医者としての宣長

森 康充

宣長の偉業はもちろんその学問にあるわけだが、彼の本職である医業の実態については「済世録」という記録が部分的にだが残っている。簡潔に患者の症状が付記してある場合もあるのだが、それはむしろ稀で、「済世録」を読む人は、日付、その日の天候、患者名、処方、調剤数、謝礼(今で言う医療費)が箇条書きに記載されているのを見るであろう。これは、現代の感覚で言うと、いわゆるカルテというより帳簿(医療用語でいうとレセプト)に近いものである。帳簿に近いということは、「宣長の文体」は感じられず、書体も学問上の著作のような楷書では書かれていない。小林先生は、「彼が、学問上の著作で、済世というような言葉を、決して使いたがらなかった事を、思ってみるがよい」と書いているが、済世という言葉を辞書で調べてみると、社会の弊害を取り除き人民の苦難を救うこと、世の中を救うこと、世人を救い助けること、などと書かれている。なるほど、学者としての宣長を知っていると彼にはそぐわない言葉のように聞こえて、確かに「医は生活の手段に過ぎなかった」とも思える。

それに対して、薬の広告文である六味地黄丸の記載はまさしく学者宣長の文体である。帳簿と広告文との違いのせいだろうが、済世録の一見無味乾燥な文章とは根本的に異なっている。ここはやはり原文(小林秀雄全作品27集 49頁)を読んで、その文体も味わうのが良いだろう。

「六味地黄丸功能ノ事ハ、世人ノヨク知ルトコロナレバ、一々ココニ挙ルニ及バズ、然ル処、惣体薬ハ、方ハ同方タリトイヘドモ、薬種ノ佳悪ニヨリ、製法ノ精麁セイソニヨリテ、其功能ハ、各別ニ勝劣アル事、是亦世人ノ略知ルトコロトイヘドモ、服薬ノ節、左而巳サノミ其吟味ニも及バズ、煉薬レンヤク類ハ、殊更、薬種ノ善悪、製法ノ精麁相知レがたき故、同方ナレバ、何れも同じ事と心得、曾而カツテ此吟味ニ及バザルハ、麁忽ソコツノ至也、コレユヱニ、此度、手前ニ製造スル処ノ六味丸ハ、第一薬味を令吟味、何れも極上品を撰ミ用ひ、尚又、製法ハ、地黄を始、蜜ニ至迄、何れも法之通、少しも麁略ソリャク無之様ニ、随分念ニ念を入、其功能各別ニ相勝レ候様ニ、令製造、且又、代物シロモノハ、世間並ヨリ各別ニ引下ゲ、売弘者也」(大意:薬は、たとえ成分は同じであっても、薬種や製法が変われば、その効果は変わるものなのに、世人はあまり気に留めない傾向がある。本居製の六味丸は、極上品の薬種を用い、製法も念には念を入れて厳密におこなっている。よって効能が大いに期待できる。しかも薬代も世間の相場より安くしている。)

宣長という人は、難しい内容でも簡潔に分かりやすく書くことに非常に長けた人であったが、この広告文は、現代の薬の宣伝と比べても、何とも説得力のある文章、文体だと思う。まさに、「家のなり なおこたりそね(家業はまめやかに努めるべし)」ではないだろうか。ちなみに蛇足だが、薬種や製法が変われば薬の効果も変わる、というくだりは、今の時代によく話題になることで、薬の主要成分は同じでも製薬会社によって製造方法や添加物は若干異なるということ、つまり、先発医薬品と各社後発品(ジェネリック)の違いを想起させる。医師によって、先発品と後発品はほぼ同じもので効能に違いなど無いとする者と、効果や副反応の出易さに違いはあるのだと主張する者とに分かれている。つまり、宣長のこの広告文は江戸時代の文章だが、現代日本の医療情勢にも通じるものがある。

こうやって「済世録」と六味地黄丸の広告文とを並べて眺めていると、宣長にとって、その思想と実生活とは付かず離れずの関係を保ち、小林先生の言葉を借りれば、両者の間の通路として中二階の書斎への階段に例えられて、「両者の摩擦や衝突を避けるために、取り外しも自在にして置いた」という意味が、よく味わえるように思われる。

 

宣長が、家の没落のため、母親からも勧められて医者になろうと思ったいきさつや、宣長と同様の境遇に直面し周りから医業を勧められたのにそれを潔しとせず拒否して儒学に専念した伊藤仁斎との比較の記述は、将来の進路に悩む若者に通じるものがあり、これも現代的で面白い。ここのところを小林先生は、「言わば、彼の充実した自己感とも言うべきものが響いて来る。やって来る現実の事態は、決してこれを拒まないというのが、私の心掛けだ、彼はそう言っているだけなのである。そういう心掛けで暮しているうちに、だんだんに、極めて自然に、学問をする事を、男子の本懐に育て上げて来た。宣長は、そういう人だった」と評している。

学問の講義中、外診の為に、屡々しばしば中座した、という話は、まさに「家のなり なおこたりそね みやびをの 書はよむとも 歌はよむ共」の実践であるし、宣長が最晩年まで現役の医師を続けたのも、単に経済面だけではなく、彼にとって医者という仕事が、学問と同様、一生を通じてやりがいのある興味深いものであったからではあるまいか。宣長のような鋭敏な人が、人間を相手にする医業を面白いと思わなかったわけがない。おそらくは、生涯、医師であり続けようとしたのであり、遺言書でも彼は、自分の屍体に、当時の医者の正装である十徳じつとくと脇差をするよう指示しているのである。「医は生活の手段に過ぎなかった」だけではなく、医業もある意味、「好信楽」の一つであったのかも知れない。

このような想像をしながら、一見無味乾燥な「済世録」を眺め直してみると、宣長にとっては、症状など一々メモしなくても、その患者の生活や病歴、診察時の体調、現在いかなる治療をするのが最善か、などといった重要なことが、鋭い直観として彼の脳裏に浮かんだことは容易に考えられるのではないか。宣長の学問を知り、かつ、宣長が医業もとても大切にしていたことを知っている者であれば、そう考えざるを得ないのである。ここに至って我々は、済世録は単なる帳簿ではない、やはり宣長の生きた証の一つである、ということを理解するのである。このような宣長の臨床は、決して私の空想ではないことを信じたい。

 

小林先生も、人間ドックのような検査漬けの医療や臓器別の分業的な医療には否定的で、名医の直観が大切だと仰っていたとお聞きしている。また、人間は本来、人間としての作られ方があり、手術や西洋薬などの人工操作ではなく自然を良しとする思想を持ってみえたと伺っている。この小林先生を感心させ信頼を得ていた医師が、私の知る限り、お二人いた。一人が、毎日午後三時になるたびに先生を襲った胃の痛みを治すため、絶妙の言葉(本気で禁煙するなら煙草は持ち歩きなさい)で禁煙させた赤坂の大堀泰一郎医師であり、もう一人が、西洋医学の欠陥を見抜き、自然を基本に置いた診療をしていた、漢方の専門家である蒲田の岡山誠一医師である。

人間を分割せずトータルで見る、そもそも人間とはエレメントに分割できるような代物ではない。これは医師にとっては、患者を臓器で分割せずトータルで診るということを意味する。木だけを見ていたら森は見えないのである。私は実を言うと、医師生活がちょうど三十年になったところであるが、この三十年の間には、医師としての仕事や研究が忙しく、本居宣長や小林秀雄から少し遠ざかっていた時期もある。しかし、患者をできるだけトータルで診ようとする診療態度はなぜか崩さなかった。内科の中でも腎臓病を特に専門にするようになってからも、その専門だけに固執したり専門外を蔑ろにしたりはしなかった。意識してそうしていたというより、結果的にそうなっていたという方が実感に近い。高校時代から小林秀雄を愛読していた結果、細かい臓器別診療に徹した医療には知らず識らずのうちに嫌悪感を抱いていたせいかも知れない。

医学の自然科学的側面が進歩していることには私も異論が無い。小林先生が苦しんだ胃潰瘍を例にとると、昭和四十年代頃までは非常に治療が難しい病気で、外科的手術が必要なことも多かったというが、今は薬だけで比較的簡単に治る時代になった。しかし、だからと言って、現代の医師達が皆、大堀泰一郎氏になったわけではないし、無論、大堀医師を超えたわけではあるまい。岡山医師のように、大きな自然の中で人間を見る、患者を診る大切さがわかっているであろうか。更に遡って、江戸時代の本居宣長医師に並ぶような臨床を現代の医師達が本当にやっているのか、現代医療は本当に本居医師の医療よりも優れていると言えるのか、真剣に自問自答しないといけないように私には思われる。

(了)