ゴッホ、日本にまねぶ

坂口 慶樹

2017年の後半は、日本画、特に浮世絵師による肉筆画を、積極的に観て廻った。

8月、箱根の岡田美術館では、喜多川歌麿の大作「雪月花」三部作を観た。「深川の雪」(同館)、「品川の月」(フリーア美術館)、そして「吉原の春」(ワズワース・アセーニアム美術館、今回は複製画展示)という、いずれも横幅が約3m、縦が約1.5mという、大型の肉筆画を、三作同時に観ることができる貴重な機会であった。なかでも、最晩年に描かれた「深川の雪」の美しさは、忘れることができない。

料亭の中庭には、真白な雪がうっすら積もっている。屋内には、芸者衆と女中、計26人の女性が連なる。芸者衆は、辰巳芸者と呼ばれた粋筋で、着物も落ち着いた深い色合いなだけに、真白な顔の連なりが、新雪のように鮮やかで美しい。外に手を出して沫雪を摑もうとする女、旨そうな平目の煮付を運ぶ女、寒い寒いと火鉢から離れない女、というように、一人ひとりの動きが生き生きと描き出されている。眺めていると、彼女たちの喧しい声と、三味の音が、心地よく聴こえてくる。そんな風景を、歌麿自身が愉しんでいたに違いあるまい。

ちなみに本作は、フランスの小説家エドモン・ド・ゴンクールも、パリの東洋美術商ジークフリート・ピングの店で見せられた、と書き残している(「歌麿」平凡社東洋文庫)。

 

10月、大阪、天王寺の、あべのハルカス美術館で観た、葛飾北斎の「なみ図」(小布施町上町自治会)もまた、忘れられない。本作は、同町にある祭屋台の天井画であり、「男浪」と「女浪」と言われる二枚からなる。彼の代表作の一つである「富嶽三十六景神奈川沖浪裏」(大英博物館)でも見られる、今まさに獲物を捕らえんとする、猛禽類の爪のような形をした波頭も、もちろん恐ろしい。が、より不気味に引き込まれるのは、らせん状に奥深く続く波の深淵である。手前の波の薄緑は、奥になるほど青く変わり、濃紺の闇へと移りゆく。見入っていると、自分の身体は、その深淵の中に閉じ込められてしまうかのようである。

会場隣のモニターで流れていたNHKのドキュメンタリー「北斎“宇宙”を描く」によれば、彼の画が、観る者に、そういう身体感覚を覚えさせるのには、理由があるという。

色彩の違いは、波長の違いでもある。可視光は、波長の長い順に、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫となる。私達は、その波長差により、藍よりも青、青よりも緑が、より近くにあると感じる。北斎は、色彩をそういう順に描き分けることで、立体感や深淵性を表現していたのだ。彼は、生涯を通じて水、特に波の動きに大きな興味を持っていた。現代科学の知見に引けを取らない描写力は、長い時間をかけて波を凝視し、我が物となしえた成果なのであろう。

 

11月、東京、原宿の太田記念美術館で、北川英山えいざんの特別展を観た。知名度は高くないが、歌麿と、渓斎けいさい英泉えいせんや月岡芳年らの幕末の絵師達をつないだのが、英山である。「懐中鏡を見る美人」という画があった。町娘なのか、落ち着いた赤茶色の着物を粋に着こなした若き女性が、左手を頬に当てながら、右手に持つ小さな鏡に一心に見入っている。着物の裾から僅かに見える両足の指先の様子から、緊張の色がうかがえる。これから大切な人と会うのかもしれない。その姿は、鏡をスマホに変えれば、現在、私たちが電車の中や街角でよく見かける女性の姿に重なる。彼が、文政年間のモデルに観て取ったのは、そういう女性の変わらぬ心のあり様だったのではなかろうか。

 

さて、本稿では、前稿(本誌2017年12月号「ゴッホ、ミレーにまねぶ」)に続き、ゴッホのまねびについて取り上げる。日本画の模写を繰返し、また自室の壁を、日本画で一杯にして愉しんでいたゴッホが、日本画の、そして日本人の何をまねび、まなんだのかについて、小林秀雄先生の言葉にも寄り添いつつ思いを馳せてみたい。

 

そもそも小林先生は、「ゴッホについて」という講演のなかで、ゴッホが弟テオを中心に宛てた書簡集の内容を踏まえずに、彼の絵を見ることは不可能であって、絵では現しきれない不思議な精神は手紙の方に現れている、手紙の方にも現しきれなかったものが、絵に現れている、ということを言っている(「小林秀雄講演」第七巻 新潮社)。

まずは、先生が「比類のない告白文学」と呼ぶ、その書簡集の言葉から始めよう。

1886年3月、ゴッホはパリに居を移し、前述の画商ピングの店で大量の浮世絵に接し、多数の模写を残している。現在、京都で開催中の「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」(以下、本展)でも観られる「花魁(渓斎英泉による)」(ファン・ゴッホ美術館)もその一つである。歌麿や北斎等、日本画への傾倒はやまず、1888年2月には、彼のなかで憧れの日本そのものでもあった南仏、アルルへ移った。

「この地方が空気の透明さと明るい色彩の効果のために僕には日本のように美しく見える……(中略)水が風景のなかで美しいエメラルド色と豊かな青の色斑をなして、まるで日本版画のなかで見るのと同じような感じだ」(B2、友人のE.ベルナール宛)

そこでは、「『色彩のオーケストレーション』に心労するゴッホに、日本の版画の色彩の単純率直なハーモニーが、いつも聞こえてい」た(「ゴッホの手紙」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第20集所収)。

小林先生は、ベルナール宛ての手紙にある「日本人は、反射を考えず、平板な色を次々に並べ、動きと形とを捕える独特の線を出しているのだ」(B6)というゴッホの言葉を紹介した上で、ゴッホが日本の絵から直覚したところ、として次の手紙を引いている。

「日本の芸術を研究していると、賢者でもあり哲学者でもあり、而も才気煥発かんぱつの一人の人間が見えて来る。(中略)彼は、ただ草の葉の形をしらべているのだよ。併しこの一枚の草の葉から、やがて凡ての植物を描く道が開かれる、それから季節を、田園の広い風景を、動物を、人間を。彼の生活は、こうして過ぎて行く。(中略)自ら花となって、自然の裡に生きている単純な日本人達が、僕等に教えるものは、実際、宗教と言ってもいいではないか。(中略)僕等は、この紋切型の世間の仕事や教育を棄てて、自然に還らなければ駄目だ。……僕は日本人がその凡ての制作のうちに持っている極度の清潔を羨望する。決して冗漫なところもないし、性急なところもない。彼等の制作は呼吸の様に単純だ」(No.542)

確かに、本展でも観たアルル時代の作品「タラスコンの乗合馬車」(ヘンリー&ローズ・パールマン財団)と「寝室」(ファン・ゴッホ美術館)には、平板な色遣いや構図に、浮世絵の跡を追うこともできるし、「糸杉の見える花咲く果樹園」(クレラー=ミュラー美術館)に見られる、鮮烈な花の白さに、私は完全に心を摑まれてしまった。

 

続いて、「放談八題」という、小林先生と井伏鱒二氏、そして洋画家でゴッホ書簡集の翻訳もあるはざま伊之助氏との座談(同、第18集所収)にある先生の発言にも注目したい。

「これは僕の想像だけど、彼(坂口注:ゴッホ)が日本の版画なんかに影響を受けたのはわかりきっているし、自分でも書いていますが、たとえば水墨なんかも見ているんじゃないかな。雪舟と同じような巌を描いている」

本展においても、その指摘に該当するとおぼしき「渓谷」という作品があった(クレラー=ミュラー美術館)。渓谷を歩く二人の女性は、もはや岩の中に溶け込み、画面中央には、雪舟の「慧可えかだん図」の岩にある、髑髏しゃれこうべの眼窩のような黒い穴が口を開けている。

先生が雪舟の画に見たものは、「恐らく作者の精神と事物の間には、曖昧なものが何もないという事だろう。分析すればするほど限りなく細くなって行く様なもの、考えれば考えるほどどんな風にも思われて来るもの、要するに見詰めていれば形が崩れて来る様なもの一切を黙殺する精神」であった(「雪舟」、同第18集所収)。

加えて、この文章とほぼ同時期に書かれた「私の人生観」(同第17集所収)のなかで、釈迦に始まる仏教者の観法が、わが国の、雪舟をはじめとする水墨画家の画法に通じており、そこには、芭蕉の言う、其貫道する物は一なり、ということ、換言すれば「何々思想とかイデオロギイとかいう通貨形態をとらぬ以前の、言わば思想の源泉ともいうべきもの」が、雪舟ら達人の手によって捕まえられていた、と言う。先生の言葉を借りて敷衍しよう。

「(近代科学の言う)因果律は真理であろう、併し真如しんにょではない、truthであろうが、realityではない。大切な事は、真理に頼って現実を限定する事ではない。在るがままの現実体験の純化である。見るところを、考える事によって抽象化するのではない、見る事が考える事と同じになるまで、視力を純化するのが問題なのである」

すなわち、室町時代のわが国の水墨画家にとっては、「画筆をとって写す事の出来る自然というモデルが眼前にチラチラしているなどという事は何事でもない」のであって、彼らはあくまで宋代・元代の舶来画を観て、精神の烈しい工夫を重ね、在るがままの、真如としての自然に迫ったのである。

 

さらに先生は、其貫道するところの一つとして、正岡子規が好んで使った「写生」という言葉も取り上げ、斎藤茂吉の「短歌写生の説」(鐵塔書院)を参考に、こう書いている。

「写生とはsketchという意味ではない、生を写す、神を伝えるという意味だ。この言葉の伝統を段々辿って行くと、宋の画論につき当たる。つまり禅の観法につき当たるのであります。だから、斎藤氏は写生を説いて実相観入という様な言葉を使っている。(中略)空海なら、目撃と言うところかも知れない、空海は詩を論じ、『すべからく心を凝らして其物を目撃すべし、便すなわち心を以て之を撃ち、深く其境を穿れ』と教えている。そういう意味合いと思われるので、これは、近代の西洋の科学思想がもたらしたrealismとは、まるで違った心掛けなのであります」

なるほど、私達が、例えば小中学校の写生大会、と言う時には、子規や茂吉が言う意味の「写生」として使っていることは、ほとんどないのではなかろうか。これに関しては、前述の「放談八題」の中で小林先生は、「ゴッホとセザンヌには、日本人の感覚で、非常によくわかるはずのものがある」という、ドイツの建築家ブルーノ・タウトによる見解を披露しているが、そのタウトが、著書「日本文化私観」(講談社学術文庫)の中で、日本の小学校の、あるクラス全員の絵を見せてもらった時のことを、次のように指摘しているのが興味深く、読者の皆さんにも思い当たる節があるのではなかろうか。

「皆景色を描いたものであって、どれもこれも退屈な、外国風な描き方のものばかりで、それだけに上手に描けていればいる程、ますます面白みがなくなっているという始末であった。このように、小学校時代に子供達から内的な絵、つまり子供達のあの純真な、自然な感覚を刈り取ってしまえば、換言すれば子どものように純真であり、自然でもある、偉大な日本文化をおさない人達の前で否定してしまえば、その結果は彼等を、ただに自然の奴隷にしてしまうばかりでなく、全く行き当りばったりなお手本の奴隷にしてしまう他はないのである」

 

さて、ゴッホ自身も、書簡集のなかに以下のような言葉を残しており、「雪舟と同じような巌を描いている」という小林先生の「想像」の跡を追って、おぼろげながら見えてきたものと重なり合うところもある。

「画家は自然の色から出発するのではなく、自分のパレットの色から出発するのがよい(中略)色が自然のなかでよく映えているのと同様、それらが僕のカンヴァスの上でよく映えているなら、僕の色が文字通り正確に忠実であるかどうかはそれほど気にしない」(No.429)

「正確な素描、正確な色彩、これは多分追及すべき本質的なものではない。なぜなら鏡のなかの現実の反映は、たとえ色彩その他すべてによってそれを定着することが可能だとしても、それはけっして絵ではないし、写真以上のものでもない」(No.500)

「北斎は、君(坂口注:テオ)に同じ叫びをあげさせる――だが、この場合、君が手紙で『これらの波は鉤爪だ。船がそのなかに摑まえられた感じだ』と言うとき、それは彼の線、彼の素描によってなのだ。そこで、たとえ、全く正確な色彩とか全く正確なデッサンで描いたとしても、こうした感動を与えることはあるまい」(No.533)

 

しかしながら、前稿に続き、ゴッホのまねびについて筆を進めてきて、私の中では、こんな思いが強くなるばかりである。ゴッホが、日本の何をまねびまなんだのか、という問いを分析的に深め、切り分けて見せるようなことは、これ以上意味をなさないのではあるまいか。それは、汲んでも汲んでも、汲みつくせないのではなかろうか……

「ゴッホの手紙」の終盤において、小林先生の言葉は消え、ほぼ書簡からの引用に終始している。ただ、本文の最後に「論評を加えようが為に予め思いめぐらしていた諸観念が、次第に崩れて行くのを覚えた」と記された。

ゴッホは、私が箱根で観た歌麿の「深川の雪」をパリで観たのかもしれない。北斎による、波の繊細な画法も、渓斎英泉の美人画も、まねびまなんだのだろう。しかし、彼の作品が、日本画や日本人からまなんだものだけで出来上がっているわけではない。彼の画と手紙を丹念に眺めてみると、ミレーにも、ドラクロアにも、レンブラントにもまなんでいる。ボリナージュ地方(ベルギー)の炭坑での伝道活動と伝道師資格の剥奪。ハーグ(オランダ)での身重の娼婦との生活と別れ。夢にまで見たゴーギャンとの共同生活と訣別。とにかく優しく接してくれる、アルルの郵便配達夫ルーラン。まるで贈答歌のような、弟テオとの頻繁な手紙のやり取りは、最期まで途切れることがなかった。そして、そういう過去の記憶ではち切れんばかりになった、いつ発作に襲われるかわからぬ、自らの肉体との対峙。

そんな彼の人生の一切合切が、画にもなり、手紙にもなった。それらのすべてに、彼の精神が、生ま生ましい味わいを湛えている。私は今、小林先生が、画と手紙の両方に当たらなければその精神は理解できないと言った真意を、自身の言葉を抑えざるをえなかった先生の心の動きを、加えてそれらの重量を、全身で感じている。

 

【参考文献】

 *「ファン・ゴッホの手紙」(二見史郎編訳、圀府寺司訳、みすず書房)

【参考情報】

 *「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」

  京都展:京都国立近代美術館、2018年1月20日~3月4日