主観と客観について

有馬 雄祐

初めて小林秀雄さんの文章に触れたとき、本質を射抜く言葉の数々に驚いた。その驚きは、小林さんの作品集を少しずつ読み進めている今も変わらない。小林さんの批評文は鋭い、その鋭さに読みながら僕はしばしばハッとなる。小林さんの言葉は、どうして心に刺さるのか。それは、小林さんが常に主観で物を言っているからだと思う。心で感じたことが真っすぐに言葉に込められているからだと思う。作品と向き合う際に小林さんは、通念とか、知識だとか、客観を装うようなものに惑わされることなく、自分の心の動きを何よりも大切になさっていたのではないだろうか。小林さんの、作品と向き合うそうした態度は、批評の秘訣を明かした言葉としても有名な、次の一文からも窺い知ることができる。

 

物指で何かを計ればその何かは何でも物指の結果になる事は必定である。人は芸術的問題の決定に於いて、批評とは物指を使うだけでは足りないという事を考えるべきである。批評するとは自己を語る事である。他人の作品をダシに使って自己を語る事である。(「アシルと亀の子Ⅱ」、『小林秀雄全作品』第1集所収)

 

自己を語る事、それは、主観を語る事と言い換えてもよいだろう。小林さんは常に主観を語る。とは言え、そうやって語られた自己が小林さんの場合、人間性の普遍とでも呼びたくなるようなものに触れている。だから、小林さんの言葉はいつも僕の心を動かすのだろう。小林さんの批評文は主観的であると同時に、科学的であると評したくなるような客観性をも併せ持っている。主観に貫かれた客観性、そうした魅力が、小林さんの文章が時代を越えて読み継がれる端的な理由であるに違いないと思うし、そこに、小林さんの批評の芸術性があるのだと思う。小林さんの語る自己は単なる印象批評とは別ものだ。なのだけれど、それでも引用した言葉がそう告げている通り、「自己を語る事」が小林さんにとっては批評する事に他ならなかったのだと思う。小林さんの文章からは、読んでいると声が聞こえてくるような感じがする。

 

批評に対する小林さんのこの姿勢は、批評家としてのデビュー作『様々なる意匠』(同第1集所収)を書いた若い頃から、『本居宣長』(同第27・28集所収)という晩年の著作に至るまで全く変わりがないということを、作品集を読み進めながら改めて感じている。どうして小林さんは、自己を語るという批評の道を一度たりとも踏み外さなかったのか。それは、主観と客観というものの関係についての、一貫した認識があったからではないかと思う。どういう認識か。主観というものは、客観ではけっして捉えきれないという認識だ。物指ではけっして、人間というものは測り得ないという認識である。小林さんの批評の礎には、主観と客観の関係に対するそうした確たる信念があったのではないだろうか。ここではだから、小林さんの批評の態度に通ずるような、そうした主観と客観の関係についての話がしてみたい。

 

主観と客観の関係、それは現代においてはクオリアという言葉によって議論される問題でもある。客観的には捉えがたい経験の主観的な側面を意味する概念がクオリアだ。「小林秀雄に学ぶ塾」の発起人である茂木健一郎さんが提唱し続けている概念でもある。有名な議論は多々あるが、ここではアンリ・ベルグソンという哲学者による「時間」についての思索に触れながら、主観と客観の関係について述べてみたい。ベルグソンは意識と呼ばれている人間の主観的経験について深く考え抜いた哲学者である。小林さんが最も敬愛なさった哲学者でもある。小林さんは、生きた時代からしてクオリアという言葉は知らなかったはずだ。しかし、ベルグソンを通して間違いなくクオリアの問題に触れている。『意識に直接与えられたものについての試論』という処女作において、ベルグソンは次のような思考実験を述べている。僕のアレンジしたものだが、オリジナルは本文後の補足に引いておいた。

 

時間を操るデーモンが現れて、「時間よ、進め!」と、自然現象が二倍速く進む時の魔法を唱えた。全ての自然現象が二倍速で進み始める。すると、その世界に身を置く私は、自然現象が速く進んでいることを感じ、また時計の針も速く進んでいるような感じがして、「一時間」と呼ばれる時間が短く感じられる。こうした時間の変化は、好きな本を読むにしても、また退屈な話を聞くにせよ、いずれの経験においても私にとっては大問題である。デーモンの時の魔法は私の主観的な経験に確かな変化をもたらした。ところが、不思議なことに、こうした時の魔法を物理学者は一向に気に掛けていないようだ。というのも、物理学の方程式には何らの修正も不要であるとのことらしい。方程式は自然現象を記述しているはずだというのに。時の魔法は客観的な時間、方程式の中のtという記号には影響せず、物理学が扱う時間をいくら調べてみても、私にとって大事な時間の質に関わる問題は何処にも顔を出さない。時の魔法によって、私は一時間という時間に確かな変化を感じる、けれども客観的な一時間は一時間のままである。客観的な時間というものには、私にとって大切な何かが欠けてしまっているようだ。(補足を参照)

 

これは、時計が測る客観的な時間が、私たちが感じている主観的な時間とは異なるという事実について述べた思考実験だ。同じ「一時間」であっても、自分が好きな事をしている時間と退屈な時間では感じる時間の長さは異なる。それは経験的事実であると言えるが、例えばまた、物事に集中している時などに、ふっと時計に目をやる。すると、「もう、こんな時間か」と感じる場合があるが、これも時計の針が刻む時間と、感じられる時間の食い違いから漏れ出た言葉であると言える。このように、私たちが時間と呼んでいるものには、実は、時計で測られたものと、感じられるものとの二つがあるわけだ。客観的な時間と主観的な時間である。

これを書きながら、読み進めている作品集で今さっき出会った小林さんの言葉も引いて置く。

 

放心している時の時間は早く、期待している時の時間は長い、そういう簡単な僕等の日常経験にも既に時間と言うものの謎は溢れているのであって、心理的錯覚という様なものでは到底説明が附かぬ。錯覚に落入るまいとすれば、僕等には放心も期待も不可能となるだろう。錯覚があるとするなら、放心や期待そのものが錯覚であろう。だが、この錯覚が疑いもなく確実な処に、時間の発明者たる僕等の時間に関する智慧がある。(「ドストエフスキイの生活」、『小林秀雄全作品』第11集所収)

 

時計の針が指し示さない時間というものはある。経験されているのは、自然の側のものではない生命である僕等の発明した、生きられた時間だ。

 

それでは、客観的な時間と主観的な時間のどちらが本物か。そうした問いもあり得るが、ここでは真偽の定義を争うようなそうした話はせず、ただ、「客観によっては捉え切れない主観がある」という事実についての話がしたい。それが、小林さんの批評を根底において支えている認識論であると思うからだ。小林さんは客観的事実のみから作品を理解するといった、学者が陥りがちな客観的な方法をキッパリと否定なさるが、そうした態度に通じる話がしたい。

 

楽しい時間と退屈な時間の質的な違いを時計は捉えきれないわけだが、では何故、客観的な時間は主観的な時間を捉えきれないのだろうか。客観的な時間は「比」であって「間隔」そのものではないからだ、とベルグソンは説明する。どういう意味か。時間が定量化されるカラクリを見てみよう。

時間というものは如何にして、数を伴う客観的な時間となるのだろうか。それは例えば、ガリレオがその原理を発明した振り子時計が時間を測るところを想像してみると分かり易い。振り子が左から右へ、そして右から左へと、一往復するのに必要な時間の間隔というものがある。これを基準にして、振り子が二往復すれば一往復するのに要する間隔の二倍の時間、三往復すれば三倍の時間、という具合に、振り子が一往復するのに要する時間の間隔との比によって時間は定量化される。三時間という量はつまり、一時間という間隔の何倍かという比の事なのだ。数を伴う定量的な時間とは、ある間隔(それは単位と呼んでもよい)に対する比の事である。

客観的な量が間隔に対する比であるという事実は、時間とは違って目に見えるから、空間的な長さというもので考えるともっと分かり易いかもしれない。時間の場合と同じように、物指で物の長さを測るところを想像してほしい。長さは物指の目盛によって測られるが、物指の目盛とは、例えば、一ミリといった間隔が並んだ物の事である。だから物の長さが五ミリであるとは、それが一ミリという間隔の五つ分の長さに相当するという事だ。「量は間隔との比として測られる」、それが空間・時間の定量化のカラクリだ。最も原始的な物指は、人間の手の親指と人指し指の先から先までの長さを一尺としたように、身体の大きさであろうし、太古の時計は、天体の周期的な運動であっただろう。より精緻な間隔をもつ自然現象の探求が、人類にとっての物指や時計の歴史となるわけだが、空間・時間を定量化するカラクリそのものは皆同じである。

ある基準として定めた間隔との比が、客観的な空間・時間の正体である。さて、ここで、立ち止まって考えてみて欲しい問題がある、とベルグソンは問う。その基準となっている当の間隔そのものは一体何であるかと。この間隔そのものは、客観ではけっして捉えきれない主観に相当するものであるとベルグソンは説明する。量は間隔そのものには関わらない、それは間隔に対する単なる比でしかないからだ。デーモンが時の魔法で変化させたのは時間の間隔そのものである、だから、客観的な時間はこれに関わらない。主観的に感じられる時間の質は、間隔そのものに関わるものだ。客観的な時間はこれに触れていないし、触れられもしない。

これが、最も純粋な主観と客観の関係だ。主観というものは客観的な物指では捉えきれないものなのである。

 

主観は客観では捉えきれない、現代においても議論は絶えないが、少なくとも物指や時計が測る客観的な量はそのまま経験を意味するものではない。私たちが最も信頼している時間や空間でさえそうなのだ。まして、人間の心という豊かなものが客観的な物指で測れるはずはない。ないのだけれど、色々と知識を覚えたり、また社会の要請なんかもあって、こうした主観と客観の関係を純粋なかたちで心の内に留めておくのは難しいことのように思う。時間に追われていると、時間を忘れて遊ぶ子供心を、つい忘れてしまう。

小林さんは客観を装う物指には頼らず、常に主観を語られた。そうした態度は、客観的な物指では主観はけっして捉えきれないという、ベルグソンが説いたような最も純粋な主観と客観の関係に対する確かな認識があったからではないだろうか。心を測る事の出来る唯一の物指は自分の心の他にはないという信念があったからだと僕は思う。

ただ、そうした認識があるからと言って、他者の生きた心にその唯一の物指をきちんと添わせることの難しさに変わりがあるはずもない。だから小林さんにとって自己を語る事は批評における努力に他ならず、それ故、喜びでもあったのだろう。

 

 

補足

ベルグソンは客観的な時間に対して、主観的に経験される時間を「持続」という言葉で呼びました。本文で触れたベルグソンの思索を引いて置きます。

 

これらの主要な違いを明示するために、しばらく、デカルトの邪霊よりもさらにいっそう強力な邪霊が宇宙のあらゆる運動に二倍速く進むように命じたと仮定してみよう。天文現象には、あるいは少なくとも私たちがそれらの現象を予見するのを可能にする方程式には、何の変化も生じないであろう。というのは、これらの方程式のなかでは、tという記号は、一つの持続を示すものではなく、二つの持続のあいだの関係、時間の一定数の単位、あるいは結局、一定数の同時性を示すからである。これらの同時性、これらの同時生起はやはり以前と等しい数だけ起こるわけで、ただこれらを分かつ間隔だけが減少したはずだが、しかしこれらの間隔は計算のなかには入ってこないのである。ところで、これらの間隔こそまさに生きられた持続、意識が知覚する持続である。だから、もし日の出と日の入りとのあいだで私たちのもつ持続が減少するとしたら、意識は日の短くなったことをすぐにも私たちに知らせるだろう。もちろん意識はその減少を測るわけではないし、おそらくそれを、直ちに量の変化という相の下に捉えるわけでもないだろう。けれども意識は、何らかのかたちで、その存在の普段の豊饒さが低下したこと、日の出と日の入りとのあいだでその存在がいつも実現してきた進行に変化が起きたことを確認するはずである。(アンリ・ベルグソン『時間と自由 (原題: 意識に直接与えられたものについての試論)』(岩波文庫, 中村文郎訳, p. 232)

(了)