ブラームスの勇気

杉本 圭司

小林秀雄は、批評家になろうとして批評家となった人ではなかった。小説家になることを夢見て文章を書き出した人であった。そのことを、彼は折に触れて書き、また語ってきたが、二十七歳で批評家として文壇に登場した翌年の暮れ、「時事新報」に発表した「感想」という一文に、すでに次のように書いている。

 

私は嘗て批評で身を立てようなどとは夢にも思った事がない、今でも思ってはいない。文芸批評というものがそんなに立派な仕事だとは到底信ずる事は私には出来ぬ。小説を書いても目下まず碌なやつは出来上らない。どうせ、恥を曝すのなら文芸批評でもやってた方が景気がよくていい。第一批評なら世間知らずでも出来る。理屈を間違わぬ様に云う位の芸当なら若年者で沢山だ。

 

学生時代、ボードレールやヴァレリーをはじめとするフランスのサンボリストたちの批評文学に心を奪われた彼が、批評とは「理屈を間違わぬ様に云う位の芸当」と心得ていた訳では無論ないが、小説を書くという望みを抱きながら書けないという壁を感じていたという意味で、これは当時の小林秀雄の偽らぬ心情の吐露であった。この一文は、「毎月雑誌に、身勝手な感想文を少し許り理屈ぽく並べ並べして来ている内に、いつの間にか批評家という事になって了った。批評家などと厭な名称である」と書き出されている。ここで小林秀雄が、立派な仕事だとは到底信じることはできないと言った「文芸批評」とは、直接には、その年の四月から『文藝春秋』に連載し始めた文芸時評を指していた。彼はその頃、「俺はもう暫く月評で暴れ廻ったら、あと誰が何といっても黙って、小説を書いてるんだ」とも言っていたという(河上徹太郎「小林秀雄」)。

小林秀雄の処女小説は、旧制一高に入学した翌年の大正十一年十一月、二十歳の時に同人誌に発表した「蛸の自殺」とされる。その処女小説を、彼は伝手を頼って敬愛する志賀直哉へ送った。するとこの「小説の神様」から、彼の小説を褒める手紙が届いた。それを読んだ小林秀雄は、これはもう、小説家になれるなと思ったそうである。これは後に、志賀直哉を前に自ら語ったところである(「志賀さんを囲んで」)。

その後、小林秀雄は同人誌に数篇の小説を発表した。だが大正十四年、中原中也、長谷川泰子と出会い、やがて「奇怪な三角関係」が生じることとなる二十三歳の春を境に、小説を発表しなくなり、批評を書き始めた。その「根本理由」を、戦後、彼は坂口安吾を相手に次のように語ったことがあった。

 

僕らは現実をどういう角度からどういう形式でもって眺めたらいいか判らなかった。そういう青年期を過して来た。僕なんかが小説が書けなくなった、その根本理由は、人生観の形式を喪ったということだったらしい。例えば恋愛をすると、滅茶々々になっちゃったんだよ。こんな滅茶々々な恋愛は小説にならねえから、あたしァ諦めたんだよ。諦めてね、もっとやさしい道を進んだ―のか何だか判らないけど、もっと抽象的な批評的な道を進んだのだよ。抽象的批評的言辞が具体的描写的言辞よりリアリティが果して劣るものかどうか。そういう実験にとりかかったんだよ。(「伝統と反逆」)

 

しかし「小説が書きたい」という願いは、自ら懸賞評論に応募してデビューし、世間から「批評家」と呼ばれるようになってからも、彼の胸中に長い間居座り続け、それは批評家としての成功と容易に引き換えられるものではなかったのである。彼は、その思いを直接告白したことはなかったが、「小説が書きたい」という願いがどれ程のものであったのかは、たとえば昭和三十四年の秋に放送されたラジオ放送(「文壇よもやま話」)の中で、今でも小説を書く気はあるかと問われたのに対し、小説を書くというのは芸であるから、さてやってみようと思って書けるものではないと保留しつつ、それでも書きたいという気持ちは今でも時々起きると答えているところに垣間見える。この時、彼は五十七歳であった。

「様々なる意匠」で、小林秀雄は、「批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」と啖呵を切った。『文藝春秋』で始めた文芸時評の第二回では、批評とは「他人の作品をダシに使って自己を語る」ことだとも言い放った。小林秀雄の批評文学の本質を自ら衝いた名台詞として後々まで引用されることになる、言わばとしての言葉を威勢よく吐きながら、当時の彼が、そのレーゾン・デートルそのものに深い疑念を抱いていたことは忘れてはならないだろう。先に引用した「感想」の最後は、次のような呟きで終えられていた。

 

人を賞めても、くさしてもあと口はよくないものである。批評は己れを語るものだ、創作だ、などと言ってみるが、所詮得心のいくものじゃない。あと口をよくしようなどとは思わぬ、今によくなるだろうとも思わぬ。人の事を兎や角言う事がそもそもつまらん事なのだ。

どうなる事やら。

 

その小林秀雄が、ついに批評家としての「自分の野心」を自ら明かし、「僕は今はじめて批評文に於いて、ものを創り出す喜びを感じている」と言明したのは、「様々なる意匠」によって世に出た六年後、最初の長編評論となる「ドストエフスキイの生活」の連載を開始した二ヶ月後のことであった(「再び文芸時評に就いて」)。

彼は言う―もし作家が自らの思想を人に訊ねられたら、その作品を示すだろう、では批評家がその思想を示せと言われたら、その批評作品を示すべきではないか。作家がその思想を獲得するために、世間を観察するだけでは足りず、自分の身を世間の、あるいは自らの実験材料に供するように、批評家もまた、ある論理に自分の身がどの程度まで、どんな風に堪えられるかを、批評家自ら材料となって実験しなければならぬ。その実験の果てに現れて来るのが、「批評精神の積極性」ともいうべきものである、と。そして二ヶ月前に開始した自らの「実験」について、次のように語るのだ。

 

僕がドストエフスキイの長編評論を企図したのは、文芸時評を軽蔑した為でもなければ、その煩に堪えかねて、古典の研究にいそしむという様なしゃれた余裕からでもない。作家が人間典型を創造する様に、僕もこの作家の像を手ずから創り上げたくてたまらなくなったからだ。誰の像でもない自分の像を。僕にも借りものではない思想が編みだせるなら、それが一番いい方法だと信じたが為だ。僕は手ぶらでぶつかる。つまり自分の身を実験してくれる人には、近代的問題が錯交して、殆ど文学史上空前の謎を織りなしている観があるこの作者が一番好都合だと信じたが為である。無論己れの教養のほども省みず、こういう仕事に取り附く事の無謀さはよく分っているが、僕等に円熟した仕事を許す社会の条件や批評の伝統が周囲に無い事を思う時、僕は自分の成長にとって露骨に利益を齎すと信ずる冒険を喜んで敢えてするのだ。駄目かも知れぬがやってみる。どんな人間を描き出すか自分にもわからないが、どんな顔をでっち上げたとしても、僕が現代人である限り、人々に理解出来ぬものが出来上る気づかいはない。それで僕には沢山だ、果して乱暴な批評家か。それとも何かもっとうまい理屈でもあるというのか。うまい理屈には飽き飽きした。僕は今はじめて批評文に於いて、ものを創り出す喜びを感じているのである。(「再び文芸時評に就いて」)

 

後に坂口安吾に向かって語られた、「抽象的批評的言辞が具体的描写的言辞よりリアリティが果して劣るものかどうか。そういう実験にとりかかった」という、その「実験」が、ここに開始されたのである。それはまた、この評伝作品と並行して、その少し前に着手されていた一連のドストエフスキー作品論をも含むものであった。

「ドストエフスキイの生活」の連載が開始されたのは昭和十年一月であるが、その二年半前、三十歳となった小林秀雄は、「今度こそは本当に彼(ドストエフスキー)を理解しなければならぬ時が来たらしい」という予言めいた言葉を述べている(「現代文学の不安」)。半年後の昭和八年一月、この作家に関する最初の論文となる「『永遠の良人』」を発表し、同年十二月には二つ目の論考である「『未成年』の独創性について」を発表した。そして翌月、「僕は今ドストエフスキイの全作を読みかえそうと思っている」(「文学界の混乱」)との宣言とともに、「『罪と罰』について Ⅰ」の連載を開始し(昭和九年二、五、七月)、それが終るとすぐさま「『白痴』について Ⅰ」の連載に取り掛かった(昭和九年九、十、十二月、昭和十年五、七月)。

最初の本格的なドストエフスキー作品論となった「『罪と罰』について Ⅰ」の最終回初出末尾には、連載中にこの論考を揶揄した大宅壮一に向けた「附記」があるが、その中で、小林秀雄は、「今僕にはドストエフスキイという人物で自分の批評能力をためしてみるという事だけで一杯なのだ」と書いている。ドストエフスキーを言わば金床として行われた、批評能力の鍛錬としての「実験」は、以後、「本居宣長」の擱筆まで四十年以上続くことになる「やってみなくては成功するかしないか見当のつき兼ねる企て」(「本居宣長」第一回)の始まりであったと同時に、「小説が書きたい」という願いを捨て、彼が批評家として生きる道を見定めたということでもあった。小林秀雄が執筆した最後の小説は「Xへの手紙」である。「中央公論」の創作欄に掲載されながら、もはや限りなく批評的告白文に近いこの作品は、「『永遠の良人』」によってドストエフスキー探求の口火が切られる二ヶ月前の昭和七年十月に発表されている。以後、彼が小説を発表することはなかった。そして二年間にわたる「ドストエフスキイの生活」の連載を終えた二ヶ月後、小林秀雄は、嘗て小説家になるという夢を託して処女小説を送った志賀直哉に向けて、次のような手紙を書き送った。

 

僕はこの頃やつと自分の仕事を疑はぬ信念を得ました。やつぱり小説が書きたいといふ助平根性を捨てる事が出来ました。

 

「自分の仕事」とは、批評という仕事であった。この時、小林秀雄は、「小説が書きたいといふ助平根性」を確かに捨てた。だがその彼が、これと引き換えに抱いたもう一つの「助平根性」、すなわち批評という方法によって「僕にも借りものではない思想が編みだせる」という野心を捨て切るまでには、さらに四半世紀以上の時間を必要としたのである。

(つづく)