「興」のはたらき・「観」のちから

坂口 慶樹

小林秀雄先生による「本居宣長」では、三十二章と三十三章の二章にわたり、荻生徂徠が本居宣長に与えた影響が、詳しく記されている。

その冒頭、小林先生は、こう書いている。

「この徂徠の著作の中で、詩について語ろうとして、孔子の意見を援用している箇所は、稿本に、重複を厭わず、すべて引写されている。私はこれを確かめながら、宣長がそこに、徂徠学の急所があると認め、これを是とし、これに動かされたと推定して、先ず間違いはないと思ったのである」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集、p.10)

力強い言葉だと感じた。ここに何かがあると直覚した。

一昨年、2016年の11月、塾の質問に立った私は、孔子が詩の特色としてあげている「興」と「観」を踏まえて、徂徠が「論語徴」の中で、「詩之用」として強調する「興之功」と「観之功」に関わる質問を行った。但し、その質問は、残念ながら、論点は絞り切れず、本文からも離れてしまうというように、全く要領を得ずに終わってしまった。池田塾頭からは、小林先生が注意を促している「天下ノ事、皆ナ我ニアツマル」という「観之功」に関する徂徠の言葉に集中して考えるように、という助言を頂いた。

 

そもそも、小林先生は、「詩」が教えるのは凡そ言語表現の基本であるという孔子の考えを前提に、徂徠が言うところの「興之功」を「言語は物の意味を伝える単なる道具ではない、新しい意味を生み出して行く働きである」とし、「観之功」を「物の名も、物に付した単なる記号ではない、物の姿を、心に映し出す力である」と表現されて、「そういう働きとしての言語を理解するのには、働きのうちに、入込んでみる他はあるまい」と言う。

加えて、徂徠がいう「天下」については、「人々が皆合意の下に、協力して蓄積して来た、この言語によって組織された、意味の世界の事」であり、「此の共通の基盤に、保証されているという安心がなくて、自分流に物を言って、新しい意味を打出す自由など、誰にも持てる筈はない」と言う。したがって、「天下ノ事、皆ナ我ニ萃ル」とは、そういう世界において、例えば、盛代にあっては衰世を、男性は女性のことを、平常時には乱世を知ることができるというように、言語の「観之功」という働きのおかげで、人は、自ら直面していないことであっても、我が事のように、まざまざと味識・体験できることだと言えよう。

 

私は、それから約1年間、このような意味合いでの「興・観の功」を念頭において、「本居宣長」の全文を、何度となく読み返し続けてみた。そうすると、「ながむる」という言葉を例に、その「転義」について書かれている箇所がよく目に入った。「転義」とは、言葉が新しい意味を帯びて変化していくことであり、まさに「興之功」である。早速、以下に引用してみたい。

「『三代集』(坂口注:勅撰和歌集のうちはじめの三集、『古今』『後撰』『拾遺』の各和歌集のこと)の頃まで、『ながむる』は声を長くする事、転じて、物思う事、の両様の意に使われていたが、『千載』『新古今』の頃から、意が又転じて、物を見る事だけに言われるようになった。『視』『望』と同義の『眺』の字をあてて、使っている内に、この言葉の伝統的な含みが、忘れられて了った」(同第28集、p.73)

「読者の中には、くだくだしい引用と思われる人もあるかも知れないが、それは、『ながむる』の転義につき、ここで示されている、宣長の強い興味を想像してみないからである。それは、事物につき、『物の心、事の心をしる』と言われた親身な経験をする際の、身心の動きの、まことに鮮やかな『シルシ』なのである」(同第28集、p.74)

さらに、「長息するという意味の『ながむる』が、つくづくと見る意味の『ながむる』に成長する、それがそのまま歌人が実情を知る、その知り方を現わす、と宣長は見るのである」(同第27集、p.262)

「歌人が非常な興味を以て行っているところは、いずれは、辞書の裡に閉じ込められて了う語義を、生活に向かって解放する事だ。語は、歌われ、語られる事により、歌人の心に染められ、そのココロを新たにして、生き還り、生き続ける事が出来るのである」(同第28集、p.81)

そして、小林先生は、「宣長が着目したのは、古言の本義よりもむしろその転義だったと言ってよいのである。古言は、どんな対象を新たに見附けて、どのように転義し、立直るか、その現在の生きた働きの中に、言葉の過去を映し出して見る人が、言語の伝統を、みずから味わえる人だ。そういう考えなのだ」と言うのである(同第27集、p.271)。

 

まさに宣長は、このような態度で、「興・観の功」を意識しながら「万葉」に向かい、「古今」に向かい、そして「源氏物語」へと向かって行ったのではあるまいか。さらに言えば、同様の向かい方で、「古事記」という前人未踏の山に独り分け入ったのではあるまいか。私は、そんな思いを強くしていった。

例えば、宣長は、「古事記伝」のネノカミの註釈の中で「可畏カシコき」という言葉について、「訶志古カシコは古書に、畏、可畏、恐惶、懼などの字を書て、(中略)おそるゝ意なり、(又賢をも、智あるをも云は、然る人は畏るべき故に、ウツりていふなり)」とし(同第28集、p.87)、「シコしと云ときは、猶ゆるやかなるを、阿夜可畏アヤカシコと云は、其ノ可畏きに触て、直ちに歎く言なれば、いよいよセチなり、は、男をも女をも尊む称なり」と言う(同p.88)。

このように「阿夜訶志古泥神」という神の名もまた、歎く、という古人の身心の動きを伴う言葉から産まれていたのである。

小林先生は、宣長について「丁度、『源氏』が語られるそのサマを『あはれ』という長息ナゲキの声に発する、断絶を知らぬ発展と受取ったように、神の物語に関しては、その成長の源泉に、『あやし』という、絶対的な『なげき』を得た」(同、p.174)とも書いている。

 

以上のような直覚と思考を重ね、昨年、2017年11月の、私の「自問自答」はこうなった。

「小林先生は、詩や言語に関して孔子が挙げる『観之功』、即ち『人の心中に、形象を喚起する言語の根源的な機能』について、徂徠が『天下ノ事、皆ナ我ニ萃ル』という言い方に注意を促している。それは『外からは、決して摑む事の出来ない言語生活の生命が、捕えられているという、その捕え方』そのものだからである。そこに先生は、宣長が『古事記』を読みコナし果せた急所があると、直覚されたのではあるまいか。例えば宣長は『ながむる』という言葉の、声を長くする事、物思う事、物を見る事、という転義に強い興味を示す。そこに、物との親身な経験をする歌人の身心の動きのシルシを見たように『古事記』をわが物にしたのではないか」(299字)

 

しかしながら、山の上の家での質問に立った当日、池田塾頭との対話を通じて、以下のことが判然とした。上記の自問自答において、前半部分はよいとしても、後半の例示部分が不十分、というよりもむしろ、言語が「新しい意味を生み出して行く働き」という意味での「興之功」、すなわち、言葉の「転義」という点で、小林先生がより重きを置かれていたことに、全く言及できていなかったのである。

本来、言葉は、その言い方、身振り等によって、瞬間瞬間に、その意味が転じて行くものである。そのことを宣長は、こう表現している。

「すべて人の語は、同じくいふことも、いひざま、いきほひにしたがひて、深くも、浅くも、をかしくも、うれたくも(坂口注:いまいましくも)聞こゆるわざにて、歌は、ことに、心のあるやうを、たゞに、うち出たる趣なる物なるに、その詞の、口のいひざま、いきほひはしも、たゞに耳にきゝとらでは、わきがたければ、詞のやうを、よくあぢはひて、よみ人の心を、おしはかりえて、そのいきほひをウツすべき也」(「古今集遠鏡」、同第27集、p.267)

小林先生も、こう言っている。

「何も音声のアヤだけに限らない、眼の表情であれ、身振りであれ、態度であれ、内の心の動きを外に現わそうとする身体のワザの、多かれ少かれ意識的に制御された文は、すべて広い意味での言語と呼べる……」(同第28集、p.48)

加えて先生は、具体例を挙げている。例えば、「お早う」とか「今日は」という挨拶の言葉を、子どもの頃、その意味を知ってから使い始めたという人はいない。また、阿呆という言葉と、馬鹿という言葉は、その意味は同じだとしても、私たちは実生活において、それぞれの言葉を、状況に応じ微妙に使い分けている。このように、私たちは、日常的に、簡単な挨拶や微妙な言葉の使い分けを実践することによって、日々の生活を、より生き生きと、彩り豊かなものにしていると言えよう。

以上のように、「転義」には二つの態様があることを踏まえれば、「天下ノ事、皆ナ我ニ萃ル」という言葉の意味合いも、さらに立体的、動態的に感得できる。

 

私は改めて、寛政十年、「古事記伝」が完成した時に、宣長が詠んだ歌を口にしてみた。

 

古事ふることの ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし

 

ここに、小林先生が、その「歌のココロを、有りのままに述べているまでだ」として、宣長の仕事について、彼を画家にたとえて書いている文章がある。

「『古事記』を注釈するとは、(『古典フルキフミ』に現れた神々の『御所為ミシワザ』という)モデルを熟視する事に他ならず、熟視されたモデルの生き生きとした動きを画家の眼は追い、これを鉛筆の握られたその手が追うという事になる。言わば、『歌の事』が担った色彩が昇華して、軽やかに走る描線となって、私達の知覚に直かに訴える」(「本居宣長補記Ⅱ」、同第28集、p.352)

 

画家が描こうとしたのは、その歌にある「古事」すなわち、古人によって生きられ、演じられた出来事と言い換えてもよい。古人は、小林先生が言う「広い意味での言語」を使ってどのように歌い、語り、生きてきたのか。画家、本居宣長は、そんなふうに、古人が生きてきた経験を、現在の自分の心のうちに迎え入れて、自身がこれを生きてみた。そういう味識・体験による再生の行為を通じて、自らの心眼にまざまざと映し出されてきた手ぶりを、耳に聞こえてきた口ぶりを、「古事記伝」という作品として、見事に描き切ったのである。

さりながら、絵画作品は、画家の力だけで完成するものではない。それを観る者による、全身で感受するための努力や態度もまた欠かせない。小林先生は、十二年六ヶ月という歳月をかけて、宣長の作品を眺めた。私達、塾生も、そういう小林先生の姿を、同じ時間をかけて眺めようとしている。

巌から湧き出た大河の源流の一筋のように、孔子の言葉に始まる、徂徠が「興・観の功」と呼んだ言語表現の働きは、脈々と、今日もその流れを止めない。

(了)