ご縁があって

本田 悦朗

多くの塾生の方々、そして読者の皆様には初めましてとなります。本田悦朗と申します。まずは簡単な自己紹介と今回寄稿させて頂くことになった経緯についてご説明致します。

 

私は五十歳、熊本県に住んでおります。三十代後半まではIT系のエンジニアをしておりましたが心の病を発症、自閉症シンドロームという障害も持っており社会的には結局適応できず、現在は主に中学生の家庭教師をやらせて頂きながらわずかに糊口を凌いでおります。

 

私が本誌『好・信・楽』のことを知ったのは、発行元である「小林秀雄に学ぶ塾」の池田雅延塾頭(※)が別途「Webでも考える人」に連載されている「随筆 小林秀雄」の第42回「上手に質問する」を読んでのことでした。私は、心脳問題に興味を持ち、小林秀雄先生あるいはベルクソンの著作からその解決の糸口を求めようと自分でも「二人静」(http://www.futarisizuka.org)というサイトを立ち上げてひっそりと活動しているのですが、最近は沈滞、専ら、小林先生の「考えるヒント」シリーズや「本居宣長」を読ませて頂いているばかりといった状況です。そのような状況で今年偶々池田塾頭の「随筆 小林秀雄」を知り非常に感銘を受け、是非一度、直接のご指導を頂きたい、開催されている講座を受けたい、と思うようになりましたが、何分地理的にも遠くその他の諸事情からもそれは叶わない夢だと諦めておりました。

 

とそこに、「随筆 小林秀雄」で『好・信・楽』のことを教えていただくことができたというわけなのですが、拝読しましたところ、連載のお二人の素晴らしい文章はもちろん、多士済々の塾生の皆様の個性的で味わい深い文章、その、もの学びの真摯な姿勢に感動すると同時に、様々な角度からの視点に刺激を受け、また、一種の告白文学の傑作としても、非才な私はそれこそ「花を眺めるように」拝読させて頂きました。

 

そこでお礼のメールを送らせて頂きました。すると、塾頭と編集部の方より丁寧な返礼のメールを頂き、喜び舞い上がっておりましたところへさらに今回、原稿のご依頼まで頂いたという次第です。

 

大変に名誉なことで、ここで改めて御礼申し上げたいと思います。九州の片田舎でひっそりと、余り訪れる人もいないサイトで活動も現在滞りがちの、私という片隅に光を当てるというその優しいご配慮になんとかお応えできれば良いのですが……。

 

私が最近特に興味を持っておりますのは、小林秀雄先生の「常識について」という作品(新潮社刊『小林秀雄全作品』第25集所収)です。個人的には、「本居宣長」の前になされたお仕事のうち「本居宣長」に重なる部分も多く、また、心脳問題に関係する人工知能を考えるうえで斯界の重要問題の一つでもあると考えるからです。

 

例えば、「本居宣長」で扱われている大きな問題に「言葉」の問題があると思います。塾生の皆様は、私よりお詳しいと思いますが、言葉とは、人々が使うものであるがゆえにそれ自身が自足した世界を持っているもの。そして人は知らず知らずのうちにそれを使えるようになるもの。さらに時代時代に移り変わっていくもの。

 

私は小林先生の「常識について」を読みまして「常識」も「言葉」と同じような性質を持つのだな、と気付かされました。それは、人々が共同生活をしていくうえで必要となる考え方であり、自分勝手なルールではありえず、人々がお互いにそして自分自身もよりよく生きていくうえで必要となってくる共通の知恵であること。それゆえに、個人に属するというよりはそれ自身が独立しているということ。誰しもが生まれつき使える知恵であること。そして、時代時代で移ろい行くものだからです。

 

さらに、私は、このような「常識」と「良心」には密接な関係があることと、小林先生が「良心」という作品で、

 

「彼の有名な『物のあわれの説』は、単なる文学説でも、美学でもない。それはむしろ良心の説と呼んでいいものである」(同第23集: p.84)

 

と仰っていることより、「常識」とは物のあわれを知ることとさえ言えるような緊密な関係があるのではないかと現在考えております。

 

さらに、その延長上には人々が生きていくための「道」がある。と言いますのも小林先生の「常識について」でも触れられていますが、「常識」を基盤としたデカルトの哲学の行き着く先の一つには「道徳」があるとされているからです。(同第25集: p.112)

 

さて、さらに似ている点を挙げれば、「常識について」の主人公デカルトはこの、人であれば誰しもが持っている知恵である「常識」を自分の哲学の中心に据えて、「自分の最上と信ずる方法を実行するのに九年かけた」(同 p.92)と書かれています。その点が、本居宣長が古事記伝を書くのに三十余年かけた、あるいは小林先生が「本居宣長」を執筆するのに十一年余りかけたというエピソードに似ています。

 

このように「常識について」はその難解さも含めて小林先生の「本居宣長」への助走とも前奏とも呼べるような共通点があり、その意味でも「常識」について考えることは「物のあわれ」や「物のあわれを知る心」あるいは「言葉」について考えることにも十分に役に立つと思われます。

 

しかしそれには、まず人間デカルトを理解しなければなりません。「常識について」はまず、そのように書かれています。ではデカルトとはどういう人だったか。「常識について」から端的にデカルトについて記述されている部分を挙げれば、彼は、「誰も驚かない、余り当り前な事柄に、深く驚くことのできた人」(同p.102)と表現されています。そういう人の哲学はどういう哲学であったかというと、小林先生は、

 

「デカルトは、常識について反省して、常識の定義を見付けたわけでもなければ、この言葉を、哲学の中心部に導入して、常識に関する学説を作り上げたのでもない。常識とは何かと問う事は、彼には、常識をどういう風に働かすのが正しく又有効であるかと問う事であった。ただ、それだけであったという事、これは余程大事な事であった。デカルトは、先ず、常識という人間だけに属する基本的な精神の能力をいったん信じた以上、私達に与えられる諸事実に対して、この能力を、生活の為にどう働かせるのが正しいかだけがただ一つの重要な問題である、とはっきり考えた。これを離れて、常識の力とは本来何を意味するかとか、事実自体とは何かとか、そういう問い方、言わば質問の為の質問というようなものは、彼の哲学には、絶えて見られない」(同p.86)

 

というような哲学だったと説明されています。ここから人間デカルトが描かれていくのですが、ここですべて説明することは不可能ですので、以上のように簡単にデカルトにとって常識がどういうものであったかという部分をご紹介するだけに留めます。

 

再び「言葉」と「常識」で共通している点に戻りますと、誰もが生まれ持っている「言葉」を使う働きや「常識」を使う働きも、よくよく考えてみると、意識的にそして辛抱強く育てなければ、実は本当の意味で満足に使うことができないということに気付きます。

 

これを小林先生は、「常識について」では「精神が精神について悟得する働き」(同 p.111)と言っておられますが、そう考えると「言葉」も一種の「精神」だと呼べるかもしれません。それは、「好・信・楽」2018年2月号で溝口朋芽氏が、同3月号で小島奈菜子氏が考察されているような言葉の「しるし」としての働きに近い物があるのかもしれないと思います。小島氏は、「第34〜35章では、神の名について『徴』という語が使われていたが、ここでは同じことが詠歌について言われる。神の名を得る言語の力は、歌をかたちづくる力と同じ、『徴』を生み出すはたらきなのだ」と考察されています。それを、小林先生が、「本居宣長補記Ⅱ」において、「実生活の上で、欲と情とは分ち難く混じているものだが、『歌の本然』を知らんとする者は、両者の原理的な差別に想到せざるを得ない」とした上で、「欲から情への『わたり方』、『あづかり方』は、私達には、どうしてもはっきり意識して辿れない過程である。其処には、一種の飛躍の如きものがある。一方、上手下手はあろうが、誰も歌は詠んでいる。一種の飛躍の問題の如きは、事実上解決されているわけだ」(同第28集p.367)と記述されていることと関係づければ、「智慧が成熟し、純化して、自得の働きそのものと化する時を待」つこと、すなわち「精神が精神を悟得する働き」と同様の構造があるように思われます。

 

そしてこれらのことは、小林先生が「還暦」という作品で言われている「円熟」と関係しており、それは、「何かが熟して来なければ、人間は何も生む事は出来ない」(同第24集 p.121)ということであり、また、それは、ソクラテスや孔子の学問の基盤としての「人の一生という、明確な、生き生きとした心像」(同第24集 p.126)という言葉、すなわち「学問は死を知るにある」ということにもつながってくるような気がしています。

 

以上、駆け足で拙いながら現在私の考えていることを述べさせていただきました。小林先生の著作の部分部分を切り合わせてしまったところも多く、できるだけ原文に忠実でありたいと努力いたしましたが、十分に小林先生の意を汲めているかどうか。しかしながら、これをもって私の「人生素読」に代えさせて頂ければ何より幸いです。

 

※勝手ながらここでは敢えて塾頭と呼ばせて頂いております。あとでも説明していますが、小林秀雄に学ぶ塾に入塾したいと思って果たせずにいるところに今回のお声掛かりがありましたので、私も入塾したつもりで塾頭と呼ばせて頂くことにさせて頂きました。ご不快に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いいたします。

(了)