悲しみはなぜ大切なのか

謝 羽

星野道夫はアラスカを舞台に活躍した写真家、文筆家である。彼の写真がなんともいえぬ魅力をたたえていると話した友人は、話が終わると、星野の記事が載った雑誌をそのまま私に貸してくれた。

大学からの帰りの電車の中で、私はその記事を読んだ。よく晴れた五月の京王線で、平日の昼間だったので電車は比較的空いていた。風にゆれる木々の葉がまぶしく、弱冷房車にさんさんと当たる陽の光が心地よかった。

紙面はいくつかの写真とエッセイで構成されていた。確か、こんな写真があった。都会育ちの大学生はまず見たこともない、ごつごつした雄大な山脈を背景にして、手前には鹿のような動物が点々と小さく写っている。この、鹿のような動物は、実はカリブーというアラスカに生息するトナカイの一種であり、成人男性でも角を見上げるほどの大きさである。そのカリブーが点のように見えるのだから、写真全体を見渡した時に感じるスケールの大きさは、見る人を圧倒するものがあったが、当時の私にはそこまではわからなかった。エッセイには、星野の友人Tが山で遭難したときのことが書かれていた。その事件がきっかけとなり、優秀な大学生だった星野青年は、アラスカの自然を撮って生きていこうと、写真の勉強を始めるのである。

 

今考えるとその出来事は自分の青春に一つのピリオドを打ったように思う。ぼくはTの死からひたすら確かな結論を捜していた。それが摑めないと前に進めなかった。一年が経ち、あるとき、ふっとその答えが見つかった。何でもないことだった。「好きなことをやっていこう」という強い思いだった。Tの死は、めぐりめぐって、今生きているという実感をぼくに与えてくれた。

(星野道夫『旅をする木』「歳月」より)

 

この短い一節に、私はすっかり引き込まれてしまった。「好きなことをやっていこう」という文字が、真っ白な紙面から浮かび上がっているように見えた。傘が用をなさない台風の日の雨のように、透明な涙が頰を滑り落ちてぽたぽたと雑誌を濡らした。

当時私は、星野が人生を決めた年齢にさしかかっていた。苦労して入った理科系の大学の学問にうまく馴染めず、就職をするにも気が進まずに悩んでいた。自分は「好きなこと」ではなく「できること」をやってきただけなのではないか、という問いを持ったことの意味は大きかった。

しかし、果たしてそれだけであろうか。なぜあの時、時が止まったと感じるほど感動したのだろう。今でも星野の写真や文章に触れると、泣きそうになる。あのとき頭の上を幾度もかすめた暖かい木漏れ日の山吹色は、もっと心の深いところを照らしたような気がするのである。

 

 

「もののあはれを知るためには、どうしたらいいのでしょうか」

「歌を詠むことです」

小林秀雄『本居宣長』のなかで、本居宣長は『源氏物語』を評して「もののあはれを知るよりほかになし」と言い切っている。「もののあはれを知る」とは、どういうことだろうか。それを、自分自身の体で感じてみたかった。「小林秀雄に学ぶ塾」池田塾頭によると、それが「歌を詠む」ということで叶うらしい。塾頭の言葉に誘われるまま、私は歌の世界に飛び込んだ。

「歌は詠んだことがありません。一体どうやって歌を作ればよいのでしょうか」

「まずは言いたいことをとにかく五・七・五・七・七にしてみること」

そう聞いて、はじめて詠んだのが以下の歌である。

 

始まりに ときめき立ちて 通勤時 駅まで駆ける 今日の朝かな

 

あまりの下手さに戸惑っているが、これは二〇一三年八月の作品である。思えば手本として「古今和歌集」を読むように、と勧められていた。そうして「古今和歌集」の写本を始めた。

 

まどろみて 夢もうつつも 忘れけり ただよう静けさ 朝陽に満ちて

 

これは、塾での歌会に出した作品である。先ほどの歌と違って、かろうじて目を開けて読める歌である。やはり、何事も手本がなければいけないのだと思い知った。

歌会では皆でお互いの歌の添削をするのだが、参加者全員が詠歌になじみがなかったため、初回は塾頭がいろいろとお話された。私の作品は、最後の句が「朝陽に・満ちて」となり「四字・三字」の区切りとなっているが、「三字・四字」の組み合わせのほうが座りがよいと指摘があった。塾頭の修整案は以下の通りである。

 

まどろみて 夢もうつつも 忘れけり ただよう静けさ 朝陽満ちたり

 

ほんの少し変えただけで、これで歌として完成した感じがある。はじめて好きになれた歌であった。

また歌会では「本歌取り」を推奨していた。これは、「古今和歌集」をはじめとした、お手本になるような歌集の一句ないし二句をとって歌を作るという手法で、平安の歌人たちもこの方法で、修練を積んでいたようである。私は手始めに以下のような歌を詠んだ。

 

茜さす 紫雪の 花ひらく 春を思わぬ ひとときの夢

 

〔本歌〕茜さす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る

(「萬葉集」 巻一 額田王)

 

これは、二〇一四年二月の作品である。この歌は、「本歌取り」によっていかに歌が「歌らしく」なるか、という例として塾でご紹介いただいた。本歌取りする前の歌が粗末なだけに比べるべくもないので悪い汗をかいたが、確かに下の句は本歌の力を借りなければ考え出すことができなかったように思う。千年生きながらえて来た歌の言葉が、七・七の十四文字を連れて来てくれたような気がしている。私はすっかり本歌取りに夢中になり、続いて以下のような歌も詠んだ。

 

静けさに 春や昔の 夢のやう 花散る海に 凪ぐ光かな

 

〔本歌〕月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして

(「古今和歌集」 巻第十五 恋五 在原業平)

 

本歌取りには、好きな歌の一部を自分の歌にできるという喜びがあり、読むだけでなく、別の歌を作ることで、一首の歌の世界をより深く知ることができるという楽しみがある。

 

あるとき、私はひどい失恋をした。相手は星野道夫の写真展で知り合ったひとで、彼が旅した世界各地の話を聞くのが好きだった。いつか彼と一緒に、アラスカを旅することを私は夢に見ていた。しかしもうそれは叶わない。

私は歌を詠むことにした。

「本居宣長」の、以下のような言葉を思い出したからである。

 

詠歌の第一義は、心をしづめて、妄念をやむるにあり。その心をしづむると云事が、しにくきもの也。いかに心をしづめんと思ひても、とかく妄念がおこりて、心が散乱するなり。それをしづめるに、大口訣あり。まづ妄念をしりぞけて後に、案ぜんとすれば、いつまでも、その妄念はやむ事なき也。妄念やまざれば、歌は出来ぬなり。されば、その大口訣とは、心散乱して、妄念きそひおこりたる中に、まづこれをしづむる事をば、さしおきて、そのよ(詠)まむと思う歌の題などに、心をつけ、或は趣向のよりどころ、辞のはし、縁語などにても、少しにても、手がかりいできなば、それをはし(端)として、とりはなさぬやうに、心のうちに、う(浮)かめ置て、とかくして、思ひ案ずれば、おのづからこれへ心がとどまりて、次第に妄想妄念はしりぞきゆきて、心しづまり、よく案じらるるもの也。

<新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.256より。原文はカタカナ>

 

心をしずめるためには、しずめようと思うのではなく、歌を詠もうとすることだ、と宣長さんは教えてくれていた。その言葉を頼りに、祈るような思いで私は歌に取り組んだ。わずかな言葉の欠片を見つけては、それを歌の形にする別の言葉を、思いつく限り挙げて組み合わせてみる、ということを繰り返した。

ある晩、アラスカの夢を見た。夢から覚めても、景色をよく覚えていたので、それを歌にしようと試みた。

 

こころより 深き空かな ふりおちる 紅葉の光る 極北の青

 

雲ひとつない深い色の空から、楓の紅葉のような真っ赤な色の小さな葉が次々と降ってくるという夢だった。葉は光を浴びて美しかった。どこにも木はなかったが、真っ青な空から紅葉が次々に降ってくることは止めようがなかった。そんな夢だった。わたしの心はそれに近いと思った。

あまりに印象的だったのでどうしても歌にしたかったのだが、三十一字で納得がいくほどには表現しきれず、失敗作となった。私はこの情景を歌にすることを断念し、夢から覚めたあとの心境を詠むことにした。今度はどこかからするすると歌が降りて来た。

 

かなしみの かけゆく淡き 裾さへも ふれ得ぬ夢の 散るあさぼらけ

 

この歌を詠むことができたとき、星野道夫の文章にはじめて出会ったときのことを、私は思い出した。詩人や歌人に倣い、悲しみを歌に詠んでみるという体験を通して、私は星野のことを前より少しだけ理解したように思った。星野にとって、友人を失った悲しみは、とても大切なものだったのである。悲しみを大切にできる心をもつからこそ、星野の写真や言葉は、アラスカのことを知らない人の心をも動かすのではないだろうか。わたしたちは忘れるためではなく、覚えているために歌うのだろう。わたしたちが悲しいのは、対象を愛しているからである。

 

さめざめと 心の果ても なくなれば 道をゆかばや 足音ぞする

(了)