生きるとは何か。人生とは、道とは何か。いつの頃からか、そのような漠然とした不安とともに、山の上の家に、迷子のように辿りついていたように思う。通信簿で1をとるほど、国語の苦手な私が、小林秀雄の本を読むなど、まして、池田塾の同人誌の原稿をこうして書こうなど、夢のまた夢であり、人生とはなんなのか、またもや迷いの淵に立っているのだが、辿りついてみないとわからないものだと、小林氏の声が聞こえるようで文字を書きはじめている。
小林秀雄氏を知ったのは、池田塾の募集に応募してからで、それまで氏の名前は響きとしてどこかに記憶されていただろうというほどのものであった。池田塾という名の、何かがあるという引力だけが私を引き寄せていたように思う。引き寄せられるままに聞いたのが、小林氏の講演を収録したCD「本居宣長」(新潮CD「小林秀雄講演」第三巻)である。その氏の語りを切り取ることは、全体の文脈を壊すことになりかねず、趣は氏の生きた声で語られるからこそであることは承知であるが、私の心を掴み、肉声となって聞こえてきた氏の声を、自問自答のはじまりとして、文字に起こさせて頂く。
――「ご承知のように、ソクラテスは、あの人は、一行も物を書かなかった人です。ソクラテスの書いた本なんてありゃしません。ソクラテスを登場人物として、プラトンがあとから書いていますけどもね、ソクラテスは何も書かないで死んだ男なんだ。そのソクラテスがこういう話をしてる、面白いがね、これもまた、宣長さんとおんなじなんです。僕はそれを読んでいて、あーこれは宣長だなぁと思った。宣長も、文字というものを軽蔑してたんです」……
この氏の語る「宣長も、文字というものを軽蔑してたんです」であるが、「軽蔑」という言葉に私の心は鷲摑みされていた。
私は、子供の頃から国語に対して嫌悪感を抱いていた。その理由がわかったのは大人になってからで、ナレーターを仕事とされる方に、私の朗読を聞いてみていただいたとき、どこか人と違うという指摘を受けた。難読を機能的にもっているのではないかということだった。今では、そんなこともあろうかというぐらいだが、確かに子供の頃から摑み所のない不安があった。
何処を読んでいるかわからなくなり、鉛筆でなぞりながら読んでいた。そして漢字に丸をつけ、ひらがなは一つ一つを追い、その構成する意味で区切り斜線を引く。例えるなら、ひらがなの一つ一つは、五線譜のない譜面に行き場を失い、音を奏でる自由を奪われた音符のようで、その文字は紙と黒いインクの色彩にゆらぎ、読み進める視線にずっしりと抵抗感を生み出していた。意識すればするほど怖かった。
そういった言語経験のうちに、今は気づかずに、線を引く時もあるが眺めるように読んでいる。
小林氏の「軽蔑」という言葉は、私のこの経験的な無意識に、鍵となって扉を開け、光となって飛び込んできていたように思う。
「軽蔑」の意味を、宣長の「くず花」を引き、小林氏は講演で語っている。
――「古ヘより文字を用ひなれたる、今の世の心もて見る時は、言伝へのみならんは、万の事おぼつかなかるべければ、文字の方はるかにまさるべしと、誰も思ふべけれ共、上古言伝へのみなりし代の心に立ちかへりて見れば、其世には、文字なしとて事たらざることはなし、これは文字のみならず、万の器も何も、古ヘには無かりし物の、世々を経るまゝに、新に出来つゝ、次第に事の便よきやうになりゆくめる、その新しく出来始めたる物も、年を経て用ひなれての心には、此物なかりけむ昔は、さこそ不便なりつらめと思へ共、無かりし昔も、さらに事は欠かざりし也」……
読み上げた氏の声は、大きな世界観をもって、静かに刃物のように次の言葉を切り出した。
――「人生ってものは、そういうもんだって言うんだな」…
この宣長のわずか数行の言葉に、「人生ってもの」があると言うのだ。私は時がとまるような思いで耳をかたむけた。
古の文字なき世には、文字なき世の心がある。今の心をもって昔を見ると、さぞかし文字のない世は不便であるように感じるが、そうではない、文字なき世は文字が無い故に、心を動かし、心で記憶していた。その記憶こそが精神の働きである。託する文字がない故に、頼る物がない昔は、自分自身を頼るしかなかったであろう、自分の心を信じるしかなかっただろう。だから、心に記憶していた。驚くべき記憶力だった。
精神の力で、過去の力をいつでも呼び覚ましているからこそ、生きている。精神の力っていうものが生きている。そして過去を呼び覚ます精神の力が知恵である、と、小林氏は言う。
氏の言う「軽蔑」は、文字への軽蔑ではなく、現代の、何かにつけて何かに託そうとする私たちの精神に対する軽蔑である。私たちは、便利な世の中でいろんな物に自分を託している。自分のこころを働かせることが少なくなってしまっている。そういう現代人に対し、昔の人は、みんなこころを働かせていたのだと言うのだ。
そして、文章は、一生懸命読むとみんな難しいと言う。本当は、どういうことを言いたかったんだろうと思って読むと、文章はみんな難しい。文章の底には、みんな人間がいる。その人間が、いったいどんなつもりで言語表現をしたのか、ちょっと考えれば文章はみんな難しい。たった一つの歌だって、この歌人はいったいどういう心持ちで歌ったんだろうかと思って読むと、歌ってものはいくら読んでも難しい。
そう語り、小林氏は、外から摑む「難しい」という言葉を、内から摑む言葉に切りかえる。
――「難しいとも言わない。『味わい』というものがあるじゃないか」……
文字に対する私の嫌悪感は、自分自身を外から文字に託した私の愚昧な心である。精神の裡から摑む光輝な氏の言葉は、崇高な光をもって、私を鞭打っていた。そして、味わいのなかで歌人の顔が見えてくる、と言うのである。
宣長は、文字の徳が、言伝えの徳に取って代わった、などと言っているのではないと小林氏ははっきり言っている。言伝えの遺産の上に、文字の道が開かれる事になったのだが、これは、言霊の動きを大きく制限しないでは行われはしなかった、そういう決定的な事に、世人が鈍感になってしまったと言う。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集、172頁6行目)
私達の母国語は、文字を生み出した歴史を持たない。帰化人に託して、外部から漢字がもたらされた。私達の言伝えの豊かな言霊の動きは、借りた漢語の殻には納まるはずがなく、生きてもがき、コンクリートを割って芽をだす草木の如く、想像を絶する時間との戦いのうちに、言霊の力が内部から母国語として、新たな姿を成して来たのだ。そういう逆境において己を摑み直す言霊の動きに、万葉歌人の鋭敏な愛着と深い信頼の情は「言霊のさきはふ国」という言葉をつむぎだす。小林氏は時代の「おもむき」を言霊の歴史的生態に見ている。
また小林氏は、「詞の玉緒」に、宣長のこの言語問題の扱いを見ている。宣長は、言語という「物」に、外から触れる道を行かず、言語を使いこなす私達の心の動きを、内から摑もうとすると言う。私達に与えられた道具には、私達の力量を超えた道具の「さだまり」というものがあるだろうと言っている。「さだまり」は、古より湧き流れる言霊が文字という道具と合体して、まるで私達が母親から生まれ、受け継がれた肉体と精神をもち、悩み苦しみ人生の道を切り開くように、繰り返し引き継がれ、生きられた姿なのだ。古より受け継がれた「さだまり」の姿は、私達自身だと言っていいだろう。氏は言う、私達はこの「さだまり」を意識しながら、「さだまり」に捕らえられているからこそ自在に言葉を使いこなせると。内から摑もうとする宣長は、その言霊の流れを常に見る。湧き流れる精神の内に、自由になれるのだ。物質や時間をも超え、生きた経験を知ることは、己を知ることだと言っているのだ。
私の国語に対する嫌悪感は、この、「さだまり」に捕らえられているからこそ私たちは自在に言葉を使いこなせる、という小林氏の言葉によって打ち消されていったように思う。
「本居宣長」第30章にある、小林氏の言葉を引きたい。
――過去の経験を、回想によってわが物にする、歴史家の精神の反省的な動きにとって、過去の経験は、遠い昔のものでも、最近のものでも、又他人のものでも、己れ自身のものでもいいわけだろう。それなら、総じて生きられた過去を知るとは、現在の己の生き方を知る事に他なるまい。人間経験の多様性を、どこまで己の内部に再生して、これを味わう事ができるか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう。こうして、確実に自己に関する知識を積み重ねて行くやり方は、自己を離脱することを許さないが、又、其処には、自己主張の自負も育ちようがあるまい。(同、350頁18行目)
小林氏の言葉の根底には、「無私と自足」が高次な経験の豊かな流れを生み出す、「物のあはれを知る」という「道」の、宣長の情の泉と小林氏の精神がともに底流する。
さて、もう一度、小林氏の講演に戻る。
氏は言う。本なんかには、哲学の一番肝心なことは書かれていないと、プラトンは手紙に書いている。本当はそうかもしれない、人の知恵が一番伝わるということは、こころを開いて、人と語り合うしかないんだと、ソクラテスと同じことを言っている。そして小林氏も宣長もまた同じことを考えていた。この源泉たる問答は、小林氏が言う、知ることと感ずることが同じであるような、全的認識力の直覚であろう。本質を直に摑み、真理を問う純粋な精神にとって、時に、文字や言葉は副次的な物であろう。
小林氏の講演の声を、私たちに届けてくださった新潮社に、心から感謝する。
私は今、北鎌倉の骨董屋で偶然見つけた山桜の短刀の鐔と、小林秀雄氏の「本居宣長」を常に持ち歩いている。
(了)