「全的な経験」の価値 ―吉田悦之館長をお迎えして

吉田 宏

「今日は、旧暦では五月(さつき)の四日ですね」と、冒頭、吉田悦之館長は言われた。吉田館長が作成された本居宣長の年譜を見ていると、吉田館長のお仕事は本居宣長から地続きで行われているように思われる。本居宣長の仕事は終わっていないのだ。そしてこう続けられた、「本居宣長の学は、実践の学です」と。

2018年6月17日、山の上の家で初めて外からの講師となる、本居宣長記念館の吉田悦之館長が講義をされた時のことである。

 

吉田館長は、招聘された一講師ということではもちろんない。吉田館長と池田塾とのおつきあいは、池田塾第1期生の須郷信二さんのご尽力により、2014年10月19日、吉田悦之館長、池田雅延塾頭、茂木健一郎塾頭補佐によるトークイベント「小林秀雄『本居宣長』の魅力~私が『本居宣長』を鞄にひそませるわけ~」が松阪市で開催されたことに端を発している。2015年には、同じく松阪市で開かれた鈴屋学会と本居宣長記念館共催の公開講座「宣長十講」で「小林秀雄と宣長の謎」と題して池田塾頭が講義を行った。また、2017年には、津市で開催された「宣長サミット」のパネルディスカッション「今、なぜ、宣長か」(パネリスト:田中康二、ピーター・J・マクミラン、森瑞枝、吉田悦之の各氏)に池田塾頭がコーディネーターとして参加した。その間も、須郷さんをはじめとする塾生たちが、幾度となく本居宣長記念館や奥墓を訪れ、吉田館長や学芸員の皆さんにご案内をいただいたりし、同館で学びを続けておられる松阪の人たちと同席・交流させていただくこともあった。それらを思い起こせば、機が熟して吉田館長を池田塾にお迎えしたというのが最も相応しいだろう。もちろんこのたびも須郷さんの周到なご配慮があったことはいうまでもない。

 

吉田館長から本居宣長の話をお聞きする時、実に生き生きとしたものを感じ、時間があっという間だったという人が多いと思う。その一部を紹介したい。

 

「古典あるいは人と徹底的に向き合ったのが宣長です」

「十代の宣長は書斎で本と向き合っていた。歌を唱和するにしても誰もいなかった」

「宣長は個の時間と集団にいる時間を行きつ戻りつしていたが、集団の中にいてもいつでも個になれた」

「堀景山という先生にめぐり合い、仲間を得ることによって、学問が飛躍的に進みだした」

「宣長は人と会うのが大好きだった。古典を通じて過去の人とも対話したし、未来を見据え、未来の人とも対話をしていた。そうして志をだんだん育ててゆくことができた人だった」

「宣長は非常に効率の悪い方法で学問をした」

「宣長は、何事も自分の一生のうちに結論は出なくてもよいと考えていた」

「日本という国を自分の手で(地図を書くことで)全部体験している。怖いものを感じる」

「エンドレスで自分の知識を更新してゆく。ばらばらだった知識が繋がってくる。今はみんな賢くなって、無駄な事をしなくなった。自分の専門分野の本だけを読み、あらゆる本を興味を持って読む人がいない。宣長が今の学問界を見たらがっかりします。国文学はやがて衰退するでしょう」

「宣長は暦がない時代に思いを致し、喜びを感じていた。そういう喜びに自分の喜びを重ね合わせたのが小林秀雄さんだった。今の時代は、そういうことをするのは難しいが、幸いにも小林秀雄さんが挑んでくださった。よき先達であり、あらまほしき人です」

「宣長の全体と向き合った最後の人が小林さんだった」

「小林さんの『本居宣長』を読むのは、実践の学といえる」

 

聞きながら、ふだん池田塾で小林秀雄先生を学んでいることと、一致していることが多いと感じられたのはなぜだろうか。本居宣長と小林先生には、何かを分かるということに際しての、歳月のかけ方が似ているということがまずある気がした。そして、その際、広くいえば、想像力の用い方が、似ているのではないだろうか。

 

吉田館長は「自分の専門分野のことだけをしている」と今の学問界の問題を指摘されたが、それを聞いて私は「本居宣長」の中にある、小林先生の文章を思い浮かべた。

 

「観察や実験の正確と仮説の合法則性とを目指して、極端に分化し、専門化している今日の学問の形式に慣れた私達には、学者であることと創造的な思想家である事とが、同じ事であったような宣長の仕事、彼が学問の名の下に行った全的な経験、それを想い描く事が、大変困難になった……」

(「小林秀雄全作品」第27集、p.214)

 

そして、小林先生の言葉も合わせて次のように考えた。なぜ私達は、「宣長の仕事」を「想い描く事が困難」になってしまったのだろうか。「本居宣長」全体を読むと、宣長の「学問の名の下に行った全的な経験」の根幹にあるのは、想像力だと思われる。では、今日の「極端に分化し、専門化している」学問の形式に慣れた私達の想像力はどうなっているのだろうか。ある形式の内に自覚無く居続けることによって、自由に想像力を馳駆する能力が衰えているばかりか、「合法則性」からかけ離れた「想像力」というものが信じられなくなっているのではないだろうか。自らの「全的な経験」の価値などは思いも寄らず、それを積むことも眺めることも深めることもできない不幸に陥っているような気がする。これでは歳月をかけて、想像力を存分に発揮し、何かに向き合うことなど、とうていできないだろう。

「幸いにも小林秀雄さんが挑んでくださった。よき先達であり、あらまほしき人」と吉田館長は言われた。挑むという表現が、その実行の困難を深く表しているように思った。逆にいえば、学問をするには、それぐらいの覚悟が必要だということだろう。

 

最後に、大変印象に残った、吉田館長が話されたご自身のことについて書きたい。これは、夜になってからの歓迎会の席のことなので、ここでご紹介することは躊躇したのだが、それがなかったら「今の自分はない」と言われるほどの貴重なご経験のお話だったので、お許しいただきたい。

本居宣長記念館で働き始められた頃から、理由は詳しくは仰らなかったが、よんどころない事情で(よくない意味ではない)、ほとんど仕事らしい仕事ができずに、「10年ぶらぶらした」そうだ。お聞きしたその一日のスケジュールは、何かにつけていろいろと喧しい昨今と比べると、破天荒といってもよくて、宴席は哄笑と羨望のため息に包まれた。もちろん誇張してお話ししてくださったのだが、凄みを感じたのは、ただ10年何もせずぶらぶらしたのではなく、一人で「本居宣長全集」を読んでいたと言われたことだ。そこで何かに「開眼」されたのであって、その期間がなかったら「今の自分はない」ということだろう。

吉田館長のお話を伺っていると、いつも全体から余裕のようなものを感じる。誰でも10年ぐらいは、こうあらねばならぬという枠組みから距離を置いて(何も飛び出す必要はないと思う)、「ぶらぶらする」とよいのではないだろうか。まずは、手軽な答、あるいは正解などは、大したことではないという当たり前なことが、はっきりと感じられはしまいか。

 

(了)