編集後記

坂口 慶樹

今号もまた、多才な塾生の皆さんによる多様な作品の一つひとつが、輝いている。山の上の家での「自問自答」、素読会、歌会、自身の仕事を含めた実生活、そして美を求める道、それらを通じて生まれた、各稿が放つ光は多彩である。

 

「巻頭随筆」の有馬雄祐さんは、素読会の事務局を担当されている。今回は、素読対象の「物質と記憶」の著者、ベルグソンによる「時間」についての思考実験を例に挙げて、小林秀雄先生の批評の態度、人生の態度に迫る上で重要となる「主観と客観」について思索された。

 

「『本居宣長』自問自答」には、今年度、新たに入塾されたお二方、橋本明子さんと羽深成樹さんが寄稿された。

橋本さんは、「自問自答」に加えて、塾でも紹介のあった「没後10年 編集者・谷田昌平と第三の新人たち展」(於:町田市民文学館ことばらんど)で感じられたことも披露され、「よく考え、よく生きること」についての思いを新たにされた。

羽深さんは、「自問自答」の経験を通じて感得された、小林先生が言う意味での「合理的に考える事」について、普段の穏やかな語り口のままに綴られている。「論語と『やせ我慢』」(PHP研究所)という著書もおありで、今回の「自問自答」も、「論語」の中にある言葉が発端となっている。入塾後、宣長さんの人生態度に本格的に触れて「その思考の独創性、エッジの立ち具合に眼を開かされた」と、山の上の家で語っておられる姿が印象的であった。

 

今号の「もののあはれを知る」は、荻野徹さんによる「ボクもやってみた、本歌取り」。まずはその場面設定に驚かされる。一方で、本塾の歌会でも行っている本歌取りの本質が、「本居宣長」からの引用文とともに手際よく示されている。歌会常連の荻野さんらしい作品をお愉しみ頂きたい。

 

また、「美を求める心」は、三浦武さんの「野心家のヴァイオリン」。本誌2017年11月号の「女とヴァイオリン」の続編と位置づけられる。前稿が、ストラディヴァリウスという女の話だとすれば、本作は、グァルネリウスという男の話である。小林先生が、グァルネリを一番巧く使ったと言っているフーベルマンについて、その語り口の背景にあった仔細に迫る。

 

桑原ゆうさんは、「『本居宣長』自問自答」で、小林先生の「心」と「ココロ」の使い分けに注目された。作曲家としての経験も踏まえ、「事物の心の振動」という観点から、小林先生の「物事をよく感ずる心」に近づこうとしている。

先日(2017年11月4日)、桑原さん作曲による声明しょうみょう「月の光言こうごん」が、神奈川県立音楽堂で初演された。テーマは、小林先生も「私の人生観」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第17集所収)のなかで触れている明恵上人で、京都栂尾とがのおの自坊、高山寺の裏山において、深夜の坐禅を終えて戻る折に、明るく輝く月を見たという場面設定である。

 

あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月

 

明恵上人のこの歌は、一人の僧侶の「あー」という声から始まり、次第に合唱の輪が広がって、最後は約三十人の大合唱が堂内に響き渡るなか、大団円を迎える。小林先生は、前掲文のなかで、「私の非常に好きな物」として明恵上人の坐禅像図を挙げ、一面に松林が描かれ、坊様が木の股の恰好なところへチョコンと乗って坐禅を組んでいる、珠数じゅずも香炉も木の枝にぶら下っていて、小鳥が飛びかい、木鼠きねずみが遊んでいる、まことに穏やかな美しい、又異様な精神力が奥の方に隠れている様な絵である、と言われている。桑原さんも、この明恵上人の「樹上坐禅像」からインスピレーションを得たと「作曲ノート」で言っていた。

 

さて、この冬は、周期的に月が地球に最接近している時期に当たり、空気も澄んでいるため、ことさら十五夜が大きく見える。私は、桑原さんの声明を聴いた日の深夜、寝所で急に目が覚めた。朝かと思いきや、東京の自室の窓を開けると、あかあかと大きく輝く満月があった。もはや私の身体は、高山寺の鬱蒼とした木立のなかにあった。

ありがたいことに、データによれば、本誌の読者数は、刊行以来右肩上がりで増えているという。今号はもちろん、これまでの寄稿作品のすべてが、この世を明るく照らし始めているようだ。

思えば、本誌の発行人、茂木健一郎さんは、創刊号の「発刊の言葉」で、こう書かれていた。

「困難な時代の一隅を照らし出す一灯となれば幸いである」

 

小生、このたび、微力ですが、一隅を照らすお手伝いをさせて頂くことになりました。一意専心務めますので、どうぞよろしくお願いいたします。

(了)