数式を詠む

村上 哲

数式を詠む、と書くと、違和感のある人が多いかもしれない。だが、数式をよむ、と言えば、それほどおかしな用法とは思われないだろう。では、数式をよむとは、いったい何をしているのだろうか。

 

私は、自分で数学者を名乗れるほど、その深みへ潜った事があるわけではない。ただ、人より少しは多くの手間を、かのものとの交わりに費やしてきた。その交わりの基本となっているものが、数式をよむという行いである事は、間違いのない事だと思う。

 

さて、数学者と言った時、あなたはそこに、どんな姿を想像するだろうか。何か小難しい数式や図の並んだ本を、黙々と読む。あるいは、中空を眺めて思索にふける。かと思えば、黒板や計算用紙に数式や図形を書き殴り、それを一人で、あるいは複数人集まって、延々と睨み付ける。一般的なイメージを挙げるとすれば、こんなところだろう。

それらは概ね、間違いではない。そこに、あてもなく散歩する事を付け加えれば、おおよそ、数学者の生態を言い当てているとすら言えるだろう。では、なにが、彼らにそのような姿をとらせているのか。この姿の中で、彼らは何を行っているのか。この点については、数学になじみのない人にとって、なかなか想像の及び難いところだと思う。

だが、彼らはそこで、何か特別な事を行っているわけではない。いや、注意深く見るならば、確かにそれは神秘的な行いではあるが、しかし同時に、誰もがやっている事でもある。違いがあるとすれば、その行い、その手段に、深く習熟しているという事だ。

では、その手段とはいったい何か。それは、数式を書くという行いだ。

 

数式を書く、という言葉で、何か特別な事を言っているわけではない。強いて言うならば、指を折って計算したりするといったような、数学を行う上で伴う行動全般を指したいという意味で広い言い方ではあるが、少なくとも、数学者特有の、何か特別な行為を指しているわけではない。「1+1」と書く事を、普通、特別な行為とは言わないだろう。この行いが特別となるのは、むしろ、その行いに習熟を深めた者にとってこそだ。

では、数式を書くという行いに習熟を深めていくと、どうなるのか。

例えば、計算をする時、計算用紙に数式や図を書くという行いを、何度も、何年も続けたとしよう。すると、始めてから間もないうちに、頭の中に計算用紙が出来上がり、目の前に計算用紙がなくとも、頭の中の計算用紙に、数式や図を書き込めるようになるだろう。ただ、初めのうちは、書きこんだ図も数式も、朧で心もとないものに過ぎず、正確な計算のためには、手元に計算用紙がほしくなるに違いない。

さて、そこからさらに、何度も数式や図を書いていくと、どうなるか。当然、頭の中に書きこむ事のできる図や数式の姿は、より鮮明なものになっていき、より正確に、より複雑な計算ができるようになっていく。そうしてまた、その一方で、頭の中に式を書き取った瞬間、反射的に計算結果が書き出されるような、段階を踏まない直通経路が現れてくる。

これは、誰にでも覚えのある感覚だと思う。計算用紙とは少し違うが、一桁の掛け算をする時、頭の中で九九の歌を歌って思い出すという人は、多いだろう。だが、何度も繰り返すうち、九九の歌を介する事なく、直接計算できるようになったものが、あるのではないだろうか。

これらはどちらも暗算と呼ばれるものだが、一口に頭の中で計算したと言っても、明らかに違う経路が現れてくるのは、不思議な事だ。計算過程が省略されただけと言う人もいるかもしれないが、私には、そんな単純な話で済ませる気にはなれない。この二つの計算は、どちらも、私の意識の上で起こった出来事だからだ。むしろ、計算過程が省略できるようになったとは、いったいどういう事なのか。そこで、いったい何が起こったのか。そこにこそ、注目すべきものがある。これこそが、ものを知るという、心の、そして言葉の働きなのではないだろうか。

だが、今はこれ以上、ここに踏み込むのは止めておこう。円の中心に円はない。早急に事を進めれば、確実に見失ってしまう、そういう性質のものが、ここにはある。

 

さて、話を戻そう。数式を書くという行いに習熟した人は、頭の中で、現実と遜色のない、とは言わずとも、独特の手触りを持って、数式を書く事ができるようになる。ここにいたり、数字や数式や幾何的図形は、それが指し示す個別のものや意味を思い出すための媒介としてだけではなく、全てを含んでなお、それがそれそのものとして自足する姿、こちらが要求する以上のものを持つ形として現れてくる。空想ではなく実感を持って想像できる、と言った方が、わかりやすいだろうか。

ともかく、数式というものを、ただ思い浮かべるのではなく、実感と共に書き取る事ができるようになった時、数式をよむという行いは、少々、趣が異なったものとなる。いや、趣が深まる、と言った方が、正確かもしれない。やっている事自体は、やはり、変わってはいないのだから。

どうか、持って回った言い方になる事を、許してもらいたい。結論は単純だが、その単純さゆえに、見過ごされてしまう。その微妙なところに、この道を楽しむ源泉がある。

数式を書き取れるようになった人が、数式をよむと、どうなるか。実のところ、この言い方は、正確ではないだろう。数式を書き取れるようになった時、初めて人は、数式をよむ事ができるようになるのだ。数式をよむ事ができる人と、数式を見る事しかできない人の違いが、ここにある。そして、数式をよもうと努力する人にとって、もはや数式だけが数式ではなく、あらゆるものが数式となりうる。

 

誤解がないよう言っておきたいが、数式をまったくよめない人なんてものは、存在しない。それはもはや、自分と他人の区別がつかない事と同義であるからだ。ここでよむ事ができると言っているのは、どの程度までよむ事ができるかという事であり、さらに言えば、どこまでよもうとする事ができるか、すなわち、どこまで数式というものの表現性を信じられるか、どこまで数学を信じられるかというところにある。

これは決して、数式によりあらゆるものを表現できると妄信する事ではない。そうではなくて、数式という表現に託してこそ現れてくる世界、その世界の自立性を信じ、同じく数式の表現性に育てられた者ならば、きっとそこで響き合えると、そう信じる事だ。

 

こう言ってしまうと、数式をよむという行いに抽象的な印象を与えてしまうかもしれない。しかし、繰り返しになるが、この行いはこの上もなく身近で、誰の身の上においても行われている事なのだ。買い物をする時、時計を見る時、歩いたり階段を昇る時、当たり前のように、人は数式をよんでいる。

これは、よく知った歌が流れていると鼻歌を合わせたくなったり、ギターがうなり声を上げているとこちらもエアギターをかき鳴らしたくなったり、お茶碗を手に取った時にその縁を指でなぞったりする事と、まったく同じ事だ。ここまで数式をよむとか数式を書くとか言ってきたのは、まさにこういう事であり、小難しい問題を解くというような事を言ってきたのではない。

数学の道を歩む人とそうでない人に違いを求めるとするならば、それは、こういった当たり前の行いを注意深く自覚し、まっすぐに受け止め、改めて驚く事ができるという、まさにこの点においてであり、この点においてのみであろう。

 

ここまで言えば、冒頭に書いた、「数式を詠む」という行いの姿を、見取ってもらえるのではないかと思う。「詠む」とは、「言を永める」、すなわち、言葉にある程度の時間を持たせるという事だ。それは何も、特別な事ではない。「1+1」を指でなぞる、いや、ただ見るだけでも、「数式を詠む」という行いは、現れてくる。あとは、そこから目をそらさなければ、数学の世界を歩む道は、誰にでも見えてくるはずだ。

数学者は、誰よりもその事を信じている。だから、彼らにとって、本を読む事も、中空を見つめる事も、当てもなく散歩に出る事も、本質的な相違はない。だが彼らは、そこから目をそらさない事の難しさもまた、知っている。だからこそ、彼らは数式を現に書き出し、それをじっと眺めるのだ。

そこにはいつも、自分が思うより以上の姿が映し出されている。

 

 

数式を詠む、と題した話は、ここまででひとまずの結びとしたい。曲折の多い書き様となってしまったが、これは、目的地を定めず書いたが故の、いや、目的地を定めてはならないと信じて書いたが故のものであり、意図したわけではないが、必然のものではあったと思う。

こうして書き上げてみた今、この話はどこかへ辿り着いたのではなく、その出発点へ帰ってきたのだと、痛切に感じている。だから、と言うわけではないが、ここからは、この話が書かれた背景について、話したいと思う。結び目の余り糸のようなものなので、どうか気を抜いて聞いてもらいたい。

 

数式を詠む。

この言葉は、言うまでもなく「歌を詠む」をもじった言葉であり、別段きまった言い回しというわけではない―すでにあったとしても私は不思議に思わないが。

もともと、和歌を詠むようになってからというもの、詩歌と数学の共通性について漠然と感じるところがあり、今回書く機会を頂いた事を機に、もう少し深く潜ってみようとしたのが、この話の発端である。

実際、今回の話で、「数式」を「歌」あるいは「言葉」、「書く」を「詠う」というように少しずつ読みかえていけば、全てとは言わずとも、多くはそのまま、歌についての話として成り立つのではないだろうか。そんな事は意図しなかった、とは言わないが、少なくとも書いている間、そんな事を意識する余裕など、私にはなかった。ただ、そうなるのではないかと、信じてはいたと思う。

では、もう少し具体的に、どこへ注目したのか。もちろん、形式の重要性という、詩歌と数学の最も大きな類似点は、見過ごせない。しかし今回、あまりそこに執着するつもりにはなれなかった。というのも、形式は確かに重要であるが、それは言葉や数式に対する深い信頼と洞察の結果であり、器ではあっても、源ではないように思われたからだ。

無論、形式を蔑ろにして良いわけではない。器があるからこそ人の感性は形を持つ事ができるのであり、よくできた器を作る事こそが、詩歌や数学を信ずる者の、最大の悲願と言っても良いだろう。だがそれは、やはり悲願であり、すでに信ずる道を持つ者の、行き着く先なのだ。

では、この信ずる道を、彼らは如何にして楽しんでいるのか。そこに注目しようとしたのが、今回の話だ。この楽しむという点に、疑問の余地はない。どれほど苦海の底にいようと、数学者と歌人は、自らの信ずる道を楽しんでいる。この確信こそが、私に今回の話を書かせたと言っても、過言ではないだろう。

この点において、今回焦点を向けた「よむ」という行いは、存分に特筆すべきものであったと思う。自分の絶対性を信ずれば能動的にもなり、相手の絶対性を信ずれば受動的にもなるこの行いは、数学者と歌人が彼らの信ずる手段と身をかわす上で、絶対の、そして唯一の手段だからだ。

それから、最後にもう一つ、書き進める中で思った事がある。それは、彼らの孤独だ。

歌人にせよ、数学者にせよ、彼らは自らの信じる手段を頼みに、自らの感性を育て、磨き上げる。しかし、いよいよ鋭敏になった感性は、決して彼らを、周囲の人々と混ぜ合わせる事はない。果てしなく深まった自覚は、自分はまさに他の誰でもないという事を、彼らに突き付けるだろう。

しかし、あるいはだからこそ、歌人は歌い、数学者は数式を書き出すのかもしれない。彼らの感性が彼らの信ずる手段に育てられたものである以上、それがどれほど鋭敏な感性であっても、彼らが信じてきた手段に、託する事はできるはずだ。

 

および折り 一二三数ふる 吾が身こそ 一つと見ゆる 吾が身なりけり

(了)