての「復古思想」の意味合いがどうあったかという点へ眼を向けようとしていることは見逃してはならないところだろう。そして、林房雄との対談は次号、昭和16年1月号の「文學界」にも引き継がれ、ここでは「現代について」と題して、林、小林それぞれの津田史観批判から開始されている。

 

小林

……神話というものは、成る程不確実なものだが、これを確実にしようと徹底的に努めると歴史というものゝ意味さえ失わなければならぬ始末になる。これは歴史というものが持っている根本の矛盾だ。だから其処につまり喧しい歴史哲学というものが起って来る訳なのだな。歴史というものは科学ではなくして、歴史とは何だと究明するには、哲学的思弁に拠らなければならぬという面倒な問題が起る所以は、其処にあるのだ。

そうそう。

小林

津田左右吉という人には、そういう歴史哲学の問題は気にならなかったのだ。その点は単純だね。

学者として少しも不純なところはないし、曲学阿世の徒でもない。立派な学者だが、考え方の根本が間違っていた。

小林

そうそう。

しかも、その間違った考え方は、一つの時代常識を代表している。歴史は科学である、社会学は科学であるという不思議なる迷信が、現代を支配してをる。非常に困ったことだ。

小林

そう。僕はそういうような事に付ては、いずれ一つ長いものを書く積りでいる。結局、歴史事実というようなものが、あまり単純に一般に考えられているのだ。……過去の歴史事実が現在によみがえるには、文学的な直観の力がどうしても必要なのだよ。其事が大事なんだね。そういう事がわかれば、神話というものが形づくられるのは、どういう風になってをって、神話の力は何処にあるかという在り場所がわかる訳だよ。

 

ここで小林の言った「いずれ一つ長いものを書く積りでいる」というのが、その後のどの仕事を指し示すものなのか、この時点では明確ではない。しかし、少なくともその「長いもの」のテーマが歴史の哲学に関わるものであり、その核心部には「文学的な直観の力」への考察が胚胎し、「神話の力」を捕らえようとする指向性を有するものだということは明記しておくべきだろう。

さて、この対談が「文學界」1月号に掲載されるのと同時に、『文藝』(改造社)の昭和16年1月号でも「文藝評論の課題」と題する座談会があり、小林に中島健蔵、そしてプロレタリア文学評論を貫いて来た窪川鶴次郎を招いて行っていた。話題は大正末から昭和初期へと展開してきた文芸評論の足跡を、それぞれの評論家としての活動を振り返るかたちで話し合っているが、「文學界」誌上での小林と林房雄の対談に言及して、林房雄論から徳富蘇峰「近世日本国民史」の評価、そして、窪川から、小林の最近の対談上の発言に日本史上の人物への言及が目立つ点について次のように問われている。

 

窪川

……(小林氏に)君のいわゆる徳川家康とか、二宮尊徳とか、今の山鹿素行とか、そういうものと君自身がものを書いている上で、どんな風に繋がっているのかね。非常に興味がある。これは読者としての興味だがね。

小林

そういうことに興味を有ってくれるのは有難いがね。これは自然なんだ。僕は、つまり歴史がね、精しくなったのだよ。この頃自然とね。いろいろの例を挙げる場合に、どうしても日本人の言葉のほうが僕には能く解る。能く解るし、僕は、その方がね、何というのかな、云い易くなって来たのだね段々……。

 

つまり、小林秀雄という批評家の文章に親しんできた一読者、それはフランス、ロシアの文学を批評の背景と対象として来た書き手として小林秀雄を把握してきた読者、としての立場からの素朴な疑問を窪川はそれとなく示しているわけだが、ここでも小林は自らの日本史、日本文化への指向性を自覚的に語っているのである。

この座談会ではこれ以上の具体的な日本史、日本文化への話題は提出されず、いわば歴史の問題を各自がどのように書いていくかというところで終了してしまうが、この座談会が掲載された『文藝』に、長谷川如是閑と折口信夫の対談「日本の古典」が掲げられてあることは、隣接する事象として注意して置いても良いであろう。先の座談会のメンバーも、そして小林も、自分たちの座談会とともに同じ号に掲載されたこの対談には注目せずにはいられなかったはずである。

対談「日本の古典」は『文藝』昭和16年1月号の二二〇ページから二五三ページにわたる長大なもので、「新万葉集」へ収録された長谷川如是閑の短歌の話題から、和歌文学に関わる通史的な見通し、「古事記」、「風土記」から中古の物語文学、「源氏物語」とその前後の漢文学との関わり、「平家物語」、「太平記」、そして申楽、能から俳諧、俳句、明治文学の文体までと、ほぼ日本文学史全体を視野に収めようとするほどの充実した内容を持っている。この企画の背景を考えれば、もちろん時局的な配慮は色濃く、長谷川も日本文化の一貫性という語句を反復しているように、いわゆる「日本的なもの」への視線が多様な局面へ振り向けられたところの一事象とは言えるだろう。しかし、その企画としてのありかたはどうあれ、この対談で折口信夫は自らの日本文学観を、かなり熱を込めて語っているところが随所に見られ、長谷川が中国文化、漢文学の影響という側面へ話を向けると、対する折口は、日本から発生した特質を常に前提にしつつこれに答えるといったかたちを取っている。すなわち、この対談を読む者は、折口信夫の日本文学観の持つ求心性、あるいは折口の語り口のもつ求心力といったものへ自ずと引き寄せられるということがあるように思われる。

 

5 古典との出会いに胚胎するもの

 

さて、これまで記して来たところを振り返りつつ、昭和14~16年前後における小林秀雄に流れ込んでいた古典の意味を推察してみよう。

1、小林秀雄は昭和11年、明治大学での「日本文化史研究」講座の開講以来培ってきた日本文化、日本史への指向性を、現代文化への疑義、「現代日本文化の欠陥」という形で我が身の内に潜ませて来ていたのだろうこと。

2、昭和14年から15年の堀辰雄との交流において、折口信夫の学説を聞き知ったと思われること。

3、ほぼ同時期に、林房雄から明治維新史を手始めに、日本史全体への個性的な見方を教えられる。その関心の中で歴史学者・津田左右吉の存在が大きく、日本文学史に現れている具体的な表現の中に国民文化、国民思想を抽出しようという津田の発想への評価から、やがてその合理主義的思考の批判を展開するようになっていったこと。

4、さらにもう一つの動き、眼の動きとして押さえておきたいことがある。おそらく昭和13年から始まった骨董、焼き物への思い入れをここで見逃すわけには行かない。それは日本文化の伝統を文字通り身体的な行為、美を愛でるという実際生活上の行為の中で体得していったこと、すなわち「日本の文化の本当のギリギリの姿」をあるがままに見ようという発想につながっていくであろう。

こうした4つの文脈がせめぎ合い、重なり合いしながら日本文化の具体的な姿としての古典が見出されていったと考えられないか。そして、この奔流のただ中へ、先に触れた「文学的な直観の力」への思考と「神話の力」の根源を見極めようという意志を組み込んでみたときに、津田左右吉の日本文学史観が色褪せていくのとは逆向きに、改めて折口信夫の学説が徐々に輪郭を現わしていったのではなかろうか。またそこには、本居宣長が復古思想の宣伝家という強固な像から逸脱していこうとする兆しもほの見えるのではないだろうか。

 

注・堀辰雄と折口信夫の交流については、小谷恒『迢空・犀星・辰雄』(花曜社 昭和61年6月)所収の「Ⅲ  堀辰雄の章」、『堀辰雄と折口信夫』、『訪問 三 逗子・成宗』に詳しく記述されている。また、慶應大学での「源氏物語全講会」は慶應大学の講義科目、昭和14年は「橋姫」。(「折口信夫全集」中央公論社旧版第31巻所収、講義目録による)

なお、「文學界」等からの引用文は適宜新字新仮名遣いに改めている。

(了)