3月1日、小林秀雄先生のご命日の墓参に参加させていただきました。
お亡くなりになったあの日の事は、その後数ヵ月間にも渉った新聞雑誌上の追悼記事に加えて、不思議な事ながら、私個人がその日職場であった事や帰宅して妻と話した内容も含めて、明瞭に記憶しております。昭和58年(1983)の事でした。以来、今年で丸35年となります。
何年か前から、施主でいらっしゃる小林先生のお嬢様・明子さんのお供をして、池田塾塾生有志がお墓参りに参加させて頂いているとは聞いておりましたが、私自身は一昨年も昨年も都合がつかず、ご命日にお墓参りするのは今回が初めての経験です。
30年ほど昔の私個人のお話になります。
父母が亡くなってから年月が流れ、故郷の町に住む者が誰も居なくなってしまった。兄弟6人で話し合って、次男坊であったけれど私が松本家の相続をすることとなり、故郷・北海道厚岸町から当時私が暮らしていた仙台市にそっくりお骨を移転し、その管理を私がしていく事と決まった。墓地を用意し新しい墓石も準備しなければいけない。いざ自分でお墓を造るとなると、無知な私には、墓とは何なのか、何を意味するのか、遠い昔の先祖から父母に至るまでの累代の死者に対して、どのような礼儀を尽くせば良いのかが見当も付かなかった。仮に分かったとしてもどういう形のお墓が良いのか? そんな問題が生まれた事がありました。
私は、それ以前から小林秀雄先生のお墓にお参りしたいと願っていたのですが、その問題が生まれた時、これは先生のお墓を訪問する良い機会に恵まれたと思いました。とりわけ先生ご自身が、生前に京都で入手し、ひと時、山の上の家のお庭に置いて、後に東慶寺に墓石として設置した五輪塔が、どのようなものなのか実際に自分の目で確かめたい、出来得れば自分が墓石を用意する参考としたい、そんな考えもあったのでした。
妻とともに仙台を車で出発し、半日かけて神奈川県綾瀬市に住む長兄宅に到着。それから兄も乗せて、3人で初めて鎌倉東慶寺を訪問しました。夏のもう日が暮れそうな時刻でした。
入口右奥のご住職の住まいを訪ねて先生のお墓の在り処をお訊きし、鬱蒼と樹木が茂り昼間の暑熱がまだ残る谷戸の、むせ返る緑の匂いの中を、おそるおそるの気持ちでお墓に辿りつきました。
それは想像よりも小さくて、何ともさっぱりした、いかにも美しい形のお墓でした。今風の五輪塔に見られる鯱張った圭角がありません。後智慧では鎌倉時代初期の作というから、年月とともに風化したのでしょうか。その時は、ああここに小林秀雄が眠っているのか、この塔の下に遺骨があるのか、遂にここにやって来たぞという感慨が先立ってしまい、墓とは何なのか、何を意味するのかなぞも考えられなくなり、妻や兄と何を話したのかも覚えておりません。自分の家の墓石の参考にするなど、そんな不遜な考えは小林秀雄が遺した美の形の前で吹っ飛んでしまっておりました。
その後東京へ引っ越して来て、池田塾にお世話になってからは、これまで2回、一人でお墓参りをいたしました。午前の陽光の下で見る五輪の塔は、最頂部・空輪の下辺から風輪・火輪にかけての表面を、薄い黄緑色の苔が柔らかに覆っていて、昔夕暮れ時に見たものよりもさらに深い味わいが感じられました。石の表面はザラザラしており、手のひらでそっと触れば気持ちが良さそうです。そして水輪(円石)の前面には如来仏が刻まれています。
私は18歳の時に初めて小林作品に触れて以来、幾十冊かの雑誌や単行本を漁ったのですが、ある雑誌の中に、鎌倉八幡宮境内にある県立美術館前での写真がありました。昔からの読者には馴染みの1枚と思われます。和服姿の小林先生とともに写っておられる、18~9歳の、マフラーをした明子さんはすらっとスタイルが良くて、右横の何かを見ている目には力が溢れておりました。
今回のお墓参りではその明子さんにお目にかかることが出来るというのです。これは、その昔、初めて写真を拝見した時には考えられなかった事であり、少しミーハー風に言えば、53年来の憧れでもあり、大きな楽しみでした。
さて、小林先生の文章に明子さんが出てくる箇所は何ヵ所かありますが、その一つは「人形」(『小林秀雄全作品』第24集、p.130)です。
大阪行きの食堂車で先生が食事を摂っていると、「前の空席に上品な老夫婦が腰をおろした」。「細君の方は、小脇に」「おやと思う程大きな人形」を「抱えている」。
「もはや、明らかな事である。人形は息子に違いない」。「妻は、はこばれたスープを一匙すくっては、まず人形の口元に持って行き、自分の口に入れる」。
「そこへ、大学生かと思われる娘さんが、私の隣に来て座った。表情や挙動から、若い女性の持つ鋭敏を、私は直ぐ感じたように思った」。「彼女は(中略)この不思議な会食に、素直に順応したようであった。私は、彼女が、私の心持まで見てしまったとさえ思った。これは、私には、彼女と同じ年頃の一人娘があるためであろうか」。
もう一つ「徳利と盃」(同、p.82)にはこんなエピソードがあります。
「思いもかけず、刷目の徳利と鶏竜山の盃とが、私の所有に帰したのは嬉しかったが、帰途、さてお礼をどうしたものかと考えた途端に当惑して了った。と言うのは、彼が欲しい物は(中略)、私には解っていたからである」「イランのギランの発掘で、何に使ったか知らないが、小さな金の押出しの装身具があった。それを彼はしきりに賞めていた。蛇が蛙をぐるりと取巻いている。(中略)蛙は鳥羽僧正の蛙のように、水っぽく、ぬらりとして、きょろきょろしたような、あわれなような感じを実によく出していた。それが気に入って買ったのだが、娘が欲しがったので、やって了ったから、今は私の所有ではない。仕方がない、娘を呼んで、と言うわけだから返してくれ、と言うと、こっちの言い分が、よっぽど馬鹿々々しかったらしく、大笑いで返してくれた」
ご命日の朝、11時近くになると池田塾頭を中心に仲間達が三々五々先生の墓石の前に集まって来ました。そうしているうちに明子さんがお嬢さんとともにお花とお水とお線香をお持ちになり、お線香を私達にも分けて下さいました。簡素で気持ちの良いお墓参りが始まりました。
その後は、席を、私達が毎月学んでいる山の上の家(旧小林秀雄邸)に移して、20数名が、明子さんを囲んで色々なお話をお聴きする事が出来たのです。明子さんが身に付けているジーパンには膝から下の部分に、赤の色調のお花が刺繍されていて、これがお洒落で、実によくお似合いでした。後で何人もの女性たちから、そのセンスに対して感嘆の声を聞いたほどです。
私は明子さんのお顔と眼の力、話す内容、声質とリズムに接して酔うような気持ちでした。そして時間の経過とともに、明子さんに、一度もお会いしたことがないのに、小林先生の姿がダブってくる不思議を覚えていました。
お話の中で、今振り返ってみると一番しっかりと覚えているのは、「物書きの中には、表面は華やかに見えても、内情は家庭の経済が大変なおうちが多かったようですが、わが家ではそんな事は全然なかったですよ」という話です。
そうでしょう。いくら小林先生の高名が響き渡っていたとは言え、ベストセラーを出す小説家と違い、それほど売れる性質の作品群ではないのですから、大変な時も必ずあったに違いない。私は自分の親の自営業の姿を見てきましたし、自分自身も商売を営んできた経験から、それは心底からよく分かります。それを克服したのは小林先生の「実行家の精神」と、家族に対する深い責任感と愛情であったに違いない。
上に引いた「人形」では、先生が大学生らしき娘さんの「鋭敏」を感じ取り、その娘さんが「私の心持まで見てしまったとさえ感じ」る。それは自分には同じ年ごろの娘がいるからだ、と書かれています。普通、父親というものは、娘を理解している事をそこまではっきりと明言出来ないものです。明快に断言出来るのは、常日頃、先生が如何に深く鋭く明子さんの気持ちを考えていたかの証左でありましょう。「人形」を初読した時に私はそこに、ポッと胸が温まるような感銘を受けました。
そして「徳利と盃」では、明子さんは、その父の気持ちに応えるように、父上からいったん貰った装身具を「返してくれ、と言うと、こっちの言い分が、よっぽど馬鹿々々しかったらしく、大笑いで返してくれた」というのです。大らかで豪放と表現したくなるような明子さんの、その時の笑い声が聞こえてまいります。まことに、この父ありてこの娘あり、ご家庭の空気が見えてくる気さえ致します。
常日頃、小林先生の作品から私は、先生が文学や歴史や美や哲学を如何に味わって、自分の思想を如何に打ち立てていったかに感嘆するのですが、今年の命日では、明子さんにお目にかかった事を契機として、ほんの少しではありますが、家庭人としての小林先生を想像する事が出来ました。
明子さんに心より感謝を申し上げます。
(了)