十四
ひどく退屈な街である。名高い祝典劇場は町はずれの森の中にある。これも全く無表情な建築であり、中に這入ってわかった事だが、劇場というよりむしろ巨大な喇叭なのである。全オーケストラを下に隠した舞台に向って、扇形にぎっしりと椅子が配置されている。通路もない、柱もない、二階もない。私達は喇叭の脇腹から番号順に詰込まれ、ドアを締められ、電気を消され、息を殺す。私は、バイロイトの劇場に来る者は、自分の趣味を家に置去りにしたワグネリアンという白痴になる、というニイチェの言葉を思い出していた。(「バイロイトにて」)
小林秀雄がワグネリアンの聖地バイロイトに到着したのは昭和三十八年八月二十三日の午後、宿泊先である郊外の退役軍人宅に荷物を置くや、市街へ引き返し、街角の本屋で「ニーベルングの指環」のフランス語訳を買い込むと、さっそくカフェテラスに入って読み始めたという。
四夜続くこの長大な劇場作品の序夜「ラインの黄金」は、その日の夜に上演され、翌二十四日に第一夜「ワルキューレ」、二十五日に第二夜「ジークフリート」、そして一日休みを挟んで第三夜の「神々の黄昏」が上演された。当地での案内役を引き受けた西村貞二の旅行記(「小林秀雄とともに」)によれば、中休みの日を含めて、小林秀雄は劇場で過ごす以外の時間はほとんど宿泊先に引き籠もり、ひとり「指環」の台本を読み続けたらしい。ちょうどワーグナーの生誕一五〇年、没後八〇年に当たる年で、七月二十三日の音楽祭開幕日には、この祝祭劇場で上演されることを許されたワーグナー以外の唯一の作品であるベートーヴェンの第九交響曲が演奏され、八月二十七日、小林秀雄が観た「神々の黄昏」をもって、この年のバイロイト音楽祭の幕が閉じられた。翌日、一行はフランクフルトに戻っているから、ただこの作品を聴くためだけに、小林秀雄はこの街を訪れ、五日間を過ごしたのであった。
その動機と感想を、彼はまず次のように語っている。
こんどバイロイトに行って、「指輪」を聴きましょうと思ったのは、こっちでは機会がないし、あの作曲はあの人が一生かけたもんだし、あれを聴けば、だいたいワーグナーというものは、こういうものかと納得できるだろうと思って聴いた。それはつらい骨の折れることだった。あのなかに入ってね、ときどき強い感動があるのですね。ぼくら、ほんとうにはよくわかりません。音楽的教養がちゃんとあって、ワーグナーを聴くなら別だが、ぼくらみたいなただ音楽が好き、面白いというだけなら先ず退屈なものですわ。(「音楽談義」)
初めて訪れたバイロイトでのワーグナー体験が、「つらい骨の折れること」であり、「先ず退屈なもの」であったのは事実であろうが、オペラは「眼をつぶって聞く」とまで書いた小林秀雄が、四夜、延べ十五時間前後に及ぶ劇場音楽を「我慢して聞いた」(と彼は右の対談の録音では語っている)のは、それだけ、「ワーグナーというものは、こういうものかと納得」したい思いがあったからであろう。バイロイトへ来る前、小林秀雄はザルツブルク音楽祭へも出向いているが、もともと彼が望み、西村が苦労して手配したコンサートを、いざ現地に到着してみると、「おれはモーツァルトの生まれたザルツブルクにきただけで、もう音楽的な気分にひたれた。それで十分なんだよ」と言って、二晩もキャンセルしてしまったという。滞在最終夜の「魔笛」についても、ぐずぐすしている彼の尻を叩いて劇場まで引っ張って行ったと西村は書いている。モーツァルトについては、小林秀雄は十七年前に発表した「モオツァルト」で、既に十分「納得」済みだったのである。
ワーグナーを納得したいという彼の思いはしかし、この作曲家に対する音楽的関心だけから発したものではなかっただろう。彼が本当に「納得」したかったのは、おそらく、一八六〇年、パリのイタリア座で一人の詩人を震撼させ、「精神的手術を受けた」と言わしめたところの音楽であった。そしてその詩人が、翌年のパリ・オペラ座における「タンホイザー」のフランス初演に際して発表した「リヒャルト・ワーグナーと『タンホイザー』のパリ公演」に書き残し、小林秀雄が生涯にわたって幾度も引用し続けた一節、「批評家が詩人になるという事は驚くべき事かも知れないが、一詩人が、自分のうちに一批評家を蔵しないという事は不可能である。私は詩人を、あらゆる批評家中の最上の批評家とみなす」(小林秀雄「表現について」より)という言葉の意味するところを、ワーグナーの音楽から直に聞き取りたいという要求であったに違いない。自分を批評家ならしめた一詩人が、ワーグナーという一詩人に見出した「最上の批評家」を、すなわちボードレールの批評精神の精髄を、彼は自らの耳で確かめたかったのである。
帰国して程なく、『芸術新潮』に発表した「バイロイトにて」というエッセイでは、この舞台作品に接した直接の印象はほとんど語られなかった。彼自身、それは無理な話だと言い、「私は、ただ、あの巨きな喇叭のなかで、毎晩、神妙に、茫然として耳を澄ましていただけなのである」と書いている。だがこの旅行から帰った三年後に行った「音楽談義」の中で、小林秀雄は、この長大な作品のどこで「強い感動」を覚えたのかについて、はっきりと、しかも執拗に何度も語った。その一つは、最終夜「神々の黄昏」の第三幕第二場で、主人公ジークフリートが殺害され、有名な葬送行進曲とともにその棺が運ばれて行く場面であった。
何度もいうけれども、「神々の黄昏」の中でジークフリートが死ぬ。あそこでテューバがでてくるだろう、お葬式で。ボッ、ボッ、ウーというのがあるでしょう、向うへいくときに暗いんだよ。少し坂道になっていて、そこをだんだん棺が進んでゆくんだ。あのなかで音楽が鳴っているわけですよ。それは見なくてもいいんですけどね。何ともいえない。あれはお葬式というものじゃ、ぜんぜんないんだよ。これはジークフリートというもんなんだ。ジークフリートというものを、おまえたちは見てきたろう、一幕からずっと。いまや死んだんだ。貴様ら、ジークフリートをどういうふうに思うか、そういうふうなものがあの音楽ですからね。ワーグナーはタートということをしきりにいってるでしょう。あすこの音楽はたしかにタートに違いないと納得した。ショパンだって、ベートーヴェンだって、ぜんぜん考えつかなかった葬送行進曲ですよ。だれも書けないし、書いたことがないですよ。
「タート」とは、自作に「楽劇(Musikdrama)」という呼称が冠せられることを嫌ったワーグナーが、自分の劇作品は「形象化された音楽の行為(ersichtlich gewordene Taten der Musik)」であると書いた、その「行為」である(ワーグナー「<楽劇>という名称について」)。小林秀雄は、昭和二十五年に発表した「表現について」をはじめ、この「行為」について何度か言及しているが、ここでは、彼にこのワーグナーの言葉への基本的な理解を与えたパウル・ベッカーの「西洋音楽史」から引用しよう。ベッカーは、この「形象化された音楽の行為」という言葉に、ワーグナーの作品を貫く一つの精神が示されていると言った上で、次のように説いている。
それは次の二箇条の事柄を含んでいる。すなわち第一に、ワーグナーは音楽活動としての和声の転調や、旋律の進行や、リズムの躍動などの音楽現象を、音の「行為」(Tat)、すなわち各音及びその相互関係が演じる一つの劇(Handlung)であると考えたこと。第二に、舞台上の諸情景は前記の音楽活動の具体化であり、音楽形式の活動がそのまま演劇の上に形象化されたものであるとしたことである。
つまり簡単に言うと、ワーグナーによれば、音はいわば役者であり、和声はその演技であり、あるいは逆に歌手は人間に化身した音であり、その演技は和声の活動なのであった。(河上徹太郎訳)
注意したいのは、あくまでも「音楽の行為」が形象化したものが舞台であり、「舞台上の行為」を抽象化したものが音楽ではないという点である。情念や観念の運動が音に化身するのではなく、音そのもののダイナミックな運動が一つの情念や観念と化して舞台上に躍り出たもの、それがワーグナーの言った「行為」であった。
「<楽劇>という名称について」の中で、ワーグナー自身は「行為」という言葉そのものについてはほとんど語っていないが、「楽劇(Musikdrama)」という言葉における「Musik」と「Drama」の関係について、およそ次のように書いている。――音楽とは、それ自体一つの芸術であるばかりか、もとを正せば全ての芸術の精髄でさえあったのに対し、ドラマは、語源から言えば「行為」もしくは「事件」を意味する語であり、舞台上で演じられるそれは、嘗ては羊を生贄に捧げる際に歌われた合唱歌を起源とする悲劇の一部であった。つまり音楽は、元来ドラマの母親であったのであり、その古の栄えある面目を取り戻した時、「Musik」は、もはや「Drama」の前に冠すべき語でも後に置くべき語でもない。諸君は、普段、音楽の本質をおぼろげにしか感じ取っていないのである。音楽が鳴り渡る時、その響きにこもる意味合いを舞台に見て取るがよい。舞台上の寓意を通じて、音楽はその本質を諸君の眼の前に現すであろう。……
ワーグナーは、この「舞台上の寓意」を通じて「音楽の本質」が立ち現れる様を、聖人伝を語り聞かせて宗教の奥義を子供たちに悟らせる母親のやり方に喩えている。ドラマは「寓意」であり、音楽が「奥義」なのである。
ちなみに「ニーベルングの指環」の作曲開始にあたって執筆されたこの芸術家のもっとも有名な論文「オペラとドラマ」の基本命題は、「ドラマこそ表現の目的であり、音楽はその手段である」というものであった。そのワーグナーが、「意志と表象としての世界」に出会ったのは、「オペラとドラマ」を発表した三年後である。世界の本質は一にして全なる意志であり、その意志を、一切の媒介なしに直接模写したものが音楽であるとした、ショーペンハウエルの音楽形而上学の洗礼を浴びて以後、ワーグナーにとって「手段」であったところの「音楽の本質」が、根底から覆されたのであった。ショーペンハウエルは、世界は肉体を与えられた音楽であり、もしも音楽を完全に説明することに成功したとすれば、それはそのまま世界を説明したことになると断言した哲学者である。「形象化された音楽の行為」というワーグナーの言葉は、そのショーペンハウエルとの邂逅を経て、実に二十六年の歳月を費やした「ニーベルングの指環」が遂に完成に近づきつつあった一八七二年、まさに「神々の黄昏」第三幕の作曲にあたっていた年に書かれたものであった。
そのワーグナーの「行為」に、小林秀雄はどう応接したか。彼はただ、「神妙に、茫然として耳を澄ましていただけ」ではなかったはずだ。小林秀雄はワーグナーを、「大シンフォニスト」と呼び、「オーケストラの表現力の万能を本能的に信じている音楽家」と書いている(「バイロイトにて」)。そして当時、ヴィーラント・ワーグナーとヴォルフガング・ワーグナーによって確立され、ヨーロッパのオペラ界を席巻した「新バイロイト様式」による革新的な舞台演出についても、舞台なんてつまらないと一蹴し、そのもたらす感動は、結局は音楽の力であると断定した(「音楽談義」)。
百年前、ボードレールがワーグナーの音楽から一大啓示を受け取ったのも、パリ・オペラ座で上演された歌劇「タンホイザー」ではなく、その前年にイタリア座で行われたオーケストラ・コンサートにおいてであった。ボードレールが見出した「最上の批評家」とは、「交響楽作者」としてのワーグナーだったのであり、「人間霊魂の擾乱を音の幾多の結合によって訳出する芸術家」(佐藤正彰訳)が蔵したものなのであった。ボードレールは、イタリア座で聞いた「ローエングリン」序曲と「タンホイザー」序曲について、この音楽は台本を知らない人にも完全に理解し得ると書いている。
しかしそれは、ボードレールと小林秀雄がワーグナーを「眼をつぶって」聞いた、つまり一切の造形的、演劇的、文学的、思想的な形象や観念とは無縁の純器楽的な和声音楽として聞いたということではなかった。むしろ、純粋な器楽音楽として聞いたワーグナーこそ、小林秀雄にとっては「ただ音楽が好き、面白いというだけなら先ず退屈なもの」であったに相違なく、台本がなくてもその音楽を理解し得るとボードレールが言ったのは、それ自体が自らを説明していると言えるほど、音楽そのものの雄弁が、特定の観念を聞く人に迅速正確に暗示するという意味で言ったのであった。「ニーベルングの指環」四部作の大詰めで、小林秀雄がジークフリートの葬送行進曲に震駭した時、それはもはや、ただの「お葬式」でも「行進曲」でもなかった。その「強い感動」の震源は、四夜続いたこの大シンフォニーの終楽章で展開された「音楽の行為」が、彼の眼前に暗示してみせた或る一つの形象にあった。
「音楽談義」の録音で、「あすこの音楽はたしかにタートに違いない」と語った後、小林秀雄は、ジークフリートを送るというその行動が、つまりはこの葬送行進曲そのものが、それまでのこの主人公の全歴史を要約していると言う。それは確かに、ある種の行進曲であったが、そのリズムによって棺が進むのではない、ジークフリートという「時の流れ」そのものが進むのである。そして「神々の黄昏」第三幕第二場から第三場にかけて繰り広げられるこの音楽の一大行為の背後で、嘗て青年時代に俘囚となった一人の詩人にして自分を批評家ならしめた「最上の批評家」の、批評精神と抒情精神の精髄が鳴り響くのを聞き分けた時、その「音楽の行為」はまた、小林秀雄の「過去の一切」を映し出すあの「巨きな濁流」となって形象化したはずである。ティンパニが「死の動機」を刻み、低弦が不吉な唸り声を上げ、ワーグナーチューバとホルンがユニゾンで咆哮する行進曲を聞きながら、小林秀雄が目撃したのは、あの一種鬼気に充ちて謎めいた「壮麗なパノラマ」ではなかったか。バイロイトの「巨大な喇叭」の開口部へ向かって進む棺の中に横たわっていたのは、ジークフリートという「永遠の若者」だけではなかっただろう。その棺の中に小林秀雄が見ていたのは、彼自身の文学的青春そのものであっただろう。彼がワーグナーの声をはっきりと聞いたのは、おそらくその時である。君はこの「ジークフリート」をどう思うか、と。
(つづく)