信ずることと、祈ること

須郷 信二

<母の祝詞のりと

あまり人に話したことはないのだけれど、小学校の頃から就職して家を出るまでの十数年、神道の祝詞のりとを毎日のように聞いていた。両親とも祖父母の代からのキリスト者で、讃美歌ならともかく、祝詞が家の中に入り込む余地はなかったのだが、ある日母親が、どこで買って来たのか、神棚を持って帰って来た。怪訝な顔をする家族に対して彼女は、「今日から神様をお祀りする」と宣言して、それから毎朝、居間に据えた神棚の前で祝詞を奏上し始めた。理由を尋ねると、「だって祝詞の日本語って、美しいじゃない。自分もやってみたくて」と涼しい顔で答えた。本人の真意はいまだにわからない。ただ、自分の宗教であるプロテスタントを棄てたわけではないようで、その後も、日曜にはせっせと教会に通っていたし、先年亡くなった時には、牧師の司式により教会で葬儀を執り行った。キリスト者の中には、神社に参拝することすら忌避する人もいる。それを考えれば、自分の母親は、奔放というか、破天荒と言ってもよい人であった。「宗教は不自由だけど、信仰は自由だ」というのが口癖で、神棚騒動の時は、「キリスト教と神道は両立する」とまで言い放った。「そんなわけないだろう」と、それまで母親のやることを黙って見ていた父親が、さすがに不愉快そうに呟いたのを憶えている。

 

母親の思い出話はともかく、彼女の唱えていたのは「天津祝詞あまつのりと」であり、神道の祭式の冒頭に奏上される、最も一般的な祝詞だった。神社や神職によって、細かい文言の異同はあるが、自分が憶えているのは以下のことばだ。

 

高天原たかあまはらに 神留かむづましま

神漏岐かむろぎ 神漏美かむろみの みこともち

皇親神すめみおやかむ 伊邪那岐大神いざなぎのおおかみ

筑紫ちくしの 日向ひむかの たちばなの 小門おどの 阿波岐原おはぎはら

禊祓みそぎはらたまふときに 生坐あれまさる 祓戸大神等はらえどのおおかみたち

諸々禍事罪穢もろもろのまがごとつみけがれを はらたまへ きよたまへと 申事もうすことの よし

天神あまつかみ 地神くにつかみ 八百万神よほよろづのかみ等共たちとともに

天斑駒あめのふちこまの 耳振立みみふりたてて 聞食きこしめせと かしこかしこみも もうす

 

十数年も聞いてきた詞だから、耳についているが、というより暗唱できるほどだが、意味はよくわからなかった。ただ、そこから立ち上がってくる、畳みかけるような、軽快なリズムを感じることはできたし、それは嫌いではなかった。「筑紫ちくしの 日向ひむかの たちばなの 小門おどの 阿波岐原おはぎはらに」は、グーグルマップをズームインさせる時のようなダイナミックさを感じるし、「天神あまつかみ  地神くにつかみ  八百万神よほよろづのかみ等共たちとともに 天斑駒あめのふちこまの 耳振立みみふりたてて 聞食きこしめせ」、という終盤の盛り上がりも素敵だと思う。

 

池田塾に参加して、小林秀雄の「本居宣長」に導かれるように、「古事記」や、本居宣長の「古事記伝」などの本文に触れるようになると、「天斑駒あめのふちこま」は須佐之男命すさのおのみことのエピソードに登場する馬であり、「祓戸大神等はらへどのおおかみたち」は伊邪那岐命いざなぎのみこと黄泉國よみのくにから帰ってきた時に生まれた神々だと知る。そして何より、「古事記」には、古代日本語の音声が封じ込められているらしいということを知った。

宣長は、「古事記伝」において、何をおいても、古代日本語の音声を甦らそうとしたように見えるが、その時、力になったのは、祝詞、宣命せんみょうであったという。宣長の時代にあって、「古事記」の読み下しは、すでに困難であったが、神に奏上する言葉である祝詞や、天皇のみことのりを伝える宣命の中に、かろうじて古代の「訓法よみざま」が残されており、師である賀茂真淵による先行研究も参照しながら、宣長は古代人の肉声を蘇らせようとした。

「古事記伝」の一之巻、「訓法よみざまの事」には、その具体的な作業が生き生きと描かれている。古文を読むということは、その意味を取ることと同じくらいに、いかに訓み下し、いかなるイントネーションを採用するかが大切だと、宣長は考えていたようだ。

言語は、文字よりずっと以前から、話し言葉として存在してきたのだから、「いにしへの心ばへ」は、何をおいても、その発声の中にあるのかもしれない。だとすれば、自分は、祝詞の言葉を「美しい」と感じた母親の「心ばへ」を通じて、祝詞に封じ込められた「古の心ばへ」に、わずかに触れたのかもしれない。その事を思い出しながら、自分の中で「言霊ことだま」という言葉が立ち上がって来るのを、いま感じている。

 

<「宣長問題」とは何か>

いわゆる「宣長問題」というものがある。

小林秀雄は、「宣長の学問は、その中心部に、難点を蔵していた」(「本居宣長」40章)と書いているが、 その難点とは、外形的には、源氏研究(歌の事)が終わり、古事記研究(道の事)に入った時に現れる、古伝説に対する狂信とも見える態度であり、それは排外思想の形を取ったり、「凡そ神代の伝説つたへごとは、みな実事まことのことにて、その然有理しかあることわりは、さらに人のさとりのよく知ルべきかぎりにあらざ」る(「古事記伝」六之巻)、と学説とも思われぬ主張の形を取ったりする。実証的研究態度とのギャップに、読む者は戸惑うのだが、こうした宣長の態度が、端的に現れているのが、「古事記伝」一之巻にある「直毘霊なほびのみたま」だと言われている。

この中で宣長は、道をあげつらうとしながら、異国あだしくにの道、主に「聖人の道」への批判に終始し、肝心の「道」については、「いにしへ大御世おおみよには、道といふ言挙ことあげもさらになかりき、はただ物にゆく道こそ有りけれ」として、その具体的な中身は語ろうとしなかった。

また「直毘霊なほびのみたま」に対する儒学者からの批判にも、筋の通った反論をせず、「小智をふるふ漢意からごころの癖」(「くず花」)、と決めつけ、「信ぜん人は信ぜよ、信ぜざらん人の信ぜざるは又何事かあらん」(同上)、と突き放した。小林秀雄は、「 『直毘霊なほびのみたま』を度外視して、『古事記伝』を読む事は、決して出来ないのである」(40章)と書いているが、我々はこの奇妙な文章に、どのように向き合えばよいのだろうか。

 

<「直毘霊なほびのみたま 」を読む>

正直に言うと、「直毘霊なほびのみたま」を読むたびに、自分の思考が滞るのを感じた。「古事記伝」一之巻に関していえば、その前段の「文體かきざまの事」や、「訓法よみざまの事」など、実証的記述との落差が大きすぎるのだ。

直毘霊なほびのみたま」が書かれたのは、文末の記述によれば明和八年(1772年)であり、「古事記伝」の起稿から八年、ちょうど一之巻の完成と時を同じくしている。宣長は「古事記伝」完成まで、三十五年の時間を費やしていることを考えれば、総論部分である一之巻と、その巻末に置かれた「直毘霊なほびのみたま」は、全巻を貫く宣長の「心ばへ」を現わしていると考えて良いのだろう。

その「心ばへ」とは、例えば、「神の道にしたがふとは、天下あめのした治め賜ふしわざは、ただ神代よりありこしまにまに物し賜ひて、いささかもさかしらを加へ給ふことなきをいふ」、というように、「神代のまにまに」政治を執り行えば、自ずから神の道は現れるという考えである。だから、ことさら道を説く必要はないし、道を説く事自体が、「道の正しからぬが故のわざ」とする。そして、ここから、宣長の「聖人の道」排斥が始まる。

中国において「道」が盛んに説かれたのは、国が乱れていたためである。そこに聖人が現れるが、彼等こそが、「君をほろぼし、國をうばへるもの」であり、「いともいともあしき人」である。「聖人の道」など、「穢悪きたなき心もて作りて、人をあざむく道」である。日本においても、中国に倣って道を説こうとするものが現れるのは、猿が人のことを「毛がない」と言って笑うのを恥じて、人にも毛はある、と強いて主張するようなもので、毛がないことが貴いのを知らぬ「痴人しれもののしわざ」である、と。正直、このあたりの宣長の書きぶりは、読んでいて、頭が痛くなる。「宣長さん、ここはスルーで良いのではないですか?」と言いたくなる。

4月に塾頭から、「宣長問題」について考えるように言われ、数か月考え続けたが、「直毘霊なほびのみたま」の記述がなかなか腑に落ちないでいた。小林秀雄は、「この難題を、外部から合理的に解こうとする道は、当の出題者の心を引き裂く事に終る」(40章)という不吉な予言をしているが、まさに追い詰められたような気分が続いていた。

 

<音読してみる>

そんな時、ふと、「音読してみるか」という考えが浮かんだ。以前、松阪で、本居宣長記念館主催の、「古事記伝」の素読会に参加したことがあり、その時に、とても新鮮な感覚を覚えたのを思い出したのだ。

「古事記伝」の文體かきざまは、まことに独特だ。まず、大別すると、「古事記」本文の大文字部分と、「伝」と呼ばれる註釈部分に分かれている。さらに、「伝」も註釈本文と、より細かい註釈に分かれているから、「古事記伝」は、大中小の文字で書き分けられている。黙読すると三つの記述が入り交じり、読み辛く感じるのだが、音読してみると、宣長の思考が、自分の頭の中に流れ込んでくるような、不思議な感覚があった。本居宣長記念館の吉田悦之館長は、「古事記伝」を音読していると、「ただの史料や考証の集積ではなく、背後には力強い躍動感が感じられる」(『宣長にまねぶ』、致知出版社刊)、と書いている。そして、「問題を提示して、ああでもないこうでもないと考えを巡らし、前に進もうとする著者宣長の意志の力がそこには感じられる」(同上)という。「直毘霊なほびのみたま」を音読することで、宣長の思考に近づくことができるかもしれない。

さっそく筑摩版全集の「直毘霊なほびのみたま」を開いて頭から音読してみる(館長は、できれば版本で読んだ方がよいと仰っている)。一之巻は、総論が展開されており、(1)総論の本文と、(2)註釈で構成されている。宣長は、丁寧に仮字かなを振ってくれているから、音読はしやすい。「直毘霊なほびのみたま」 は、全集のページにして14ページだが、通読するのに一時間くらいかかった。

 

次に、大文字の総論本文だけを音読してみる。「皇大御國すめらおほみくには、かけまくも可畏かしこかむ御祖みおや 天照大御神あまてらすおほみかみの、あれませおほ御國みくににして」、「大御神おほみかみおほ御手みてあましるし棒持ささげもたして」……のような感じで、今度は15分くらいで読める。

ここで、あれ、と思った。「直毘霊なほびのみたま」は、祝詞なのだ。「掛まくも可畏き」で始まり、「かしこみかしこみもしるす(申すではなく)」で終わっている。そして、神代の始めから今にいたるまで、この国が、「天つ神の御心を大御心として」、「平たいらけく」治まっている様を奏上しながら、さかしらを加えず、「おだひしく楽く世をわたらふ」古人いにしへひとの姿を描き出す。そこで奏上されているのは、こんな国で暮らせることの幸せ、ありがたさであり、あの激烈な、漢意からごころ批判や、「聖人の道」排斥は影を潜めている。あれはどこにいったのかと見ると、すべて註釈の方に押し込められているのだ。宣長が大切にした、「本」と「末」でいえば、総論本文に現れた「心ばへ」こそ「本」であろうし、この「本」から目を離さず、宣長の信じたものに思いを馳せることが必要なのではないかと思った。

 

<宣長の祈り>

音読を手掛かりに、「神代七代」を何度か読み返してみると、宣長の目に映じた世界の姿が、おぼろげに見えてくるような思いがする。そして、宣長の目には、「神代の伝説つたへごと」の世界だけでなく、今生きている、この「世間のありさま」も映じていたのかもしれない、と感じた。

「古事記伝」七之巻の「伝」に、「我は神代を以て人事ひとのうへを知れり」という詞がある。「神代の伝説つたへごと」をつぶさに眺めているうちに、今生きている世界にまで通じることはりがまざまざと見えてきた、という。それは「世間よのなかのあるかたち何事も、吉善よごとより凶悪まがごとし、凶悪まがごとより吉善よごとしつつ互にうつりもてゆく」という理であり、さらには、「しか凶悪まがごとはあれども、つひ吉善よごとに勝つ事あたはざることわりをも知べく」という。凶悪事まがごとはすべて、禍津日神まがつびのかみがこの世に生まれてしまったことに発する。だから、世界に凶悪事まがごとが発生するのは不可避だが、そのけがれをはらうことは可能なのである、と。だとすれば、人に出来ることは、けがれを穢れとして認識することと、その穢れを「祓へ給へ、清め給へ」と祈ることだけ、と宣長は考えていたのかもしれない。

冒頭に触れた、「天津祝詞」は、祓戸大神等はらへどのおおかみたちに、ただ、「祓へ給へ、清め給へ」、と願うだけの、捉えようによっては空虚なものだ。神道の祭式においても、ちょっとした「お清め」くらいの軽さでこの祝詞が奏上されるイメージを、自分も持っていたが、上の宣長の考えに従えば、「天津祝詞」、あるいはその元となる「大祓詞おおはらへのことば」こそ、古神道の本質的な祝詞なのかもしれない。「天津祝詞」が、「祓へ給へ、清め給へ」と祈る相手は、祓戸大神等はらえどのおおかみたちであり、宣長によれば、その一柱は、「古事記伝」の「直毘霊なほびのみたま」の章題にもなっている、「直毘神なほびのかみ」なのだ。

今回の「宣長問題」を巡り、本居宣長記念館の吉田館長と何度かやり取りをさせていただいた。館長自身は、宣長の叙述を自然に受け止めていて、「宣長問題というものを考えたこともなかった」と言うが、お忙しい時間を割いて、丁寧にお便りをいただいた。その中で館長は、問題の本質は、「神代の論理で人の世を見ると言うところにあるのでしょう」と仰る。宣長は、「神代への行きっぱなしではない。大きく違う価値世界を一人の中に共有するのです。(現代と古代を)行き来するのです。現実逃避ではない(中略)現実批判する目を、常に持ち続けることなんだと思います」と書いてくださった。

宣長は、記紀に書かれた神代かみよの古事を、長い時間をかけてながめているうちに、「神の道」とでも名付けるしかない、この国の姿、有様が、ありありと見えてきた。ある時それは、「吉凶相根ざす」(七之巻)、ということわりの形を取ったろうし、別の時には、古人いにしへひとの「てぶり こととひ ききみるごとし」(「古事記伝」完成時の和歌)という実感をもたらしたかもしれない。そうした場所から、宣長が、「凡そ神代の伝説つたへごとは、みな実事まことのこと」(六之巻)という確信を語るのは自然なことだったとも言える。また、そうした目で、同時代や、そこに生きる人々、上田秋成や、市川匡を見ると、なんと「いにしへの心ばへ」から隔たっていることか、漢意からごころにまみれていることか、と気づく。それを何とかできないものかという思いが、激烈な批判となったのかもしれない。つまり、宣長にとって、「直毘霊なほびのみたま」や、「くず花」(市川匡への反論)や、「呵刈葭かがいか」(上田秋成への反論)は、彼等の曇りや、穢れを、祓わんとする、祈りだったのではないだろうか。吉田館長は言う、「市川鶴鳴(匡)は熱心な読者、一生懸命に知力の限りを尽くし宣長に疑問を呈する。一生懸命だから宣長の拒絶は厳しいのです。まったくだめだ。そんなことなら考えない方がよいという全否定です」。祈りは、宣長の思いを載せて、執拗に、徹底的に繰り返されたのではないか。「直毘霊なほびのみたま」を音読しながら、そんなことを考えた。

 

さて、毎朝、つぶつぶと「主の祈り」や、「天津祝詞」を唱えていた母親は、一体何を思って祈りを捧げていたのだろうか。今となっては知る由もないが、長い間、その様子を眺めていて、一つだけ感じたのは、彼女は、「繰り返す」ことを大切にしているのだな、ということだ。心が躍るような喜びの日も、深い悲しみに沈む日も、毎日、同じ文言を唱え続ける。そうするうちに、祈りの詞に、自分の心が重なり合うのを感じたかもしれない。祈るという行為は、自分の中に日々湧き上がる様々な思いを、定型の文言に載せていくという側面があり、同時に、祈りは、多様な人々の思いを掬い取り、昇華させてゆく。それは、祈りの詞に、自分の心が見返されるような経験とも言えるだろう。だとすれば、「祈り」は、人々の心から発して、「『あや』とも『姿』とも呼ばれている瞭然たる表現性(23章)」を持った「歌」と、同じ根っこをもったものだと言うこともできる。そして、祈りも、歌も、音声として発せられた時にこそ、その人の「心ばへ」を現わすのかもしれない。

(了)