共に読むということ

長谷川 雅美

私は現在、都内2校の私立学校で国語科の講師として勤めながら、國學院大學大学院の文学研究科の聴講生として、近代文学のゼミに所属しています。そのゼミの活動の一環として新潮講座に参加し、皆さんと一緒に小林秀雄の言葉を読み、池田雅延講師から、生きた小林秀雄の姿をうかがってきました。そのように過ごすうち、ゼミや講座で学んだことを、どのように仕事に生かせるだろうかと自然と考えるようになります。また、授業をしながら小林秀雄のあの言葉はこういうことだったのかと気付かされることも、小林秀雄を読みながら授業での体験が思い出されることも多々あります。そういった体験や思いを講座でぽつぽつとお話ししたところ、今回『好*信*楽』に書かないかとお声掛けいただきました。大変恐縮しておりますが、有難い機会です、少し聞いていただけると嬉しいです。

 

昭和35年4月、雑誌『文藝春秋』に発表された「或る教師の手記」という小林秀雄のエッセイがあります。〈考えるヒント〉シリーズの一篇であるこのエッセイは、「ある都市の、生徒二千名をかかえた中学校で、最近まで、十年間、実地教育に専念した」教師の手記を読んだことで、当初の予定を変更してこれについて書く気になってしまった、と始まります。文章全体の主眼はおそらく違うところにあるのですが、途中こんな言葉があります。

 

生活経験の質、その濃淡、深浅、純不純を、私達は、お互に感じ取っているものだ。敢えて言えば、その真偽、正不正まで、暗黙のうちに評価し合っているものだ。それが生活するものの知慧だ。常識は、其処に根を下している。だからこそ、常識は、社会生活の塩なのだ。無論、分析の適わぬものだ。

(引用は新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.140)

 

日常の人間関係のうちで、私たちの「生活経験の質」はその内容いかんに関わらず、相手に感じ取られ、それは、「濃淡、深浅、純不純」という相対的な尺度から、「真偽、正不正」といった評価にまで達していくとあります。尺度が相対的なのは、相手の評価の基準もまたその各人の「生活経験」によるものだからでしょう。しかもその評価基準は、観察や分析の末に頭で作りあげたものではなく、自然と身に付いたその人の「常識」として、無意識的に、相手の人性を直観する。これを読むと、私ははっとします。生徒たちが私に向ける視線や言葉が、強い意味を持って立ち上がってくるのです。

 

私は、以前は常勤講師として、授業はもちろんのこと、生徒の生活指導、部活動、生徒会活動、学校行事、PTA活動、入試関係業務、その他の分掌業務などに尽力していました。しかし勤めるなかで、自分は何の教員なんだろうかと悩むことが多くなり、その高校を退職して別の学校で非常勤講師になりました。高校生に国語を教えるということがどういうことなのかをもっと考えたかった。そこから、教科指導を通して、生徒たちと関係を結ぶことを目指すようになりました。そもそも、国語の講師として契約を交わしお給料をいただいている限りは、それを全うしないで、授業中に「人生とは、青春とは、平和とは……」などと演説するのは、社会人として不誠実だと思います。もちろん雑談を交えることはありますが、あくまで授業のメインは教科指導であるべきです。

教壇に立つようになって7年。たった7年ですが、ひとつ見つけた大切にしたいことがあります。それは、現代文・古文・漢文、どの授業でも教材でも、文章をその最初から読むことです。できる限り、生徒と一緒に。なぜかと言えば、まずは目の前の本文をできる限り正確に読んでほしいからです。言葉がどのように連なり、文になり、段落を構成して、ひとまとまりの文章になっていくのか、その過程をじっくりと追ってほしいのです。文章をその初めから順に読むことができない生徒はたくさんいます。だったら、私が一緒に読めばいい。

教科書を開き、一文一文を辿り、語意や指示内容を確認し、その言葉が本来持っている意味を無視しないよう、現代文なら語彙の、古文漢文ならば文法事項の確認をする。例えば、「風立たぬ時」と「風立ちぬ」の「ぬ」の違いは、と問いかける。生徒は文法書やノートを振り返りながらなんとか説明しようとする。みんなで要素を出し合いながら、解答を整えていく……。私の授業の大部分はこういった作業に費やします。そのようにして本文の内容を整理するうちに、不思議となんだか説明がつけられない感想のようなものが出てくるのです。自分はこの言い回しが好き、いやこの書き振りは鼻につくなど、レトリックへの感覚的な反応を見せる生徒が出ると胸が躍ります。

そうやって授業を進めていると、授業準備のために読んだときとは違う読み筋の可能性に気付いて説明が止まったり、思ってもみなかった読み筋が生徒から出てきて板書を修正したり、私の説明にムラが出てくるのです。私の読めなさを発見すると、先生もわからないことあるんだねえ、自分たちもがんばるから先生もがんばれ、と笑う生徒もいます。ごめんね、ありがとね、と応えるくらいしかできませんが、生徒たちは寛容です。ですが、その反対の事態も起こります。授業を淀みなく進めることができたと思っていたら、今日の授業はつまらないと生徒に言われる。なぜかと問うと、先生の解説を自信満々に聞かされているだけだったからだ、全然頭を使わないので眠くてたまらなかったと、ため息交じりにこぼされたりする。試験前で範囲を進めなければいけなかった、書いてある内容がわかりづらいのでシンプルに整理したかった、など、ほとんどの場合、自分に思い当たる節があるのです。そういうときは本当に情けなくて、恥ずかしくなってしまう。

 

「或る教師の手記」の言葉は、こういった経験を私に思い出させます。生徒たちは、学校という生活の場で、身近な大人である教師が自分たちをどんなふうに見ているかを感じ取っています。上から目線、というのを生徒たちは本当に嫌がります。先生は自分が一番正しいと思っているという理由で教師に反抗する生徒を、私は何人も見てきました。もちろん我儘勝手は許してはいけませんが、教師がどんな姿勢で授業に臨み自分たちに向かっているのか、生徒たちはちゃんと見ている。教師だって、生徒たちがどんなふうに授業に取り組んでいるのか、目を向けなければならない。でも、これって尋常な人間関係ではありませんか。

高校時代、教師になろうと考えたことはありませんでした。いろいろな出逢いや巡り合わせのなかで、気付いたらなってしまったのですが、でも、なってよかったと思っています。以前それを話したとき、先生は先生になってよかったと思う、先生と一緒に読んでると、難しいけど楽しいよ、と言ってくれる生徒がいました。思い出すたび背筋が伸びる、あの評価に恥じないよう、今日も明日も頑張らなければなりません。

(了)