やすらかにながめる、契沖の歌

坂口 慶樹

小林秀雄先生が「宣長の自己発見の機縁」になったと明言する、江戸前期の真言僧にして古典学者である契沖(1640~1701)については、「本居宣長」の第六、七章で詳述されるのみならず、章を問わず言及されている。そのことに興味を覚えた私は、昨秋、彼が吸った空気を直に感じてみたいと、住持した妙法寺(現、大阪市東成区大今里)と隠棲した円珠庵(現、同天王寺区空清町)を訪れ、それぞれの場所の、往時の喧騒と静寂とに思いを馳せた。

そんな思いから、彼が生涯にわたって詠み続けてきた歌が収められた『漫吟集類題』(契沖全集 第十三巻 和歌、岩波書店)も入手し、六千首の和歌を、幾度となくながめてみた。ここで、敢えて「ながめて」と書いたのには理由がある。契沖が「万葉集」や「源氏物語」を前にして貫いた態度、すなわち、小林先生が「先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直に見なければならぬ」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集、p.69)という態度にまねぶことが必須であると直覚したからである。

 

さっそく、契沖の歌を数首取り上げ、ながめてみることにしたい。

まずは、彼が身の回りの自然や、四季の変化を見つめ、感得したところの歌である。

 

音羽河おとはかわ きいれて植うる早苗にも 秋待つ民の 心をぞみる

(漫吟集類題 巻第五 夏歌上 1652)

水の色も 空に通へる 天河 星やは蛍 蛍やは星

(巻第四 夏歌下 1737)

秋は今 草の末葉うらばの 虫の音も 夜な夜な細き 有明の月

(巻第八 秋歌下 2988)

霜月の八日の朝、初雪の降れるに

鳥の音も 鐘も寝覚めの 後ながら 今朝驚くは 庭の初雪

(巻第十 冬歌下 3290)

 

青々とした水田に並ぶ早苗の緑に、農民の心持ちを、思う。

見渡せば、きらめく星と、蛍の光が、まじり合う。

か細い虫の音を耳にする夜、静かに浮かぶ、痩せた眉月まゆづき

そして、真白に一変した庭の景色に、はっと息を呑む朝。

契沖が、それらの事物を静かに見つめている姿が、その眼差しが、目に浮かんでは来ないだろうか。

 

肥後守ひごのかみ加藤清正に仕えた下川又左衛門元宜もとよしを祖父に持つ「契沖は、七歳で、寺へやられ、十三歳、薙髪ちはつ(坂口注:剃髪)して、高野に登り、仏学を修して十年、阿闍梨位を受けて、摂津生玉いくたま曼陀羅院まんだらいんの住職となったが、しばらくして、ここを去った」(同第27集、p.79)。

その後の消息については、高野山での修行時代から親交のあった義剛ぎごうによる「禄契沖師遺事」に詳しい。

「室生山(坂口注:奈良県宇陀郡から三重県名張市、一志郡にまたがる火山群)南ニ、一厳窟有リ、師ソノ幽絶ヲ愛シ、以為オモヘラク、形骸ヲ棄ツルニ堪ヘタリト、スナハチ首ヲ以テ、石ニ触レ、脳血地ニマミル、命終ルニヨシナク、ヤムヲ得ズシテ去ル」

何があったのか。徳川幕府による「寛永の諸大名の改易没収」の最中、特に豊臣氏に近かった家柄として自家の食禄を奪われる、という仕打ちへの憤りか。その影響を受け、わが兄弟も、まるで「さそり(坂口注:ジガバチの古名)の子」のように散り散りになってしまったことへの嘆きなのか。それとも、高野山の実態を認知したがゆえの幻滅か…

さておき、そのような、契沖の大いなる嘆きの数々を、もはやこれら四季の歌に見ることはできない。彼の眼差しは、ひたすら静かで、やすらかなのである。

 

続けよう。「漫吟集」のなかで、次に目が留まるのは、他人のかなしみに寄り添う哀傷歌である。おそらく寺の住持として日常的に多く見聞きしてきたのであろう。詞書もよく読んでおきたい。というのも、小林先生が、契沖と同様に、いわゆる隠士としての生き方を貫いた西行について書いた作品の中で「西行の様に生活に即して歌を詠んだ歌人では、歌の詞書というものは大事である」(同第14集、p.184)と注意を促しているからである。

 

娘を尼になしたる人の、その尼亡くなりて後、残れる衣を見て嘆くを聞て

脱ぎ捨し その着慣らしの 古衣ふるごろも 思ひも出し たち縫はずして

(巻第十二 哀傷歌 3840)

人の娘失へるを、ほとへ聞て、とぶらひつかはすに

亡き人に 頼むしるしの 忘れ草 花に咲てや 顔に見ゆらん

(同 3855)

捨て子多しときくころ

子を捨る 親の心や いかならん 返り見しつゝ 幾度いくたびか泣く

(同 5833)

 

契沖が見つめていたのは、事物や四季の運行だけではなかった。他人の哀しみもまた、静かに見定めていた。こんな歌があった。

 

ともしびを 人のためにと 掲ぐれば 心の闇も 残らざりけり

(巻第十一 釋教歌 3714)

 

小林先生が、「本居宣長補記Ⅰ」(『小林秀雄全作品』第28集所収)において、「この作の発想には、宣長の基本的な考えに、直ちに通ずるものがあると思われる」と言う、プラトンの著作「パイドロス」から引用し、ソクラテスが、宣長の言う「言霊」について語っていると紹介されている、こんなくだりがある。

「この相手こそ、心を割って語り合えると見た人との対話とは、相手の魂のうちに、言葉を知識とともに植えつける事だ、―『この言葉は、自分自身も、植えてくれた人も助けるだけの力を持っている。空しく枯れてしまう事なく、その種子からは、又別の言葉が、別の心のうちに生れ、不滅の命を持ちつづける』」

 

他人の哀しみに寄り添い、それを歌という言葉に変えて描写してきた契沖は、そういう行為を通じて、自らの大いなる嘆きを解かしていたのではあるまいか。のみならず、契沖の歌の言葉は、自らのこころの動きを、言葉にして詠んでもらった、その当事者たちをも助ける力となっていたのかも知れない。

 

さて、ここまでは、契沖の、生活記録と言ってもいいような独詠の歌をながめてきたが、数多の歌のなかでどうしても目に留まるのが、心友、下河辺しもこうべ長流ちょうりゅう(1624~1686)との唱和、いわゆる贈答歌のやりとりである。ちなみに長流もまた、契沖と同じように、武門の出でありながら、終には隠士として生きた人であったと言われている。

そんな二人の唱和は、長流が逝くまで永く続いた。小林先生も「本居宣長」本文にいくつか挙げているので、ここでは、そこには登場しない、唱和の姿をながめてみたい。

 

その桜を長流か伴ふ人、ふたりみたりして見に詣で来て、
暮れぬ、帰りなんと言へる折によめる
契沖

とめとめす 庭の桜に まかせしを 夕日に増る 花な見捨てそ

(巻第三 春歌下 1090)

かへし
長流

とくと見て 今日はたはれし 花の紐 夕べと聞けは なれしとそおもふ

(同 1091)

契沖の住持した曼陀羅院の花見に、長流が訪れ、とっぷりと日も暮れた時のことであろうか。私は、子どもの時分、友だちと夢中になって遊んでいて、屋外スピーカーから「夕焼け小焼け」の歌が流れてきたときの、切ない気持ちを思い出してしまった。

 

もう一つ、こんな唱和がある。二人は、離れた場所に住んでいた。

 

山住より、長流のもとへつかはしける
契沖

君といつ いほり並べて 中垣の 一木の梅を 二木ふたきとも見ん

(巻第二十 雑歌四 5626)

かへし
長流

我もいつ 庵並べて 松垣の ひまなく物を 君と語らん

(同 5630)

 

ここからも、小林先生の言うとおり「『さそりの子のやうな』境遇に育ち、時勢或は輿論よろんに深い疑いを抱いた、二つの強い個性が、歌の上で相寄る様が鮮かに見えて」は来ないだろうか。「唱和の世界でどんな不思議が起るか、二人は、それをよく感じていた。孤独者の告白という自負に支えられた詩歌に慣れた今日の私達には、これは、かなり解りにくい事であろう。自分独りの歎きを、いくら歌ってみても、源泉はやがて涸れるものだ」(同第27集、p.81)。

もちろん、自らのこころの動きを静かに見定め、それを言葉という道具を使って歌にする独詠という行為を通じて、激情は純化されよう。しかし、小林先生は、それだけでは足りない、と言うのである。

「めいめいの心に属する、思い解けぬ歎きが、解けるのは、めいめいの心を超えた言葉の綾の力だ。言葉の母体、歌というものの伝統の力である。二人に自明だった事が私達には、もはや自明ではないのである」(同p.82)

自らの魂の中に、唱和者の言葉を得た契沖は、長流に、こんな歌を贈っていた。

 

我をしる 人は君しも 君を知る 人もあまたは あらじとぞ思ふ

(巻第十八 雑歌二 5148)

 

小林先生は、こう自問自答している。

「長流が、契沖の唯一人の得難い心友であったという事実は、学問上の先輩後輩の関係を超えるものであり、おもうに、これは、契沖の発明には、なくてかなわぬ経験だったのであるまいか」(同p.83)

 

私は、こんなふうに、契沖の独詠を、そして、長流との唱和の姿を、幾度となくながめてみた。そうしてみたことで、契沖のこころの動きに、直に触れられたような気がした。そこにあるのは、日常の実生活の中で、やすらかに歌を詠み続けてきたという行為のみである。儒教的・仏教的な道徳規範による解釈や、既存の権威的存在からの伝授など、入る余地はない。契沖にとって、詠歌とは「師ニ随ツテ学バズ、義ヲシラベテ解セズ」(「厚顔抄」序)、「わが心を見附ける道」であり、「長流の知らぬ心の戦い」でもあったのである。宣長が師と仰いだ契沖の歌学は、このような心の戦いを続けながら、わが心を発見する道を歩んでいくなかで、築き上げられていったものではあるまいか。

 

先に小林先生の「本居宣長補記Ⅰ」から引いた応答に引続き、ソクラテスは、パイドロスに「魂の中にほんとうの意味で書きこまれる言葉」という文言を繋げている。この言い方を借りるなら、契沖は、事物と向き合い、他人と向き合い、そして自分自身と向き合ってきた詠歌の経験を通じて「魂の中にほんとうの意味で書きこまれる言葉」の大事を、そういう言葉の綾の力を、悟得するところがあったと言ってもいいように思う。その経験は、のちに契沖が、長流のあとを継いで「万葉代匠記」に着手し、「先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直に見なければならぬ」という態度、すなわち宣長が言う「大明眼」を開くことになる原体験でもあったのではなかろうか。

 

【参考文献】

池田雅延「小林秀雄『本居宣長』全景(八)『あしわけ小舟』を漕ぐ(上)」(本誌2018年1月号)

同「同(九)『あしわけ小舟』を漕ぐ(下)」(同2月号)

同「同(十)詞花をもてあそぶべし」(同3月号)

久松潜一「契沖」吉川弘文館 人物叢書

藤沢令夫訳「パイドロス」、『プラトン全集』、岩波書店

(了)