クマガイモリカズは、考える葦である

坂口 慶樹

「或朝の事、自分は一ぴきの蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へたれ下がっていた。他の蜂は一向に冷淡だった。巣の出入りに忙しくそのわきを這い回るが全く拘泥する様子はなかった。忙しく立働いている蜂は如何にも生きている物という感じを与えた。その傍に一疋、朝も昼も夕も、見る度に一つ所に全く動かずに俯向うつむきに転がっているのを見ると、それが又如何にも死んだものという感じを与えるのだ。それは三日ほどそのままになっていた。それは見ていて、如何にも静かな感じを与えた。淋しかった。他の蜂がみんな巣へ入ってしまった日暮、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。然し、それは如何にも静かだった」

 

中学生の時に新潮文庫で読んだ、志賀直哉氏の「城の崎にて」のこの一節は、私の体の奥深くに息づいていて、今でも何かの拍子にそれを思い出すと、頭の中がひんやりとしてくる感じを覚える。その文庫の表紙絵が、熊谷守一氏による「赤蟻」だった。守一氏は、志賀氏との親交が深く、例えば「志賀さんとは生成会で何度か会いましたが、鳥や虫や生きものの話題になると話が合った。植物の話もなかなか詳しかったが、わたしほど詳しくはありませんでした」と言っている(「蒼蠅 新装改訂版」、求龍堂)。

 

 

昨冬は、12月から3月にかけて、東京国立近代美術館において、熊谷守一氏(1880-1977)の大回顧展「生きるよろこび」(以下、本展)が開催された(その後、愛媛県美術館に巡回)。加えて、池袋の千早にある豊島区立熊谷守一美術館(以下、美術館)も含め集中的に足を運んでみたので、感じてきたことを綴ってみたい。

 

1.「轢死」(1908年、岐阜県美術館蔵)

当時の東京美術学校(現、東京芸術大学)近くの踏切(現、日暮里駅付近)で目の当たりにした、女性の飛び込み自殺を題材とした初期の作品である。ただ、画面の劣化が激しく全面真っ黒の様相で、初めて観た時には、横たわる女性の姿など、すこしも判別できなかった。しかし、会場に通うたびに、その姿は徐々に浮かび上がり、4度目には、はっきりと見て取ることができたことは不思議な体験であった。事件当日に描かれたスケッチと合わせて観ていくと、画家がその場で受けた衝撃と、その後、見知らぬ女性の孤独な死を見定めていった心持ちが伝わってくる。娘のかやさんが、こんなことを書いていた。

「地面を這う蟻や、花に来る虻をじっと見つめて描いたと言われる守一ですが、結局はひとの生と死を見つめて描いたと思われる。人の生を大事にするから生きとし生けるもの虫や猫などにまなざしが行く」(「モリはモリ、カヤはカヤ」、白山書房)

画家は、志賀直哉氏が、屋根の上に横たわる蜂を見入るがごとく、その女性の死を、静かに見つめていたのではあるまいか、私はそんなふうに思った。

 

2.子どもたちの死

人の死を目の当たりにした、ということでは、守一氏が、幼い次男を亡くした、まさにその瞬間を衝動的に描いた作品「陽ノ死ンダ日」(大原美術館蔵)も忘れられない。あまりに哀しい画である。彼の嗚咽が聞こえてくる。初めて本作を目撃した私は、ただただ立ち尽くすしかなく、涙が溢れて止まらなかった。彼の言葉を引いておく。

「苦しい暮らしの中で三人の子を亡くしました。次男の陽が四歳で死んだときは、陽がこの世に残すものが何もないことを思って、陽の死に顔を描きはじめましたが、描いているうちに、“絵”を描いている自分に気がつき、いやになって止めました。『陽の死んだ日』です。早描きで、三十分ぐらいで描きました」(「蒼蠅 新装改訂版」)

 

さらに、守一氏は、1947年、67歳の時に、長女の萬も亡くしている。萬は、戦時中の学徒動員による過労がたたり、肺結核を患い寝たきりとなっていた。その病中の萬を描いた作品群も本展にあったが、私が、より心動かされたのは、美術館で観た「仏前」(1948年)という、萬の供養に捧げられた作品である。氏らしい黄土色を背景に、両脇には仏具のようなものが置いてある。中央には、漆黒の盆の上に、白い卵が三個。氏の庭飼いの鶏が産んだものだという。

ベタ塗りの、ただそれだけの画である。しかし私は、三尊像のように、凛として微動だにせぬ盆上の白い卵三個に、深いかなしみを見定めようとしている、画家の心の動きを感じた。それは、前述の「陽ノ死ンダ日」の衝動的なかなしみとは別種の、より深いところを静かにゆっくりと流れている波動のようなものである。自ずと私は、かなしみの卵に向かい、と掌を合わせていた。

 

3.二つの「ひまわり」

守一氏の作品は、年代による画風の変化も見どころである。そのことについて、本人は、このように言っている。

「私の絵が長い間にずいぶん変わってきているので、どうしてそんなに画風が変わったのか、とよく聞かれます。しかしこれには『若いころと年とってからでは、ものの考え方や見方が変わるので、絵も変わった』としか答えられません。自然に変わったのです」(「へたも絵のうち」、平凡社ライブラリー)

1928年に描かれた「ひまわり」という画があった。作品名とは裏腹に、くすんだ水色を背景に咲くひまわりの黄色は暗い。筆致もせわしなく、少々粗っぽくも見える厚塗りの油彩である。何かきっかけがあって衝動的に描いたものではないかと直覚したが、確認すると、前述の「陽ノ死ンダ日」と同年の制作であった。

一方、約40年後の1967年に描かれた「向日葵」(静岡近代美術館 大村明氏蔵)という作品もある。より明るい水色を背景に、四輪のひまわりは、花も葉も、単純簡明な形にデザインされたようだ。ただ、よく観ると、中央の管状花の部分が、一輪だけ、他のオレンジ色とは異なり黄緑色に塗られている。このことにより、絵全体にリズムが生まれ、ひまわりの生命感をいっそう感じさせる。昭和天皇が、守一氏の作品を観て「子供の絵か」と訊いたという話を、本人も披露しているが、ただの単純簡明とはいかない所もまた、守一作品の面白さなのである。

例えば、後年になると、いわゆる「影」を意識的につけた作品は少なくなる。一見平板に見えてしまうのである。しかし彼は、その理由について、こう語っている。

「影がたくさんありますわね。あの影をよしてしまうんですわ。色の寄せ集めでけっこう代用すると思います。実際影ってものは、陰気なもんでしょう。そこを影のない色を寄せ集めれば、困るほど影が出てくる。そのほうが、実際の影より陰気じゃないですわ」(「ディアローグ・1」『みづゑ』第780号)

 

4.熊谷守一の書

守一氏は、多くの書も残した。

美術館に「古佛坐無言」(1975年)という書があった。じっと眺めていると、字の全体が古佛と化し、黙々と只管しかん打座たざしているように見えてくる。私が目にしたものは、もはや外形的な文字の形ではない。むしろ書の内面から浮き上がってきた、性質情状あるかたちとも呼ぶべきものである。

書について、守一氏は、こんなことを語っている。

「何時だったか、わたしに信心の心があるかって聞かれたことがあります。実際に仏様を拝んだり、地獄極楽の世界を信じたりするのでなしに、こういうのが信心かなと、自分の心に思うことはよくあります。そういう意味では信心の心があると思います。『南無阿弥陀仏』の字にしても、信心があるのとないのと、書いた人で違います。見ればわかります」(「蒼蠅 新装改訂版」)

揮毫に臨み、題材となる字を聞いて「自分の心に思うこと」を、性質情状として、文字に表したのが、まさに彼の書なのであろう。「かみさま」、「すずめ」、「なのはな なのはな いちめんの菜の花」など、揮毫のすべてが、そのように出来上がっているように感じる。

ちなみに、志賀直哉邸(渋谷区東)に掲げられていた扁額「直哉居」も、守一氏の手になるものであった。

 

5.喜雨(制作年不詳)

1956年、76歳の時、守一氏は軽い脳卒中の発作を起こした。この頃から、外出も叶わなくなり、千早の自宅内だけが、すべての活動の場となった。したがって、後年の作品の題材に、元々好んでいた、猫や鳥などの動物や、蟻や蝶などの昆虫、そして草花が多くなるのは自然の流れでもあった。本人によれば、「遅い昼食のあとは夕方まで昼寝です。以前はよく庭にむしろを敷いてそこに寝ました。地面の高さで見る庭はまた別の景色で、蟻たちの動きを見ているだけで夕方になったときもあります」という。

写真家、土門拳氏に師事した藤森武氏は、最晩年の守一氏を撮影された方で、当時の守一邸について、このように言っている。

「庭もとても小さいんですが、先生が掘った深い池があって、僕は見た時、防空壕の穴かと思いました。もうだいぶ水が枯れてしまいましたが、魚なんかもいたらしいです。その掘った土が大きな築山になって、先生はその下にムシロをしいて寝転がって、虫や鳥を観察するんですね。『蟻は左の二番目の足から歩き始めるんだよ』と言っていましたが、築山から降りてくる様子をじっと見ていたからわかったんじゃないかと思います」(「目の眼 2018年2月号」、目の眼)

守一氏は、もはや蟻や鳥を観察しているのではなく、自らが庭の動植物と化していたのだろう。少なくとも、観察されていた蟻には、そのように見えていたに違いあるまい。そうでなければ、家ネズミを飼い馴らすことなど、通常の人間には至難の業であるからだ。確かに彼は、人間というものに対して、こんな懐疑の念を表明していた。

「人間というものは、かわいそうなものです。絵なんてものは、やっているときはけっこうむずかしいが、でき上がったものは大概アホらしい。どんな価値があるのかと思います。しかし人は、その価値を信じようとする。あんなものを信じなければならぬとは、人間はかわいそうなものです」(「へたも絵のうち」)

 

そんな守一邸の跡地に建った美術館に、「喜雨」という素描があった。作品名の通り、6匹の蛙が、慈雨を喜んでいるという、単純簡明なものだ。大ざっぱな鉛筆描きにも拘わらず、蛙たちが喜び踊る様を観ていると、何故かこちらまで心が浮き立ってくる。観ると、感じると、動くが一体化したような、その不思議な感覚は、仮に、守一氏が「喜雨」と揮毫した書があったとして、それを観て直覚するものと同じものなのであろう。

私は、そんなことを思いながら、彼の、こういう言葉を思い出していた。

「川には川に合った生きものが棲む。上流には上流の、下流には下流の生きものがいる。自分の分際を忘れるより、自分の分際を守って生きた方が、世の中によいとわたしは思うのです」(「蒼蠅 新装改訂版」)

「私はだから、誰が相手にしてくれなくとも、石ころ一つとでも十分暮らせます。石ころをじっとながめているだけで、何日も何月も暮らせます。監獄にはいって、一番楽々と生きていける人間は、広い世の中で、この私かもしれません」(「へたも絵のうち」)

 

彼にとって、自宅から外出できないということは、制約でも、監獄でもなかった。むしろ自宅や庭にあった小さな森には、限りない宇宙が広がっていた。そのなかで、愛する動植物たちとともに棲んだ熊谷守一は、見て、感じて、考え、描いた。かつ、それらの動きは、すべてが同時性をもって一体化していたように思う。

 

 

「人間は考えるあしだ、という言葉は、あまり有名になり過ぎた。気の利いた洒落だと思ったからである。或る者は、人間は考えるが、自然の力の前では、葦の様に弱いものだ、という意味にとった。或る者は、人間は、自然の威力には葦の様に一たまりもないものだが、考える力がある、と受取った。どちらにしても洒落を出ない。

パスカルは、人間は恰も脆弱な葦が考える様に考えねばならぬと言ったのである。人間に考えるという能力があるお蔭で、人間が葦でなくなる筈はない。従って、考えを進めて行くにつれて、人間がだんだん葦でなくなって来る様な気がしてくる、そういう考え方は、全く不正であり、愚鈍である、パスカルはそう言ったのだ。そう受取られていさえすれば、あんなに有名な言葉となるのは難しかったであろう」

 

これは、小林秀雄先生の「パスカルの『パンセ』について」という作品の中の言葉である(新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)。難しい文章であり、頭ではわかったつもりでも、その理解に、うまく身体が付いていかないことを、ずっともどかしく覚えていた。今回改めて、熊谷守一氏の作品や言葉と、じっくりと相まみえてみたことにより、そこで小林先生が言わんとしたところを、体感できたように思った。

私は、確信した。クマガイモリカズは、考える葦であると。

 

 

私たち塾生にとって大切な学び舎である、小林先生の旧居、山の上の家の応接間にも、そんな守一さんの書が掲げられていた。その書は、先生が京都の骨董屋で一目見て気に入り、貰ってきたものだという。多くの来客を迎えてきたその書の白地は、今では、煙草の煙で茶色に変色してしまっている。そこには、こんな言葉が、書かれていた。

 

「ふくはうち をにはそと」

 

 

【参考文献】
* 「別冊太陽 小林秀雄」(平凡社)
* 「目の眼 2018年2月号」(目の眼)

 

【参考情報】
愛媛県美術館「熊谷守一 生きるよろこび」 4/14(土)~6/17(日)
豊島区立熊谷守一美術館「熊谷守一美術館33周年展」 5/11(金)~6/24(日)
志賀直哉旧居(奈良市高畑町)
 ご遺族から寄贈された扁額「直哉居」が、入口に掲げられている。

(了)