ふるきことのふみのつたへ

村上 哲

「古事記伝」とは、本居宣長という巨大な知性の残した、彼の学問の集大成、その結実である。そう言って、先ず間違いではないだろう。では、その「古事記伝」とは、いったい、如何なる書物なのだろうか。

もちろん、「古事記」の註釈書、その一言でいってしまえば、それまでだろう。「古事記」という、漢字の羅列でありながら、漢文ともまた異なるサマを持った、難解な古物、その古物を、丁寧に読み解した註釈書、そう言って安心できるのであれば、そのまま本棚に納めてしまえばいい。

だが、ここで、小林秀雄「本居宣長」の中に描かれている、「古事記伝」の姿、その姿を削りだした宣長の心中を見据える、鋭い眼を見てほしい。

 

―「古事記伝」のみは、まさしく、宣長によって歌われた「しらべ」を持っているのであり、それは、「古語のふり」を、一挙にわが物にした人の、紛う方ない確信と喜びとに溢れている。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集、p.113)

―古語に関する諸事実は、出来得る限り、広く精しく調査されたわけだが、これらとの、長い時間をかけた、忍耐強い附き合いは、実証的事実を動員しての、ただ外部からの攻略では、「古事記」は決して落ちない事を、彼に、絶えず語り続けていただろう。何かが不足しているという意識は、次第に鋭い物になり、遂に、仕事の成功を念ずる一種の創作に、彼を促すに至ったであろう。その際、集められた諸事実は、久しく熟視されて、極めて自然に、創作の為の有効な資料と変じなかっただろうか。(同第28集、p.114)

 

なんて魅力的な言い方だろう。これが、「古事記伝」という註釈書へ向けられた言葉と思えば、そのあやしさに、私は足を掬われてしまう。少し、読みの向きを変えてみよう。

そもそも、「古事記伝」は、註釈書なのであろうか。

いや、この問い方もまた、誤解を生むだろう。「古事記伝」は、間違いなく、註釈書の体裁を持っている。そこには、「古事記」という本が書かれた背景も、その文体が不可思議な様を持つ理由も、つばらかに描かれており、各々の字の訓みはもちろん、如何なるココロでその字が当てられているかのわきまえなどは、いっそ神経質とすら思えるほどだ。本文に至っては、文字通り、一字一句が深く吟味され、古への言葉が扱われるココロを説く様は、写実的とすら思える。そも、当時の一般的な学問、すなわち儒学・漢文の習慣に従えば、「古事記」に「伝」と添え付けるその書名自体が、「古事記」の註釈書である事を物語っていると言えるだろう。

間違いなく、「古事記伝」は註釈書だ。いま一度、問いを立て直そう。

「古事記伝」は、はたして、註釈書を目指して書かれたものなのだろうか。

なるほど、「古事記伝」は註釈書の体裁を持っている。そこに異論の余地はない。しかしそれは、宣長という深く自覚された知性と、「古事記」という謎めいた歴史と文体を持つ本の交わりが、自ずから取らせた形だったのではないだろうか。

あるいは、こうも問えるかもしれない。

そもそも註釈とは、いったい何をなす事なのか。

こんな事が言いたくなるのも、「古事記伝」の中を満たしているものは、宣長の打ち立てた理論というより、むしろ、宣長の感動であるように思われるからだ。記の語る古き言葉に触れ、宣長の心がうごく、そのうごく心を捉えて放さない様が、そこには描かれている。感動が放心のままに消え去る事を許さない。「古事記伝」を書かせたのが、宣長の「ココロ」である事は、この伝へを直に受け取る人にとって、明らかな事だろう。

 

―訓みは、倭建命の心中を思い度るところから、定まって来る。「いといと悲哀カナしとも悲哀カナシき」と思っていると、「なりけり」と訓み添えねばならぬという内心の声が、聞こえて来るらしい。そう訓むのが正しいという証拠が、外部に見附かったわけではない。(同第27集、p.348)

 

繰り返しになるが、「古事記伝」が註釈書でないと言いたいのではない。まして、註釈書として書く事を厭う意が宣長にあった、などと言いたいわけでもない。問いたいのは、「古事記伝」の芽吹いた土と、「古事記伝」を育てた手つきだ。

宣長は、「古事記」を信じた。

あえて一言で表すなら、こうなるだろう。実際、どんな意図でそれを言うかはともかく、「古事記伝」を読んだ人は、皆、そう感じるはずだ。そこに、誤解とも理解とも言えない、どうしようもない行き違いが生れる。

それでも、宣長の態度は明白だ。

信てふ言は儒の作り設けしこちたき名にて、信てふ言挙げせざるにこそ、この記の貴きやありけり。「古事記伝」の宣長ならば、そう言うかもしれない。だが、さかしらの中で育って久しい我々には、こびりついたものを払い落とすために、少し回り道が必要だろう。

宣長は、「古事記」の伝へを直に受け取った。教え事めいたものを見出すより、まず、その声に耳を傾けた。なぜかと言えば、「古事記」の「序」にそう書いていたからだ。「序」は漢文の様に引かれて作り事めいた所も多いが、それでも、「古事記」を残した人々の嘆きや苦心が、そこには現れている。ならば、それをそのまま受け取ればいい。

「古事記」とは、失われつつあった古への伝へ事を記したものだ。古伝説を稗田阿礼にヨミうかべ習はせ賜い、その語るのを太安万侶が書き記したものだ。宣長は、安万侶の手つきから阿礼の声を聞いた。いや、安万侶の手つきを超えて、阿礼の言葉を、阿礼の口に語られる古への人々の声を聞いた。古への、ありきたりな人々の間で物語られる、その声を聞いた。声を聞いて、彼らの「正実マコト」を、特定の人の工夫により作られた安心のできる教説ではない、彼らの日々のやり取りの中から自ずと流れ出した、伝説の「正実マコト」を受け取った。

 

―私達は、史実という言葉を、史実であって伝説ではないという風に使うが、宣長は、「正実マコト」という言葉を、伝説の「正実マコト」という意味で使っていた(彼は、古伝イニシヘノツタヘゴトとも、古伝コデンセツとも書いている)。「紀」よりも、「記」の方が、何故、優れているかというと、「古事記伝」に書かれているように、―「此間ココの古ヘノ伝ヘは然らず、誰云ダレイヒイデし言ともなく、ただいと上ツ代より、語り伝へ来つるまま」なるところにあるとしている。(同第28集、p.116)

 

物語を受け取るのに、何をおいても第一に必要なものは、物語への信頼だ。それは、「源氏物語」の愛読を通して、宣長に深く自覚された考えだった。外部に見つかったどのような准拠も、式部の心中を通り物語の「まこと」へと流れていかなければ、「源氏物語」とは縁のないものであろう。我々が現実と呼ぶ「まこと」と「そらごと」の区別を超えて、物語の「まこと」を迎える素直な心がなければ、物語に近附く道はない。

 

―玉鬘の物語への無邪気な信頼を、式部は容認している筈である。認めなければ、物語への入口が無くなるだろう。「まこと」か「そらごと」かと問う分別から物語に近附く道はあるまい。先ず必要なものは、分別ある心ではなく、素直な心である。(同第27集、p.143)

 

宣長は、玉鬘の言葉に、式部の声を聞いた。しどけなく流れる書き様に浮かぶ、玉鬘の無邪気な信頼に、自らの愛読を支えるものを見つけ、驚いた。驚きは、それが意識化されるほどに、ますます強くなっていっただろう。

 

―「此物がたりをよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思える心ばへを語るを、くはしく聞クにひとし」(「玉のをぐし」二の巻)という宣長の言葉は、何を准拠として言われたかを問うのは愚かであろう。宣長の言葉は、玉鬘の言葉と殆ど同じように無邪気なのである。玉鬘は、「紫式部の思える心ばへ」のうちにしか生きてはいないのだし、この愛読者の、物語への全幅の信頼が、明瞭に意識化されれば、そのまま直ちに宣長の言葉に変ずるであろう。(同第27集、p.178)

 

式部は、「物語る」という言葉に潜り、物語の魂と出会った。宣長は、式部の語るその出会いを、恐らくは式部以上に、深いところで受け止めた。宣長が問いかければ、式部もまた、自らの言葉に驚いただろう。式部の考えの浅さを言うのではない。われ知らず語った言葉が、どれほどの深みを持つか、そこに驚ける事の、思いの深さを言うのだ。

 

―物語が、語る人と聞く人との間の真面目な信頼の情の上に成り立つものでなければ、物語は生れもしなかったし、伝承もされなかっただろう。語る人と聞く人とが、互いに想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する、これが神々の物語以来変わらぬ、いわば物語の魂であり、式部は、物語を作ろうとして、この中に立った。(同第27集、p.181)

 

物語は、語る人と聞く人との語らいによって、その命を吹き返す。それは、神々の物語以来変わらぬ、物語の魂だ。式部と宣長の語らいの内に、「源氏物語」はその命を吹き返した。宣長は、「古事記」にもまた、そうやって命を吹き込んだのだろう。

では、「古事記」の中で、宣長は誰と語らったのか。無論それは、安万侶であり、阿礼であり、古への人々だ。宣長が「古語のふり」を身に付けたのは、この語らいのためとも、この語らいによりとも、言えるだろう。それは、古への人々がわれ知らず身を預けていた、言葉の働き、古への言霊との語らいであったとも言えるはずだ。

ここに、「古事記伝」の訓みが持つ、歌の「しらべ」がある。「古語のふり」を身に付けた宣長は、「古語のふり」に従い、「古事記」を訓んだ。訓んでみて、形を得た「ココロ」は、いよいよその感慨を深め、豊かに自足した世界を宣長に見せただろう。それは、宣長が自分勝手に訓めたものではないが、しかし、「古語のふり」が宣長の心中で結実した創作であると、言えばそうも言えるだろう。

だが、宣長は、この創作の中で、得心はしても、安心などしてはいない。和歌を好むのを性とも癖とも言った宣長が、そんな事を期待するはずがない。「古事記」の訓みに、宣長の感動は、いよいよ極まっていったはずだ。極まりはしたが、消え去りはしない。そこにこそ、ウタの功徳がある。ならば、この「しらべ」に逆らう理由が、宣長のどこにあっただろう。

 

「古事記伝」とは、なんという名だろうか。「古事記」を直に受け取る事の出来た宣長には、もはや、それを説きなして教える必要などなかったのだろう。ただ「伝へ」る事こそが重要であったに違いない。

だが、「古事記」の時代はあまりに遠く、「古事記」の文体はあまりに難解だ。宣長の詞書きがなければ、そこに現れる「古語のふり」を、感じる事は出来なかったであろう。それは時として、教え事めいた物言いに受け止められてしまうかもしれない。信仰と教義を一纏めにして宗教でくくる事に慣れきってしまった人々には、この宣長の信頼こそ、教説の類に見えてしまうだろう。

確かに、宣長は、「伝」と呼ばれる註釈により、「古事記」を解きほぐしはした。それでも、それは、余分な結び目を解いただけであり、ほどけない結び目までを、強いて解こうとはしなかった。

ここにこそ、宣長の物語る、「ふるきことのふみのつたへ」があるのだろう。

(了)