ブラームスの勇気

杉本 圭司

二年と三ヶ月、全二十四回にわたって続けられた「ドストエフスキイの生活」の連載が完結したのは昭和十二年三月であるが、この長編評論が小林秀雄の最初の「批評作品」として上梓されるまでには、さらに二年余りの月日を要した。各章にはかなりの加筆修正が行われるとともに、五章に及ぶ序文が新たに書き加えられ、さらにニーチェの「この人を見よ」の一節をエピグラフとした上で、昭和十四年五月、創元社より刊行された。

翻訳書や編集者に請われて書いたと思しき二、三の例外を除けば、小林秀雄は自著にあとがきを添えるということをしなかった人だが、翌々月の『文學界』の編集後記は、彼が自ら進んであとがき的文章を草した珍しい例の一つである。その冒頭は、次のように書き出された。

 

僕は今度「ドストエフスキイの生活」を本にして、うれしいのでその事を書く。彼の伝記をこの雑誌に連載し始めたのは昭和十年の一月からだ。それは二年ばかりで終ったが、その後、あっちを弄りこっちを弄り、このデッサンにこれから先きどういう色を塗ろうかなぞと、呑気に考えているうちに本にするのが延び延びになって了った。ゆっくり構えたから、本になっても別に、あそこはああ書くべきだったという様な事も思わない。勿論自慢もしないが謙遜もしない。(「『ドストエフスキイの生活』のこと」)

 

連載を始めた直後に語られた「僕は今はじめて批評文に於いて、ものを創り出す喜びを感じている」(「再び文芸時評に就いて」)というその「喜び」が、ここにも溢れているのだが、四年半の歳月をかけ、現実に批評文においてものを創り出したところの「喜び」は、連載開始時に表明された彼の「野心」が、彼の企図した通りに成就したという意味での喜びではおそらくなかった。それはむしろ、当初抱いた「野心」が、彼の中で次第に滅却し、ついにこれに打ち克ったところの喜びであった。序文の最後の章で、彼は次のように書いている。

 

ドストエフスキイという歴史的人物を、蘇生させようとするに際して、僕は何等格別な野心を抱いていない。この素材によって自分を語ろうとは思わない、所詮自分というものを離れられないものなら、自分を語ろうとする事は、余計なというより寧ろ有害な空想に過ぎぬ。

 

重要なのは、この序文が、本篇を書き出すにあたっての彼の心構えを述べたものではなく、二年余りの連載を終え、さらに二年余りの推敲を経た末に獲得された彼の確信を語ったものであったということである。初めての長編評論に取り組むにあたり、彼がどれ程の「格別な野心」を抱いていたかは既に見たとおりである。

序文の前半二章は、連載を終了した一年半後の『文學界』昭和十三年十月号に掲載され、後半三章を加えた全文が、単行本刊行と同じ月の『文藝』に発表された。その最終行は、「要するに僕は邪念というものを警戒すれば足りるのだ」という一文で結ばれ、本文に架橋しているが、全篇の脱稿とともに克服されたこの「邪念」とは、何よりも連載開始当時の彼の「野心」、すなわち、作家が人間典型を創造するように、「誰の像でもない自分の像」としての作家の像を創り上げること、またそれによって、「僕にも借りものではない思想が編みだせる」という彼の企図そのものを指していた。連載がちょうど折り返し地点に差し掛かった昭和十一年二月に発表された「私信」という一文には、その「邪念」としての彼の「野心」が消滅して行く過程の一端が窺える。ロシア文学者である中山省三郎に宛てて書かれたその手紙の中で、小林秀雄は、批評家生活の出発点となった「様々なる意匠」以降、自分が書き続けてきたのは「様々な評家が纏った様々な意匠に対する反駁文」であり、別言すれば「裸で立っている自分を省みての自己弁解文」に過ぎないと断った上で、次のように綴った。

 

しかし裸体もあまり曝していると、始めは寒い風も当る気でおりますが、だんだん温って来て、晒す事が無意味になって来ます。もう充分だという気がして来ます。君はどんな着物を着ているかと言うのにも飽きたし、特に、自分はこういう風に着物を脱ぐと人に語るのにも飽きて来ました。そして僕は本当の批評文を書く自信が次第に生れて来るのを感じて来ました。言いかえれば、ある作家並びに作品をとして創作する自信が生まれて来るのを覚えたのです。

僕は、自分の批評的創作のとして、ドストエフスキイを選びました。近代文学史上に、彼ほど、豊富な謎を孕んだ作家はいないと思ったからであります。僕は彼の姿をいささかも歪めてみようとは思いません。また歪めてみようにも僕にはその力がありません。彼の姿は、読めば読むほど、僕の主観から独立して堂々と生きて来るのを感じます。すると僕はもはや批評という自分の能力に興味が持てなくなる、いやそんなものが消滅するのを明らかに感じます。ただ、ドストエフスキイという、いかにも見事な言うに言われない人間性に対する感覚を失うまいとする努力が、僅かに僕を支えているのです。

 

前段では、彼の「野心」が「自信」へと育ちつつあったことが示されながら、後段では、その野心の「消滅」が既に予見されている。ここで言われた「ある作家並びに作品を素材として創作する」、あるいは「自分の批評的創作の素材として、ドストエフスキイを選」ぶという彼の口ぶりは、批評とは「他人の作品をダシに使って自己を語る」ことだという嘗ての発言の延長線上にあるものである。一方、その「自己を語るダシ(素材)」としてのドストエフスキーは、読めば読むほど、彼の主観から独立して堂々と生きて来るのが感じられた。「主観」とは、批評し、創作しようとする小林秀雄の意識そのもの、彼が語ろうとした「自己」そのものであろうが、もはや彼にはその「自己」に興味が持てなくなる、いやそんなものが消滅するのが明らかに感じられる、と言うのである。

「ドストエフスキイの生活」が刊行された二ヶ月後、この作品を巡って雑誌『批評』の同人が小林秀雄を囲む「歴史と文学」という座談会が行われたが、この「邪念」としての「野心」について、彼はあらためて次のように語った。

 

ドストエフスキイを書こうとしても、始めはどう書こうか、こう書こうかと云う事を考える。そして自分のドストエフスキイとして考える。だけど段々色んなものを見て行くと、こう云う風なものを書き度いなんて、そういう気持ち、それを僕は邪念と云うけれども、そんなものはなくなってしまう。自分と云うものが小さくなって、向うに従がおうと云う気持ちになるんだね。

 

十余年後、二つ目の評伝作品となる「ゴッホの手紙」において開かれた「述ベテ作ラズ、信ジテ古ヲ好ム」の道が、既にここに胚胎しているのである。「ゴッホの手紙」の最終節に書かれた言葉で言えば、「邪念」とは、「論評を加えようが為に予め思いめぐらしていた諸観念」であり、彼の心を占めていたはずのドストエフスキーに対する「批評的言辞」であった。小林秀雄の「無私ヲ得ントスル道」の、言わば最初の「螺階的な上昇」が、ここに行われたのである。

ただし、「歴史と文学」で語られた「自分と云うものが小さくなって、向うに従がおうと云う気持ち」とは、直接には、ドストエフスキーの評伝を書き上げた小林秀雄が「歴史の方法」について問われて答えた言葉であり、この作品が実らせた果実としての序文が、「批評について」ではなく、「歴史について」の副題を持つものであったことは忘れてはならないだろう。右の発言に続けて語られたのも、「伝記作家と小説家」の違いについての話であり、絶対に客観的にならなければいけない、自己を無にしなければいけないと彼が発言したのは、「伝記を書くための実際的な条件」としての言葉であった。

「ドストエフスキイの生活」を、小林秀雄は「長編評論」として企図し、これを「本当の批評文」「批評的創作」として書こうとした。しかし「ドストエフスキイの」を書く以上、それは「本当の批評文」であると同時に「本当の歴史文」でもなければならない。そこでは「創作」や「創造」ということが、文学の世界におけるそれとはまた異なる位相の営みとして新たな意味を生じたはずである。連載を開始した時点で、小林秀雄がそのことをどこまで意識し、見通していたのかは定かでないが、冒頭に引いたの中で、「わからないから書くのだ。それが書くという奇妙な仕事の極意である」と言われた、その「極意」を知った仕事がこの評伝であった以上、「本当の批評文」を書こうとする彼の努力が、自ずと「本当の歴史文」を紡ぎ出す契機となる、そしてついに一つの確固たる歴史観を形成するに至ったことは、おそらく彼の予期しないところであったに違いない。彼の最大の「喜び」もまた、その点に存したであろう。

「歴史と文学」では、このあと「伝記作家と小説家」から「伝記と批評」に話題が移り、小林秀雄が昔、志賀直哉論を書いた時に、自分の中にあるものをはっきりさせるためにこの作家をだしに使ったと書いたことについて、それと今の話とは大分違っているのではないかと山本健吉に問われている。山本が指摘したのは、昭和十三年二月に発表された二度目の「志賀直哉論」の冒頭で、学生時代に書いた未発表の志賀直哉論を振り返って小林秀雄が書いた言葉である(ただしここでは「だし」とは言われていない)。これに対し、小林秀雄は、「違って居るかも知れませんね」と一言答えただけだが、続けて、伝記だけでなく文芸批評としてもそういう態度がなくてはいけないのではないかと問われると、「そうですな」と気のない風な返事をしている。しかしさらに、山本がサント・ブーヴの名を挙げ、この批評家はそういう自己というものを没却してしまった人でしょうと畳み掛けると、自らの「批評家的性向」について、次のように断じるのだ。

 

あゝ、そうだ。でも矢張りそう云う事は、批評家と云うものは、半分以上天性だね、矢張り自己を没却出来ると云う性質は、僕には若い頃からあったね。それで、そう云う事をまあ段々、そのもう少し深く意識して来るか、来ないかだけで、自分の中のものを明にするために誰々をだしに使うと云う言葉だって、結局或る批評家的性向が言わせるんだよ。自分を失う様な性向が言わせるんだねえ。

 

ドストエフスキーという「歴史と文学」へ推参したことが、「自己を没却出来る」という小林秀雄の「或る批評家的性向」を目醒し、自覚させ、これを鍛えた。それはまた、「批評とは何か」という文壇登場以来彼を悩ませてきた問いが、ここにおいて、「歴史とは何か」という巨大な問いに丸ごと呑み込まれ、新たな相貌をもって彼の眼前に迫ったということでもあった。以後、この二つの問いは、彼の中で益々分かち難く結ばれて行くことになる。『ドストエフスキイの生活』を刊行した同じ月に、小林秀雄がサント・ブーヴの『我が毒』を翻訳出版しているのは偶然ではない。ボードレールとともに最大の影響を与えられたこの近代批評の創始者の、たとえば次のような一節を、自覚しつつあった我が身の「批評家的性向」として、彼は受け止め、訳したはずだからである。

 

批評は僕にとって一つの転身である。僕は自分が再現しようとする人物のうちに姿を隠そうと努めている。僕はその人になる、文体さえもその人になる、僕はその人の言葉遣いを借用してこれを装う。

 

僕は歴史家ではない、併し、歴史家の特質は備えている。

 

「ドストエフスキイの生活」を上梓した二年後、小林秀雄は文芸時評の舞台を降り、以後、二度とこの舞台に上がろうとはしなかった。一方、創造的な批評を書く、誰の像でもない自分の像としての作家の像を手ずから創り上げるという彼の野心が、ここで放棄されたわけでは決してなかった。むしろこの野心は、骨董というもう一つの歴史との邂逅と開眼とにより、新たな生を受け、このあと爆発的に開花することになる。小林秀雄が日本橋「壺中居」で李朝の壺に出くわし、逆上したのは、「歴史について」の前半二章が『文學界』に発表された、おそらく直後のことであった。やがて太平洋戦争が勃発し、小林秀雄の次なる「螺階的な上昇」が始まる。白洲正子の言った「きらきらしたもの」が、彼の批評の行間に輝き出そうとしていた。

(つづく)