うごめく都市まち

飯塚 陽子

陰鬱なパリの秋が深まる頃、理由もなくカルチェラタンを彷徨った日があった。今考えると、季節の変化についてゆけず少し元気を失くしていたのだと思う。秋が来て、街から一気に光と色が消えたように感じた。鮮やかで眩しい夏が心底恋しかった。このままでは自分からも光と色が消えてしまう。行きたい場所もなかったけれど、その日はとりあえず街を歩き回った。

パリの人は、歩くのが早い。遠方に住む友人と再会した時「随分歩くの早くなったね」と指摘されたので、私自身、足取りだけはパリジェンヌになっているらしい。ともあれ、パリジャン・パリジェンヌの、焦っているような、自信に満ちたような、あの勢いある足取りは、何とも言えない「他人」感を放つ。大通りを歩くと、動き回る無数の「他人」に巻き込まれてゆくような、しっかり足を踏ん張らなければ転んでしまうような、不思議な感覚を覚える。

その日は特に、通りに溢れる「他人」がどぎつく感じた。自分から半分、光と色が消えていたからかもしれない。通行人が冷たい波を作っていた。途中から私は、その動きの中に巻き込まれるために歩いているような状態になった。「一人の陰気で孤独な散歩者が、群衆の動いてゆく浪の中に沈み込みつつ」(1)……嫌でもこの言葉が浮かんだ。偉大な詩人と自分を並べるつもりなど毛頭ないが、文字通り一人で通行人の波に飲まれ歩いていた私は、ああ、ボードレールは確かにパリにいたのだ、それだけは確信した。

 

J.G.Fへと記された『人工天国』の献辞で、ボードレールは群衆を浪にたとえ、街を海にたとえた。このメタファー自体は決して斬新なものではないが、plongé(沈められた、浸りきっている)という過去分詞には、詩人の革新性を感じる。沈むからには深さがあり、その深さは「沈ませる」「沈められる」という主客の関係が生まれる空間となるのだ。フランス語で multitudeは群衆を意味するが、同時に数の大きさも含意する。無数の匿名の個人が深さのある波を作り、その中に詩人が沈み込むとは、どういうことだろう。

批評『現代生活の画家』においては、「完全な遊歩者にとって、情熱的な観察者にとって、数の中に、波打つものの中に、運動の中に、うつろい易いものと無限なるものの中に住いを定めることは、はてしもない歓楽である」(2)と、遊歩者フラヌールのあり方を語る。「波打つもの」とは群衆を指すのであろう。やはり、遊歩者フラヌールは無限に限りなく近い「数」としての群衆が作る、「運動の」「中に」入る必要があるようだ。ボードレールはパリを詩的探究のテーマにした詩人であるが、なぜ都市を観察することが、対象を固定することや対象と距離をとることに矛盾するのだろう。なぜ、自ら移ろう対象に飛び込むのか。

詩篇『悲シミヲサマヨフ女』では、愛する女性を象徴する穏やかな明るい海と、その果てにある輝く楽園との対比として、都市は暗黒の海原のイマージュに重ねられる。「語れ、きみの心は時に飛び立つか、アガートよ、/穢らわしい都会の真黒な海原を遠く離れ、/処女おとめのように青く、明るく、深く、/燦然と光の輝く、もうひとつの海原へと?/語れ、きみの心は時に、飛び立つか、アガートよ?」(3)すべての詩篇を挙げることはできないけれど、ボードレールの作品の中で都市は、しばしば広大で深い海のイマージュを纏う。韻文詩では、このように負の価値が付加されることが多いが、散文詩、例えば『すでに!』では、海は「己の裡に、かつて生きた、いま生きている、これから生きるであろうすべての魂のもろもろの気分と、断末魔の苦悶と、法悦とを蔵し、自らの戯れ、身のこなし、怒り、微笑によってそれらを表象するかに見える」(4)莫大な場所であり、それは都市と言ってもよさそうだ。

こうした海の広大なイメージとは対照的に、詩篇『七人の老人たち』では「Fourmillante cité蟻のように人間のうごめく都市」(5)、『小さな老婆たち』では「le fourmillant tableau蟻のように人がうごめくパリの画面」(6)という表現が、鮮烈な都市の映像を作る。都市が、莫大な量の液体の流動だけではなく、無数の固体の運動の総体として表れる。極小と極大、固と液を行き来して都市を語るこのダイナミズムは、それだけで大変魅力的ではある。しかし最も興味深いのは、「数」と「運動」に本質が見え隠れすることだ。この二つが、都市からポエジーを抽出する鍵になるだろう、間違いない……。

パリとは、都市とは、一体ボードレールにとってどんな外部世界であったのだろう? なぜ詩人は、永遠に時をめぐる神話から刻一刻変わりゆく都市へ、詩の舞台を引き下ろしたのだろう? なぜパリに拘り、同時に保守的であり革新的であるような、複雑な詩作に挑まなければならなかったのだろう? ボードレールに限った話ではないが、パリは、とりわけ19世紀、文学的探究の場所であると同時に探究の対象そのものだった。「匿名の群衆」が誕生した時代において、都市は、自己や他者について、自己を取り巻く外部世界について、思索する場所でもあったはずだ。歴史の移り変わりの中に生きることを引き受けた詩人は、詩が祈りや賛美であった古代への憧れを胸に、アクチュアルなパリを見詰め、考え続けたに違いない。そんな思考の中から出てきたのが「数」「運動」といった概念だったのではないだろうか……。

「数」や「運動」と言えば、『人工天国』に、こんな一節がある。「文法、無味乾燥な文法そのものが、何かしら降霊の呪術のようなものとなる。語たちは肉と骨を身につけて蘇生する。名詞はその実質ゆたかな荘厳さの裡に、形容詞は、名詞にかぶさって上塗りのように色づける透明な衣服として、そして動詞は、文を始動させる、動きの天使さながらに」(7)。ジャン=ピエール・リシャールは、著書『詩と深さ』でこの文章を引用し、名詞が深さを、形容詞が水平に広がる透明を、動詞がそうした構造に運動を与えると解説している。これは、ボードレールの言語世界とポエジーとを繋げる、核心的な指摘であるように思う。ボードレールは撞着する形容詞を並べるのを好むけれど、それも当然であって、撞着する語々はその落差ゆえ、動詞の生む運動をより大きく空間に拡げる役割を果たしている。作品を読むと、それがよく納得される。

「詩人は、[…]言葉を感覚的実体と感じ、その整調された運動が即ち詩というものだと感じている」(8)と小林秀雄は言う。詩は、それがどんな主題を持とうとも、言葉の生々しさに触れ運動を与えることによってしか作りえないだろう。数があり韻があれば、直截的な意味で運動は生むことができる。しかし詩的言語の本質さえ保存されていれば、散文でもそれは可能だ。それを実現したのがボードレールその人である。散文詩集『パリの憂愁』は一見詩人のパリ観察録のようであるが、ボードレールはパリの「描写」を目指したわけでは決してない。この作品が詩集たりえるのは、「表現エクスプレシヨン」による「表象ルプレザンダシヨン」がそこにあり、言葉がそれらに運動空間を与えているからだろう。

なるほど、詩的言語という明瞭には把握することのできない体系を知性と想像力によって構築、それに則って己の思想を「表現」した詩人がボードレールだったのだ。ここまで考えると、パリという都市を介在させてこそ、彼は詩作をなしえたのだと分かる。都市のもつ「数の夥しさ」や「群衆のうごめき」はボードレールの詩的言語に生命を与える要素であり、詩人の求めるポエジーが抽出される場所だったのだ。海が本質的に深さや透明、運動を伴うものだとすると、そのイマージュのもとに描かれる都市が、リシャールの指摘するような言語世界によって再構築されるのも不思議ではない。

「数」と「運動」が焦点となったけれど、これは群衆のうごめく近代都市の性質であると同時に、詩の本質でもある。前者は律動を生む音節であり、後者は日常の言葉が詩的言語として生まれ変わるための条件だ。都市の都市性と詩の詩性は、こうやって繋がるのか……空恐ろしい感動に襲われる。匿名の、無数の個人がうごめくパリの街で、ボードレールはポエジーを抽出し、小林秀雄の言葉を拝借するなら「認識」であり「自覚」である「表現」を目指したのだ。脈動する街に投げ込む身体と、遊離して観察する眼力の両方を駆使して、「表現」へと向かったのだ。ロマン主義の遺産を背負いながら近代都市の海原に飛び込んだ詩人の生き様に、21世紀のパリを散歩するだけの私は、ただ畏敬の念を覚える。

小林秀雄は、「[…]一詩人が、自分のうちに一批評家を蔵しないという事は不可能である。私は詩人を、あらゆる批評家中の最上の批評家とみなす」というボードレールの格言を引用し、詩作の根本に言及する。「詩作とは日常言語のうちに、詩的言語を定立し、組織するという極めて精緻な知的技術であり、霊感と計量とを一致させようとする恐らく完了する事のない知的努力である。」(9) ボードレールの異様な明晰さは、詩人として必然だったのだろう。ラマルティーヌと違い感傷的な共感を徹底して拒むのも、ボードレールらしさだ。

ランボーが神と崇めたこの詩人は、まさに詩の神でありながら、自分が直に触れる世界をこそ大切にした。うごめくパリの街で知性を研ぎ澄ませ、量と質とを統合するイマージュを創り出し、そこに街から抽出したポエジーを包み込んだ。やわらかな光が心地よい、穏やかな春が来た今、新たな気持ちでパリの街へ繰り出したいと思う。春も、夏も、秋も、冬も、ボードレールが自分の足で歩き回った街だ。気まぐれな散歩がここまで私を翻弄してくれるのだから、歩けば歩くほど何かに出会えるだろう。書き留めておきたくなるような出会いが訪れることを、こっそり期待している。

 

(1) 阿部良雄訳『ボードレール全詩集II』ちくま文庫、P.198
(2) 阿部良雄訳『ボードレール批評2』ちくま学芸文庫、P.164
(3) 阿部良雄訳『ボードレール全詩集I』ちくま文庫、P.152
(4) 阿部良雄訳『ボードレール全詩集II』ちくま文庫、P.108
(5) 阿部良雄訳『ボードレール全詩集I』ちくま文庫、P.200
(6) 同上、P.206
(7) 阿部良雄訳『ボードレール批評2』ちくま学芸文庫、P.246
(8) 小林秀雄『表現について』(「小林秀雄全作品」第18集、p.44)
(9) 同上、(同p.41)

(了)