小林秀雄「本居宣長」全景

池田 雅延

十四 起筆まで(下)―思い出すという事

 

1

「無常という事」は、ある日、比叡山に行き、山王権現のあたりをうろついていると、突然、「一言芳談抄」のなかの一文が、「当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮かび」、その短文の節々が、「まるで古びた絵の細勁さいけいな描線を辿る様に心に滲みわたった」という小林氏自身の経験から書き起されているのだが、氏は、この経験を、執拗と言っていいほどに、あらゆる角度から思い返す。

―そんな経験は、はじめてなので、ひどく心が動き、坂本で蕎麦を喰っている間も、あやしい思いがしつづけた。あの時、自分は何を感じ、何を考えていたのだろうか、今になってそれがしきりに気にかかる。……

しかし、あの日から何日か経ち、「無常という事」と題したこの文章を書いている今、あの美しさは氏の眼前にはない。

―あれほど自分を動かした美しさは何処に消えてしまったのか。消えたのではなく現に眼の前にあるのかも知れぬ。それを摑むに適したこちらの心身の或る状態だけが消え去って、取戻すすべを自分は知らないのかも知れない。……

もしやあれは、幻想だったのか、空想だったのか……。いや、そうではない。

―空想なぞしてはいなかった。青葉が太陽に光るのやら、石垣の苔のつき具合やらを一心に見ていたのだし、鮮やかに浮び上った文章をはっきり辿った。余計な事は何一つ考えなかったのである。どの様な自然の諸条件に、僕の精神のどの様な性質が順応したのだろうか。……

それはわからない。が、いま確かなことは、小林氏があの比叡山での出来事を、思い出している、ということだ。

―僕は、ただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。無論、今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ。そんな気もする。……

前回、私は、小林氏が「無常という事」の最後で、「現代人には無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである」と言っている「常なるもの」とは、「死んだ人間」というもはや何物にも動じない歴史の形であり、それを現代人は見失ったと氏が言うのは、現代人は歴史を現代の側から解釈するばかりで、歴史に現れているのっぴきならない人間の形、それを思い出そうとはしなかったからであると書いた。この「思い出す」は、小林氏がここで言っている、「鎌倉時代を思い出す」という「思い出し方」を受けてのことである。

 

「無常という事」は、こうして比叡山での経験にこだわり、「今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ」と言った後、「歴史というものは、新しい解釈なぞでびくともするものではない、解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ」と転調し、また「生きている人間というものは仕方のない代物だ、死んでしまった人間こそはまさに人間の形をしている、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」と言った後に、

―歴史には死人だけしか現れて来ない。従って退きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。……

そう言って、すぐにこう続ける。

―思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか。……

記憶するだけではいけないのだろう、思い出さなくてはいけないのだろう……。「無常という事」で、最も大事なくだりはここである。「現在」は不安定状態にある、しかし「過去」は安定状態にある。不安定から安定を見れば、安定は整然として美しい。思い出となればみんな美しく見えるとは、そういう人間に与えられた自ずからの心理作用によるのだが、その思い出が美しいと見えるところに不安定から安定へと向かう足がかりがあると言うのである。

前回は、宣長との関連で、歴史は解釈してはならないという小林氏の趣旨を先に見ていったのだが、歴史は解釈してはならない、それを言ったうえでより強く氏が言いたかったのは、歴史は思い出さなくてはいけない、ということであった。「無常という事」は、徹頭徹尾、その「思い出す」ということについて考えようとした文章なのである。「解釈してはならない」は、「思い出さなくてはいけない」ということをより強く言うための逆光だったのである。

 

しかし、小林氏は、あの体験をしてすぐ、「思い出す」ということに思い当っていたわけではない。

―あの時、自分は何を感じ、何を考えていたのだろうか、今になってそれがしきりに気にかかる。無論、取るに足らぬある幻覚が起ったに過ぎまい。そう考えて済ますのは便利であるが、どうもそういう便利な考えを信用する気になれないのは、どうしたものだろうか。……

氏は、比叡山での経験を持て扱ったのである。なぜ突然、ああいう感覚が襲ってきたのか。しかも、あれほど自分を動かした美しさはいまはない、どこに消えたのか。消えたのではなく、いまも眼の前にあるのかも知れない、それを摑んで取戻す術を自分が知らないだけなのかも知れない……。

―こんな子供らしい疑問が、既に僕を途方もない迷路に押しやる。僕は押されるままに、別段反抗はしない。そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態に、少しも疑わしい性質を見付け出す事が出来ないからである。だが、僕は決して美学には行き着かない。……

「美学に行き着かない」とは、この体験を論理的に、抽象的に分析したり整理したりはしないということだ。前回引いた「『ガリア戦記』」でも、「美の観念を云々する美学の空しさに就いては既に充分承知していた」と言われていた。氏は、あくまでもあの美の体験が、自分にとってどういう意味をもつものなのかを行きつ戻りつ知ろうとする。こうして氏が、あの体験を思い返し思い返しするうちに、期せずして辿り着いたのが「思い出す」という言葉であった。「無常という事」の前半部、比叡山での経験を締めくくる文章を、もう一度引こう。

―僕は、ただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。無論、今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ。そんな気もする。……

ここでも最後は、「そうかも知れぬ。そんな気もする」と、断言は避けているが、あの比叡山でのひととき、自分は鎌倉時代を、まるで昨日のことのように「思い出して」いたのではなかったか、人間は、こういうふうに、はるかな昔も「思い出せる」ように造られているのではないだろうか……、小林氏は、そう言っているのである。

 

私たちは、日頃、「思い出す」という言葉は、自分自身の過去や、親族・知己に関わる事柄を言うときに使っている。先に小林氏が言っていた「僕はただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ」の「思い出す」は、ひとまず、その、私たちがふつうに口にしている「思い出す」であると解していいだろう。ここでの小林氏は、氏自身の経験を思い出している。

しかし、後で言われている、「あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか」の「思い出す」は、そうではない。はるかに遠く隔たった、明らかに自分の記憶にはない時代を「思い出す」のである。しかも氏は、自分とは血のつながりはもちろん、行きずりの縁すらもない「なま女房」とその時代を「思い出して」いたのである。

そういう「思い出す」について、昭和四十五年八月に行った講演「文学の雑感」ではこう言っている(新潮文庫「学生との対話」所収)。この年は、「無常という事」からでは約三十年後、「本居宣長」の雑誌連載を始めてからでは五年後にあたっていた。

―今の歴史というのは、正しく調べることになってしまった。いけないことです。そうではないのです、歴史は上手に「思い出す」ことなのです。歴史を知るというのは、古えの手ぶり口ぶりが、見えたり聞えたりするような、想像上の経験をいうのです。織田信長が天正十年に本能寺で自害したということを知るのは、歴史の知識にすぎないが、信長の生き生きとした人柄が心に想い浮ぶということは、歴史の経験である。宣長は学問をして、そういう経験にまで達することを目的としたのです。だから、宣長は本当の歴史家なのです。……

「無常という事」の頃には、比叡山で不意をつかれてあやしい思いを伴っていた「思い出す」という経験が、ここでははっきりとした確信になっている。そして、言う。

―歴史を知るというのは、みな現在のことです。古いものは全く実在しないのですから、諸君はそれを思い出さなければならない。思い出せば諸君の心の中にそれが蘇ってくる。不思議なことだが、それは現在の諸君の心の状態でしょう。だから、歴史をやるのはみんな諸君の今の心の働きなのです。……

ということは、「僕はただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ、自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が」と小林氏が言っていた「思い出す」と、「あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか」と言っていた「思い出す」とは、現在と過去、自分と他者、それらが渾然一体となった「思い出す」であったということなのだろう。だがそれは、「無常という事」を書いていたときはまだはっきり認識できてはいなかった。あれから三十年ちかくが経つ間に、氏は、「思い出す」という人間に具わっている能力は、重層構造であることの確信に達していたのである。

 

2

 

「無常という事」で言われた「思い出す」ということに、なぜこうも深入りするかについては、すでにもう察してもらえていると思う。講演「文学の雑感」で、宣長の学問は、「思い出す」ということ、すなわち、古えの手ぶり口ぶりが見えたり聞えたりするような想像上の経験に達すること、それが目的だったと小林氏は言っていた、これがそのまま「本居宣長」の本文に直結するのである。

近世日本の学問を拓いて、宣長の先達となった中江藤樹の足跡を第八章から辿り、第九章では伊藤仁斎に及び、第十章に至って荻生徂徠の歴史観を窺うくだりで小林氏は次のように言う。

―徂徠に言わせれば、「辞ハ事トナラフ」、言は世という事と習い熟している。そういう物が遷るのが、彼の考えていた歴史という物なのである。彼の著作で使われている「事実」も「事」も「物」も、今日の学問に準じて使われる経験的事実には結び附かない。思い出すという心法のないところに歴史はない。それは、思い出すという心法が作り上げる像、想像裡に描き出す絵である。……

そして、学問というものの急所を徂徠からも学びとった宣長は、「歴史を思い出す」という心法を、「古事記伝」で実践する。その一例を、第三十章から引こう。実を言えば、これは一例どころの段ではない、宣長の学問を象徴すると言っていいほどの場面なのだが、「古事記」の中つ巻、倭建命やまとたけるのみことが東征を余儀なくされるくだりである。

倭建命は、景行天皇の皇子で、父天皇の命によって西国に赴き、九州南部に跋扈していた熊襲くまそを討って大和に凱旋したが、天皇はすぐさま、次は東国に行って蝦夷えみしを討てと命じる。倭建命は伊勢神宮に詣で、斎宮として奉仕していた倭比売命やまとひめのみことに会って悲痛な心中を打明ける。小林氏が引いている宣長の訓をそのまま引く。

―「天皇すめらみことはやれを死ねとや思ほすらむ、いかなれか西のかた悪人等まつろはぬひとどもりにつかはして、返り参上まゐのぼほど幾時いくだらねば、軍衆いくさびとどもをもたまはずて、今更にひむがしの方の十二道とをまりふたみち悪人等まつろはぬひとどもことむけにはつかはすらむ、此れにりて思惟おもへば、猶吾なほあれはやく死ねとおもほしすなりけりとまをして、うれひ泣きてまかります時に、倭比売の命、草那芸剣くさなぎのたちを賜ひ」云々。……

この後に、「古事記」の原文をこう訓む理由が宣長自身によって事細かに記され、次いで倭建命の愁訴に対する宣長の所懐が述べられる。

―さばかり武勇タケマス皇子ミコの、如此カク申し給へる御心のほどを思ヒハカり奉るに、いといと悲哀カナしとも悲哀カナシき御語にざりける、しかれども、大御父天皇の大命オホミコトタガひ賜ふ事なく、誤り賜ふ事なく、いさゝかも勇気イサミタワみ給ふこと無くして、成功竟コトナシヲヘ給へるは、又いといと有難アリガタタフトからずや、(此ノ後しも、いさゝかも勇気イサミタワみ給はず、成功コトナシをへて、大御父天皇の大命オホミコトを、タガへ給はぬばかりのタケタダしき御心ながらも、如此カク恨み奉るべき事をば、恨み、悲むべき事をば悲みナキ賜ふ、これぞ人の真心マゴコロにはありける、此レ漢人カラビトならば、かばかりの人は、心のウチにはイタく恨み悲みながらも、はつゝみカクして、其ノ色を見せず、かゝる時も、たゞ例の言痛コチタきこと武勇タケきことをのみ云てぞあらまし、此レを以て戎人カラビトのうはべをかざり偽ると、皇国みくにの古ヘ人の真心マゴコロなるとを、よろヅの事にも思ひわたしてさとるべし)……

小林氏が、ここでこうして倭建命の告白に対する宣長の所懐を精しく引いているのは、必ずしも「歴史を思い出す」という心法を論じようとしてのことではない、宣長は、どういう態度で「古事記」の原文訓読に臨んだか、宣長の学問の「ふり」を言うためである。

―ここに明らかなように、訓は、倭建命の心中を思いハカるところから、定まって来る。「いといと悲哀しとも悲哀き」と思っていると、「なりけり」と訓み添えねばならぬという内心の声が、聞えて来るらしい。そう訓むのが正しいという証拠が、外部に見附かったわけではない。もし証拠はと問われれば、他にも例があるが、宣長は、阿礼の語るところを、安万侶が聞き落したに違いない、と答えるであろう。……

小林氏の言う宣長の学問の「ふり」については、またあらためてしっかり会得する機会を設けなければならないが、氏がここで宣長の所懐から引いて「倭建命の心中を思い度る」と言っている「思い度る」は「思い量る」であり、相手の心中に思いを馳せる、相手の気持ちを慮る、である。そうであるなら「思い度る」は、「思い出す」という心法そのものだったと言えるのであり、これらの総括とも言える言葉が、続けて連ねられる。

―「古事記」という「古事のふみ」に記されている「古事」とは何か。宣長の古学の仕事は、その主題をはっきり決めて出発している。主題となる古事とは、過去に起った単なる出来事ではなく、古人によって生きられ、演じられた出来事だ。外部から見ればわかるようなものではなく、その内部に入り込んで知る必要のあるもの、内にある古人のココロの外への現れとしての出来事、そういう出来事に限られるのである。……

小林氏の言う「思い出」とは、事件や出来事の輪郭、あるいは顛末を辿り直すことではない、それらの事件や出来事に関わった人の内側にある心を知ること、そうすることだけを「思い出す」と言っている。

これに続いて、講演「文学の雑感」でも言ったことが記される。

―過去の経験を、回想によってわが物とする、歴史家の精神の反省的な働きにとって、過去の経験は、遠い昔のものでも、最近のものでも、又他人のものでも、己れ自身のものでもいいわけだろう。それなら、総じて生きられた過去を知るとは、現在の己れの生き方を知る事に他なるまい。それは、人間経験の多様性を、どこまで己れの内部に再生して、これを味う事が出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう。……

―歴史を知るとは、己れを知る事だという、このような道が行けない歴史家には、言わば、年表という歴史を限る枠しか掴めない。年表的枠組は、事物の動きを象り、その慣性に従って存続するが、人のココロで充された中身の方は、その生死を、後世の人のココロに託している。倭建命の「言問ひ」は、宣長のココロに迎えられて、「如此カク申し給へる御心のほどを思ヒハカり奉るに、いといと悲哀カナしとも悲哀カナシき御語にざりける」という、しっかりした応答を得るまでは、息を吹き返したことなど、一ぺんもなかったのである。……

 

こういうふうに、「無常という事」を「本居宣長」と読み合わせてみれば、一篇の詩として書かれた「無常という事」の表象も具体的になる。

―思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか。……

多くの歴史家が、頭を記憶でいっぱいにしている、とは、彼らは歴史に関わる知識の蒐集整理にかまけてそこに手を取られ、足を取られてしまっている、ということだろう。そういう歴史家には、人の心で満たされた歴史の中身を虚心に酌み取ろうとする気持ちはなく、したがって、その心が、倭建命のようにはっきりと、しっかりとした「人間の形」を見せていてもそれを「思い出す」ことができない、そのために、彼らは彼ら自身が「一種の動物」状態に留まっている、だから「何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来しでかすのやら、解ったためしがない」のである。

―上手に思い出す事は非常に難かしい。だが、それが、過去から未来に向って飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。……

「過去から未来に向って飴の様に延びた時間」とは、自然科学的見地で言われる時間である。どこまでも永遠に、変ることなく続く時間である。そこでの一分は、誰にとっても全く同じ一分である。しかし、悦び哀しみが交差し去来する人間の心にとって、一分の長さはいつも同じではない、また誰にも同じ長さの一分ではない。近代における自然科学の発達は、そういう人間個々の感覚・感情を蔑ろにして自然科学的見地の時間を重視した。小林氏の言う「蒼ざめた思想」とは、そうした人間の血が通っていない、人間の体温が感じられない物理的時間を絶対視する考え方である。私たちは、そういう時間に縛られたままでいるかぎり「一種の動物」状態を抜け出すことはできない。なぜなら、動物は、その日その時で一分を長く感じたり短く感じたりすることはないだろうからだ。したがって、自分の生きる時間を自分で創り出そう、創り出せる、などとは思ってもみないだろうからだ。

だが、こんな動物状態も、私たちは抜け出そうと思えば抜け出せる。

―成功の期はあるのだ。この世は無常とは、幾時如何いついかなる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。……

「常なるもの」、すなわち、永久に変ることのない「死んだ人間」を思い出すことから始めればよいのである。すべてが止った「死」を思うことによって、芸もなくめりはりもなく過ぎていく物理的時間から脱却する。小林氏は、「本居宣長」を宣長の遺言書を読むことから始め、伊邪那美命イザナミノミコトという「死んだ神」と、伊邪那美命に死なれた夫、伊邪那岐命イザナギノミコトを思い出して擱筆する。「無常という事」で奏でられた「歴史」の四重奏が、「本居宣長」に至って大管弦楽となったのである。

 

3

 

小林氏が、「歴史を思い出す」ということを最初に言ったのは、昭和十四年(一九三九)五月、創元社から出した「ドストエフスキイの生活」の「序(歴史について)」においてであった。この年、氏は三十七歳、「無常という事」に先立つこと三年である。

前回も書いたが、「ドストエフスキイの生活」はドストエフスキーの評伝である。ということはドストエフスキーの歴史である。小林氏はこの「ドストエフスキイの生活」を昭和十年一月から十二年三月までの間、二十四回にわたって『文學界』に連載し、これにかなりの加筆を施して単行本にしたのだが、その「序」とされた文章は単行本刊行の約半年前から書き始められ、いったんは雑誌に発表された。氏は『文學界』連載時から「歴史」を書くことの難しさに屡々直面した、そこを吐露した文章も他にあるが、単行本に向けての加筆を進めるにつれ、「歴史」はどう書くべきかの肝心要が腹に入った、その肝心要を象徴する言葉が「思い出す」だったのである。

当時、歴史家たちは、歴史科学というものの構築をめざし、自然科学に準じて歴史にも一定不変の法則を見出そうとしていた。そのためには、俗に言われる「歴史は繰返す」ということが、事実として認められるということを何とか言おうとして躍起になっていた。これについては、後年、昭和十六年三月に発表した「歴史と文学」(同第13集所収)で精しく言っているが、当面の「序」では次のように言った。この一節に「思い出」という言葉が初めて出る。

―歴史は繰返す、とは歴史家の好む比喩だが、一度起ってしまった事は、二度と取返しが付かない、とは僕等が肝に銘じて承知しているところである。それだからこそ、僕等は過去を惜しむのだ。歴史は人類の巨大な恨みに似ている。若し同じ出来事が、再び繰返される様な事があったなら、僕等は、思い出という様な意味深長な言葉を、無論発明し損ねたであろう。後にも先きにも唯一回限りという出来事が、どんなに深く僕等の不安定な生命に繋っているかを注意するのはいい事だ。愛情も憎悪も尊敬も、いつも唯一無類の相手に憧れる。……

―子供を失った母親に、世の中には同じ様な母親が数限りなくいたと語ってみても無駄だろう。類例の増加は、寧ろ一事件の比類の無さをいよいよ確かめさせるに過ぎまい。掛替えのない一事件が、母親の掛替えのない悲しみに釣合っている。彼女の眼が曇っているのだろうか。それなら覚めた眼は何を眺めるか。……

―子供が死んだという歴史上の一事件の掛替えの無さを、母親に保証するものは、彼女の悲しみの他はあるまい。どの様な場合でも、人間の理智は、物事の掛替えの無さというものに就いては、為す処を知らないからである。悲しみが深まれば深まるほど、子供の顔は明らかに見えて来る、恐らく生きていた時よりも明らかに。愛児のささやかな遺品を前にして、母親の心に、この時何事が起るかを仔細に考えれば、そういう日常の経験の裡に、歴史に関する僕等の根本の智慧を読み取るだろう。……

―それは歴史事実に関する根本の認識というよりも寧ろ根本の技術だ。其処で、僕等は与えられた歴史事実を見ているのではなく、与えられた史料をきっかけとして、歴史事実を創っているのだから。この様な智慧にとって、歴史事実とは客観的なものでもなければ、主観的なものでもない。この様な智慧は、認識論的には曖昧だが、行為として、僕等が生きているのと同様に確実である。……

過去の事件や人物を、そっくりそのまま客観的に再現する、世の歴史家たちは、それが自分たちの仕事だと思っているが、そんなことは誰にもできない。できたとすればそれはただ表面を掻い撫でしたにすぎない。歴史とは、どこで何が起ったか、誰が何をしたかを調べることに留まるものではない、それらを調べたうえで、それに関わった人間たちは何を思ったか、考えたか、そこまで錘鉛すいえんを下げて彼らの気持ちを推し量る、そしてそれを私たちが生きている現代の糧とも指標ともする、そこに歴史を知ることの意味がある。そのためには、子供に死なれた母親が、子供の遺品を手がかりとして在りし日の子供の顔をまざまざと思い浮かべるように、与えられた史料を手がかりとして、昔の人々に思いを馳せ、能うかぎりその人たちの近くに寄って心を酌み、悦びも悲しみも共にする、この一連の心の用い方が小林氏の言う「歴史を思い出す」ということなのだが、この「歴史を思い出す」を、氏は「歴史事実を創る」とも言っている。

そうであるなら、本居宣長は、「古事記」という史料を得て、「古事記」に並んだ漢字をどう訓むか、その訓読如何をもって倭健命の告白を「創った」のである。「ドストエフスキイの生活」の「序」を書いた時期、小林氏は「古事記伝」を読み始めていたと思われるのだが、そのときすでに氏が倭健命の告白を聞いていたかどうかは微妙というほかないものの、ここで言っている「歴史事実を創る」という感触を、氏は「古事記伝」からも得始めていたと思ってみるのは必ずしも空想ではないだろう。

 

ここで一度、話がやや逸れるが、前回、小林氏が「古事記」を読もうとした動機には、昭和十二年前後の文壇、思想界における「日本的なもの」をめぐっての議論があったようだと言った。この流れをさらに遡ってみると、氏が昭和八年から本腰を入れて取り組んだドストエフスキー研究もそこに与っていたと思われるのである。

昭和四年の九月、「様々なる意匠」を二十七歳で文壇に撃ちこみ、華々しく駆けだした新進批評家小林秀雄は、近代文学後進国ならではの妄言で口角泡を飛ばしあう日本の文芸時評界に早々と見切りをつけ、三十歳になるやドストエフスキーにかかりきるようになった。そのドストエフスキー研究の最初の発言は昭和八年一月の作品論「『永遠の良人』」であったが、同年五月には「故郷を失った文学」(同第4集所収)を発表し、そこにこう書いた。最近、ドストエフスキーの「未成年」を再読し、以前読んだ時には考えてもみなかったことに気づいた、わけても、

―描かれた青年が、西洋の影響で頭が混乱して、知的な焦燥のうちに完全に故郷を見失っているという点で、私達に酷似しているのを見て、他人事ではない気がした……。

小林氏が、「古事記」を読もうとしたきっかけは、世の「日本的なもの」をめぐっての議論を受け、日本についての自分独自のイメージをつかもうとしたことにあるのではないかと前回書いたが、それも実は、ドストエフスキーが「未成年」で描いた青年アルカージーに、小林氏自身の顔を見たことから始っていたとも言えるのである。その氏の眼前に、島崎藤村の「夜明け前」が出現したのである。

 

さて、そこでまた「ドストエフスキイの生活」の「序」に還る。

―僕は一定の方法に従って歴史を書こうとは思わぬ。過去が生き生きと蘇る時、人間は自分のうちの互に異る或は互に矛盾するあらゆる能力を一杯に使っている事を、日常の経験が教えているからである。あらゆる史料は生きていた人物のもぬけからに過ぎぬ。一切の蛻の殻を信用しない事も、蛻の殻を集めれば人物が出来上ると信ずる事も同じ様に容易である。……

―立還るところは、やはり、ささやかな遺品と深い悲しみとさえあれば、死児の顔を描くに事を欠かぬあの母親の技術より他にはない。彼女は其処で、伝記作者に必要な根本の技術の最小限度を使用している。困難なのは、複雑な仕事に当っても、この最小限度の技術を常に保持して忘れぬ事である。……

「無常という事」で、「一言芳談抄」の一節が突然心に浮かんだと小林氏は言った。あの不意の出来事に氏は戸惑い、この出来事の意味を様々に手探りするというかたちで「無常という事」の前半部は進むのだが、あれは氏が、「思い出す」ということに関してまったく新たな発見をした、その体験記ということだったと言えるだろう。

一般に「思い出す」という行為は、意識的な、能動的な行為だと思われている。何かを思い出そうとして、そこに意識を集中するからその何かを思い出すことができると思われている。だが、どうやら、それだけではないらしい。「思い出す」とは、「思い出させられる」という、ほとんど無意識のうちに、受動的に、ある物ある事を知らしめられる、そういうことでもあるらしいのだ。

そしてこの無意識的、受動的な「思い出す」にも、「遺品」が手がかりとして作用する。いやむしろ、「遺品」はこちらの「思い出す」にこそ強く作用する。あの日、「一言芳談抄」のあの一節が氏の心に突然甦ったのは、氏が比叡山の山王権現付近という、「一言芳談抄」の十禅師社と同じ環境に身をおいたからである。太陽に光る青葉、石垣の苔のつき具合、これらすべて、三年前の「ドストエフスキイの生活」の「序」で言っていた死んだ子供の遺品にあたるものであり、これらの遺品が「一言芳談抄」をというよりも、そこで語られていた「なま女房」の心中を氏に「思い出させ」、氏はおのずと「なま女房」が口にしていた「無常」という言葉の含みを「思い出して」いったのである。

―愛児のささやかな遺品を前にして、母親の心に、この時何事が起るかを仔細に考えれば、そういう日常の経験の裡に、歴史に関する僕等の根本の智慧を読み取るだろう。……

この一節も、心して読めば、並々ならぬことが言われている。子供に死なれた母親は、意識的に、能動的に、何度も子供のことを思い出そうとするだろう。だがそれと並行して、母親に子供を思い出そうとする意識は起っていないときでも、母親の目に愛児の遺品の何かが映った瞬間、母親は思いもかけなかったことを思い出させられる、そういうことがある。このことは、子供を亡くした経験はなくとも、親であったり恩師であったり、かけがえのない人を亡くした経験があれば即座にうなずけるだろう。人間の思い出すという能力は、そういうふうに造られている。そうであるなら、この過去想起の能力は、はるかな昔の他人を思い出すというかたちでもはたらくのではないか、小林氏は、「ドストエフスキイの生活」の「序」で、そう言っていたのである。その自らの仮説とも言える予感が現実になった、それが「無常という事」の経緯いきさつだったのである。

 

氏は、後年、歴史を考えるときは歴史の遺品に直に触れることを心がけるようになっていた。歴史を「思い出させて」もらうためにである。二度目の「平家物語」(同第23集所収)を書いたころは鎧の小札こざね(鉄や革の小さな板)を、「本居宣長」を書いていたときは勾玉を、常に懐中して触れ続けていた。

 

4

 

「本居宣長」は、昭和四十年から『新潮』に連載されたが、その第一回が載った同年六月号は五月上旬に発売された。直前にはゴールデンウイークがあったから、編集部の最終校了は四月二十四日か二十五日、ここから推せば、小林氏は、遅くとも四月十五日には第一回の原稿を書き上げていただろう。四月十一日は六十三歳の誕生日であった。

―雑誌から連載を依頼されてから、何処から手を附けたものか、そんな事ばかり考えて、一向手が附かずに過ごす日が長くつづいた。……

と第一章で言っている。その雑誌の連載依頼を、小林氏はいつ受けたか。当時、『新潮』の担当編集者は菅原国隆氏で、小林氏から最も信頼された編集者のひとりであったが、小林氏が「本居宣長」の前に取り組んだベルグソン論「感想」の編集者も菅原氏であった。昭和三十三年五月に連載が始った「感想」は、三十八年六月まで続いて中断していた。その「感想」を中断したまま「本居宣長」を始めたのである。この間の経緯を、菅原氏は何ひとつ言い残しも書き残しもせずに世を去ったが、「感想」の中断から「本居宣長」開始に至る小林氏の心中を、菅原氏こそはよく酌みとっていたであろう。

当時、菅原氏とともに小林氏の身辺にいた郡司勝義氏の「小林秀雄の思ひ出」によれば、この年六月、「感想」の第五十六回を書き上げてソヴィエト、ヨーロッパの旅に出た小林氏は、旅から帰った直後、「感想」は第五十六回で打ち切り、最後の仕事として本居宣長を選ぶ、旅行中もそのことを考え、決心して帰ってきたと郡司氏に言ったという。小林氏が郡司氏に告げたというこの言葉は、必ずや菅原氏にも告げられたであろう。否、誰よりもまず菅原氏に告げられたであろう。とすれば、「雑誌から連載を依頼され」た時期は、実際には「雑誌が連載を承知した」時期であり、それは、小林氏がソヴィエト、ヨーロッパの旅から帰った昭和三十八年十月十四日からほとんど間をおかずしてのことであったと思われる。郡司氏によれば、小林氏が「本居宣長」第一回の筆を起したのは四十年の二月であった。「何処から手を附けたものか、そんな事ばかり考えて、一向手が附かずに過ごす日」は一年余り続いたのである。

 

しかし、本居宣長について書きたいという小林氏の意志は、「感想」連載中にもうはっきり固まっていた。昭和三十一年以来毎年八月、九州各地を会場として国民文化研究会主催の全国学生青年合宿教室が行われ、その合宿教室へ小林氏は都合五度招かれたが、初めて赴いた三十六年八月、「現代思想について」と題した講義の後の質問に答えるなかで、いつか本居宣長について書こうと思っていると問わず語りに言っている。小林氏が、本居宣長に取り組む意志を公の場で口にした最初は私の知るかぎりここであるが、この小林氏の意志そのものは、それよりさらに遡った時期に動き始めていた。

「感想」の連載開始一年後の三十四年五月から、氏は「感想」と並行して「考えるヒント」を『文藝春秋』で始め、その第一回は「好き嫌い」と題して伊藤仁斎と本居宣長のことを語った。以後「考えるヒント」は、「言葉」「学問」「徂徠」「弁名」「考えるという事」……と、今から思えば「本居宣長」への助走ともとれる話題を相次いで登場させ、いっぽう「考えるヒント」を始めて一年後、三十五年七月には「本居宣長―『物のあはれ』の説について」を「日本文化研究」(新潮社)の一環として発表する。この「『物のあはれ』の説について」は、四〇〇字詰原稿用紙七十枚ほどの論考だが、これを発表した後、この問題はとても七十枚では書き尽くせない、いずれ本格的に書き直すという旨のことを言っている。したがって、小林氏が、「感想」を完成させた暁に、「本居宣長」を始めるつもりでいたことはまず確実と言っていい。

ところが、そうはいかなくなった。「感想」が回を追って行き詰り、そしてついに三十八年五月、『新潮』六月号に「感想」の第五十六回を載せ、六月、ソヴィエト連邦作家同盟の招きに応じてソ連へ旅立ち、その足でヨーロッパも廻って十月に帰国したが、以後「感想」が書き継がれることはなかったのである。

 

郡司氏に小林氏は、「感想」は第五十六回で打ち切る、最後の仕事としては本居宣長を選ぶ、それが自分の資質に適った最良の道だ、と言ったという。まさにそのとおりであっただろう。だが、ここでさらに小林氏の思いを酌んでみれば、旅行中、氏が考えていたのは、もはやぬきさしならなくなった「感想」の活路は、本居宣長にひらけているということではなかっただろうか。

そう思ってみるのは、「本居宣長」の行間から、ベルグソンとも話しこむ氏の声がしばしば聞えてくるからだが、「本居宣長」の刊行直後、氏は江藤淳氏との対談「『本居宣長』をめぐって」(同第28集所収)で、大意、こう言っている。

―私は若いころから、ベルグソンの影響を大変受けて来た。大体言葉というものの問題に初めて目を開かれたのもベルグソンなのである。……

―ベルグソンの「物質と記憶」という著作は、あの人の本で一番大事な本だと言っていいが、その序文の中で、こういうことが言われている。自分の哲学は常識の立場に立つと言っていい。常識人は、哲学の観念論や実在論が存在と現象とを分離する以前の事物を見ている。常識人にとって対象は対象自体で存在し、しかも見えるがままの生き生きとした姿を自身備えている。これをベルグソンは「イマージユ」(image)と呼んだ。……

―この「イマージュ」という言葉は、「映像」と訳してはしっくりしない。宣長も使っている「かたち」という古い言葉の方がしっくりする。「古事記伝」になると「性質情状」と書いて「アルカタチ」と仮名を振ってある。「物」に「アルカタチ」、これが「イマージュ」の正しい訳である。大分前に、ははァ、これだと思ったことがある。……

―ベルグソンは、「イマージュ」という言葉で、主観的でもなければ客観的でもない、純粋直接な知覚経験を考えていたのである。さらに、この知覚の拡大とか深化とか言っていいものが、現実に行われていることを芸術家の表現の上に見ていた。宣長が見た神話の世界も、まさしくそういう「かたち」の知覚の、今日の人々には思いも及ばぬほど深化された体験だったのだ。……

―「古事記伝」には、ベルグソンが行った哲学の革新を思わせるものがある。私たちを取り囲んでいる物のあるがままの「かたち」をどこまでも追うという学問の道、ベルグソンの言う「イマージュ」と一体となる「ヴィジョン」を摑む道。哲学が芸術家の仕事に深く関係せざるを得ないというところで、「古事記伝」とベルグソンの哲学の革新との間には本質的なアナロジーがあるのを私は悟った。宣長の神代の物語の註解は哲学であって、神話学ではない。……

「アナロジー」は、類似という意味のフランス語だが、小林氏が、宣長の「古事記伝」とベルグソンの哲学の革新との間に本質的なアナロジーがあるのを悟ったのは、「大分前」のことだと言う。この「大分前」は、少なくとも「本居宣長」を書き始めてからのことではあるまい。昭和十七年六月、「無常という事」を発表した頃には……、と思ってみることも可能だが、遅くとも戦後の二十五年ないし六年、折口信夫を訪ねた頃にはもう確実に感じとっていたであろう。そのアナロジーが、「感想」から「本居宣長」へと舵をきらせたのではないだろうか、ということなのである。

 

小林氏は、「宣長の神代の物語の註解は哲学であって、神話学ではない」とも言っている。氏のこの言葉から、ただちに連想されるベルグソンの本がある。「道徳と宗教の二源泉」である。氏は、ベルグソン論「感想」の連載第一回で、こう言っていた、

―事件後、発熱して一週間ほど寝たが、医者のすすめで、伊豆の温泉宿に行き、五十日ほど暮した。その間に、ベルグソンの最後の著作「道徳と宗教の二源泉」をゆっくりと読んだ。以前に読んだ時とは、全く違った風に読んだ。私の経験の反響の中で、それは心を貫く一種の楽想の様に鳴った。……。

「事件」というのは、昭和二十一年八月、泥酔して水道橋駅のプラットホームから転落し、九死に一生を得たが肋骨にひびが入った事故をいう。ところが氏は、「感想」の連載第一回で上記のようにふれたきり、「道徳と宗教の二源泉」にはまったく言及していない。他の主著「意識の直接与件論」「物質と記憶」「創造的進化」については、それぞれ真正面から論じている、だが、「道徳と宗教の二源泉」は、いっさい手つかずのままなのである。

ここから思いを致してみれば、小林氏は、「感想」は、最後は「道徳と宗教の二源泉」に還るつもりでいたのではあるまいか。ところが、連載開始から四年を経て、第五十回にさしかかるあたりから現代科学の問題に直面し、次第次第に身動きが取れなくなっていった。その窮境打開の活路を、氏は「道徳と宗教の二源泉」と「古事記伝」との間に見出し、ベルグソンの「常識の立場に立つ哲学」を日本の読者に伝えようとするなら、これから先は「古事記伝」を読んでもらうのが上策だ、氏はそう思い決めて日本へ帰ってきたのではあるまいか。

「本居宣長」第五十章で、氏は言っている。

―宣長が、古学の上で扱ったのは、上古の人々の、一と口で言えば、宗教的経験だったわけだが、宗教を言えば、直ぐその内容を成す教義を思うのに慣れた私達からすれば、宣長が、古伝説から読み取っていたのは、むしろ宗教というものの、彼の所謂、その「出で来る所」であった。……

「道徳と宗教の二源泉」は、四章から成っている。第一章は「道徳的責務」、第二章は「静的宗教」、第三章は「動的宗教」、第四章は「結論 機械説と神秘説」であるが、このうち第二章の「静的宗教」では、まさに「宗教というものの出で来る所」が考察されている。たとえば、ほんの一例だがこういうくだりがある。

―天体は、そのかたちによっても、その運行によっても個性化されている。この地上に生命を配剤する天体が一つあり、その他の天体はそれと同じほどの力は持たないが、やはり同じような性質をもっているはずである。それゆえ、それらの天体も、神であるのに必要な条件をそなえている。天体を神として信仰することがもっとも体系的なかたちをとったのは、アッシリアにおいてである。だが、太陽崇拝、それにまた天を崇拝することは、ほとんどいたるところで見いだされる。たとえば、日本の神道では、太陽の女神が、月の神と星の神々をしたがえて最上位に置かれている。(中村雄二郎訳)……

そして、ベルグソンは言う。こうした神話が誕生したのは、人間に「仮構」「虚構」の機能が自然に具わっているからである。人間は夢想し、あるいは哲学することができるが、まず第一に生きなければならない、したがって、人間の心理的構造は、個人的、社会的生活を維持発展させる必要に基づいている。「仮構機能」もその一つである。では、この「仮構機能」は、どんなことに役立つか。小説、戯曲、神話等は、いずれもこの機能に依存している、小説家や劇作家は常にいたわけではないが、人類は宗教なしですますことは決してなかった。宗教は「仮構機能」の存在理由であった。人間の「仮構機能」が先にあり、その「仮構機能」のはたらく場として宗教が生まれた。人間の個人的、社会的な必要が、人間の精神にこの種の活動、すなわち「仮構活動」を要求したに相違ない……。

あたかも、これと照応させるかのように、小林氏は、「本居宣長」第五十章の、先に引用した箇所の続きで言っている。「古事記」の「神世七代」の伝説ツタエゴトに、宣長は何を見たか……、それは、

―「神世七代」が描き出している、その主題のカタチである。主題とは、言ってみれば、人生経験というものの根底を成している、生死の経験に他ならないのだが、この主題が、此処では、極端に圧縮され、純化された形式で扱われているが為に、後世の不注意な読者には、内容の虚ろな物語と映ったのである。……

―生死の経験と言っても、日常生活のうちに埋没している限り、生活上の雑多な目的なり動機なりで混濁して、それと見分けのつかぬサマになっているのが普通だろう。それが、神々との、真っ正直な関わり合いという形式を取り、言わば、混濁をすっかり洗い落して、自立した姿で浮び上って来るのに、宣長は着目し、古学者として、素早く、そのカタチを捕えたのである。……

―其処に、彼は、先きに言ったように、人々が、その限りない弱さを、神々の眼にさらすのを見たわけだが、そういう、何一つ隠しも飾りも出来ない状態に堪えているココロの、退きならぬ動きを、誰もが持って生れて来たココロの、有りの儘の現れと解して、何の差支えがあろうか。とすれば、人々が、めいめいの天与の「まごころ」を持ち寄り、共同生活を、精神の上で秩序附け、これを思想の上で維持しようが為に、神々について真剣に語り合いを続けた、そのうちで、残るものが残ったのが、「神世七代」の物語に他ならぬ、そういう事になるではないか。……

いささかならず、先走りしすぎた感はあるが、「感想」の第五十七回を思い煩いながらソヴィエト、ヨーロッパの旅を続けていた小林氏の胸中に、ある日、「道徳と宗教の二源泉」と「古事記伝」とのこういうアナロジーが浮上し、それが日に日に氏の脳裏を領していったと「思い出して」みることはできないだろうか。

 

それにしても、なぜあのとき、小林氏は「意識の直接与件論」でも「物質と記憶」でも「創造的進化」でもなく、「道徳と宗教の二源泉」を、「道徳と宗教の二源泉」だけを読もうと思ったのか、である。

「感想」の第一章を読み返してみよう。

―終戦の翌年、母が死んだ。……

と書き出され、「母が死んだ数日後の或る日、妙な経験をした」と言って、次のように「事実」が記される。

―仏に上げる蝋燭を切らしたのに気附き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見た事もない様な大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考えから逃れる事が出来なかった。……

これに続けて氏は、この「妙な経験」について様々に思いを巡らすのだが、この「妙な経験」を文章にしようとすれば、門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた、と書くことになる、つまり、童話を書くことになると言い、後に「或る童話的経験」という題を思いついたりしたとも言っている。

むろん氏は、この「妙な経験」も、「無常という事」の経験と同様に持て扱い、ひとまずは「或る童話的経験」という言葉で括っておいて、もうひとつの「忘れ難い経験」を語る、それが先に書いた、母の死から二ヶ月後の水道橋駅での転落事故である。持っていた一升瓶は微塵になったが、氏自身は胸を強打したらしかったものの外傷はなく、外灯で光る硝子ガラスを見ていて母親が助けてくれたことがはっきりした、と書いている。

こうして氏は、伊豆の温泉宿へ療養に赴き、「道徳と宗教の二源泉」を時間をかけて再読するのだが、

―以前に読んだ時とは、全く違った風に読んだ。私の経験の反響の中で、それは心を貫く一種の楽想の様に鳴った。……

と言う。

ここで言われている「経験」の意味するところは決して狭くはあるまいが、門を出るとおっかさんという蛍が飛んでいたという「事実」、そしてまたその母親が、自分の命を助けてくれたということがはっきりしたという「事実」、これが中心にあることはまちがいないだろう。こう書く直前で、氏は言っている。

―当時の私はと言えば、確かに自分のものであり、自分に切実だった経験を、事後、どの様にも解釈できず、何事にも応用出来ず、又、意識の何処にも、その生ま生ましい姿で、保存して置く事も出来ず、ただ、どうしようもない経験の反響の裡にいた。それは、言わば、あの経験が私に対して過ぎ去って再び還らないのなら、私の一生という私の経験の総和は何に対して過ぎ去るのだろうとでも言っている声の様であった。……

小林氏が、あのときは読者の早呑み込みを恐れ、慎重に避けた言葉でいま敢えて言えば、氏の言う「童話的経験」は、ベルグソンの言う「神話的経験」だったのである。氏が、「門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた」と書くことは、氏の精神に具わっている「仮構機能」の自然な発露だからである。

 

こういうふうに見通してみれば、「本居宣長」は、「感想」の大団円であったと言えるかも知れない。あるいは「感想」は、結果において、「本居宣長」の壮大な序幕であったと言えるかも知れない。もとよりこれは、揣摩臆測の域に留まるが、少なくとも「古事記伝」を熟読する小林氏の五体には、「道徳と宗教の二源泉」が沁み渡っていた、このことを念頭において「本居宣長」を読み返せば、ベルグソンを断念して本居宣長を選ぶ、それが自分の資質に適った最良の道だと決意した小林氏を思い出そうとするとき、「道徳と宗教の二源泉」は大事な「遺品」となるのではあるまいか。

 

「感想」断念の理由を、小林氏自身は明確にしていない。わずかに岡潔氏との対談「人間の建設」(同第25集所収)で、次のように言っているのみである。岡氏からベルグソンのことは書いたかと訊かれ、

―書きましたが、失敗しました。力尽きて、やめてしまった。無学を乗りきることが出来なかったからです。大体の見当はついたのですが、見当がついただけでは物は書けません。……

こうして「感想」は、小林氏自らの意志で永久封印された。

「感想」は本にしない、小林が死んだ後も絶対に本にはしてくれるな、全集に入れることも許さない……。小林氏本人から、私はこう言い渡された。だが私は、氏の遺言に背き、氏の死後、「感想」を第五次、第六次の「小林秀雄全集」に別巻として入れた。なぜそうしたかの理由は、それぞれ該当巻の巻頭に記した。

―著者の没後十数年を経る間に、かつての『新潮』連載稿に拠って、著者を、あるいはベルグソンを論じる傾向が次第に顕著となり、もし現状で先々までも推移すれば、著者の遺志は世に知られぬまま、著者の遺志に反する形で「感想」が繙読される事態は今後ともあり得るとの危惧が浮上した。よって、著作権継承者容認のもと、第五次「小林秀雄全集」および「小林秀雄全作品」に別巻を立ててその全文を収録し、巻頭に収録意図を明記して著者の遺志の告知を図ることとした。著者には諒恕を、読者には著者の遺志に対する格別の配慮を懇願してやまない。……

したがって、私は、もうこれ以上「感想」に立ち入ることはできない。今回ここで言及した雑誌連載第一回分のみは、昭和四十年五月、筑摩書房から中村光夫氏の編で現代文学大系第四二巻「小林秀雄集」が出た際、小林氏自身によって収録が認められている。昭和四十年五月といえば、「本居宣長」の『新潮』連載が始まった月であった。

(第十四回 了)